長尾 三郎 魂を彫る 目 次  序 章  第一章 救いなき魂の彷徨   1 嵐の日の昭和改元   2 「このままでは日本が滅びる」   3 野辺送り   4 不敬罪で獄中生活  第二章 無明の闇を生きる父子   1 京仏師の系譜   2 妻の死   3 涙の離別   4 生と死のはざまで  第三章 仏のいる風景   1 慈悲と愛   2 戦後の生々流転   3 救いを求めて  第四章 修羅の魂を彫る   1 「仁王の松久」   2 朋琳と宗琳   3 父子二代の「大仏師」   4 魂の相剋   5 木の中の仏を迎える  終 章  あとがき  文庫化にあたって  引用・参考文献 [#改ページ]   序 章 「中門《ちゆうもん》の仁王像を再興するので、その候補として原型を提出してほしい」  四天王寺の出口|常順《じようじゆん》管長からこう内示があったとき、松久朋琳《まつひさほうりん》は一瞬、ほんまでっか、と聞き返した。それから、魂がふるえるような感動が全身をつつんだ。青天の霹靂《へきれき》のごとく、突然|天降《あまくだ》ってきた話だった。  四歳のときに京仏師・松久家に養子に入って以来、この道五十年、一筋に仏を彫り続け、今では「京仏師の松久」と名を知られている朋琳であったが、朋琳は子供のころから仁王像に憧れて、京都博物館にあった伝《でん》運慶の金剛力士像を何度見に行ったかわからない。いわば、仁王像を彫りたくて仏師になったといっても過言ではなかった。そこへこの話である。  これまでも仁王像を彫ったことはあった。愛媛県の名刹・出石寺《しゆつせきじ》の仁王像がそうだったし、出口管長から内示があったときは、京都の霊山《りようぜん》観音の仁王像を息子の宗琳《そうりん》と一緒に協力して彫っている最中だった。が、四天王寺の仁王像を彫るというのは、仏師にとって最高の名誉である。 「お太子《たいし》さんがつくらはった日本最古の大寺の仁王さんを彫れるいうたら、それこそ千年に一遍めぐりあえるかどうかもわからん名誉や。こんな千載一遇の機会を与えられるなんて、ほんまに仏さんのはからいや」  密かに心に期す朋琳の言葉に、息子の宗琳がいった。 「昭和の仏師として、運慶や快慶にも負けんような仁王さんをつくって、後世に残さなあかんなあ」 「天王寺さんの仁王さんのいはる門の上には鳥が飛ばぬ、というのが天王寺さんの七不思議の一つにあげられてんのや。そのくらい威厳のある仁王さんやないとあかんちゅうこっちゃ」  朋琳の心の中で、崇仏敬神、京仏師の魂が、わが国に仏教を招来した聖徳太子の理想と向かいあっていた。 「天王寺さん」と庶民に親しまれている大阪の四天王寺は、聖徳太子が創建した日本最初の大寺・大|伽藍《がらん》である。  日本に仏教が伝来したのは、公伝では欽明《きんめい》天皇十三年(五五二)とされているが、その仏教をめぐって、崇仏派の蘇我馬子《そがのうまこ》らと排仏派の物部守屋《もののべのもりや》らが激しく相争ったことは歴史の示すとおりである。この両派の激戦のとき、当時十四歳であった厩戸皇子《うまやどのおうじ》、のちの聖徳太子は、崇仏派の馬子軍の後尾に随っていたが、味方が苦戦するのを見て、白膠木《ぬるで》をもって四天王の像をつくり、「もしこの戦いに勝利を得さしていただくならば、伽藍を建てて四天王を祀ります」と祈請《きしよう》した。  霊験《れいげん》はあらたかで、馬子軍は盛り返し、守屋は戦死、相手軍は壊滅した。そして蘇我軍が勝利をおさめたことによって、わが国に仏教興隆の気運が高まってきた。厩戸皇子は難波|玉造《たまつくり》の地に堂塔を建立して念願を果たし、その後、二十歳のときに摂政皇太子になるにおよんで、現在の地に移し、日本最初の官寺として、大々的に四天王寺を造営したのであった。  四天王寺の建立とその縁起については『日本書紀』に詳しいが、それによると、推古天皇元年(五九三)に造営が始められたことが記されており、推古朝の前半ころには、主要伽藍ができあがっていたことがわかる。  その伽藍様式は、中門(仁王門)を入ると五重塔があり、金堂《こんどう》、講堂の順に南面して建てられ、中門と講堂を結んで左右に廻廊がある。一般に四天王寺式と呼ばれるもので、これは現在の法隆寺式よりも古く、日本で最古の様式である。  四天王寺は創建以来千三百数十年の歳月の間に、落雷、地震、兵火などで幾度となく罹災し、そのたびに不死鳥のように再建に再建を重ねてきた。昭和に入ってからも、昭和九年の室戸台風で五重塔と中門が倒壊し、金堂が傾き太子|殿《でん》が破損。これを再建したのも束の間、昭和二十年三月十三日の大阪空襲で、六時堂を残して伽藍のほとんどを焼失してしまった。  しかし、戦災後十八年間、出口管長らが一山《いつさん》をあげて再建復興に全力を傾注し、大阪市の南部、上町《うえまち》台地の旧跡に往古の大伽藍を再現しようとしていた。そして中門に安置し、正法《しようぼう》護持、鎮護国家の守護神である仁王像を朋琳に懇請してきたのである。日本が高度経済成長期に入ろうとしていた昭和三十六年のことで、この年、朋琳は六十歳、息子の宗琳は三十五歳だった。  朋琳が感激したのは、四天王寺が日本最古の大寺、聖徳太子創建の寺、日本仏教発祥の寺、という理由からだけではなかった。  四天王寺は、昭和二十一年に、長らく所属してきた天台宗から独立して「和宗《わしゆう》」となっていた。これはいうまでもなく、聖徳太子の憲法十七条の冒頭にある、 「和を以って貴しとなし、忤《さから》うること無きを宗《むね》とせよ」  からきており、いわゆる一宗一派に偏らず、日本仏教の源流に立ち返り、太子精神を現代に生かそうという精神から発していた。そこが他の宗派の寺院とは大きく異なっている特質で、そのためか、とくに春秋二回の彼岸会《ひがんえ》などは、宗派を超えた庶民たちが「天王寺もうで」に百数十万人もくりだしてにぎわっている。朋琳は、そういう人びとのためにこそ、自分の仁王像をつくりたかったのだ。 「天王寺さんは庶民の寺や。わたしもこれまで、英雄とか偉い人とかにはおよそ縁のない平凡な一仏師として生きてきた。仏像は、藤原仏のように、一部の特権階級の人だけが拝むようなものやったらあかん。それは仏さんの意思に反することや。広大無辺の慈悲をさえぎる行為や。仏像はあらゆる人たちに拝んでもうてこそ、仏の慈悲にかなう。わたしら仏師はその心がまえで一刀三礼、ノミをふるわなあかん」  朋琳の心はそこにあった。息子の宗琳や若い弟子たちにもそう説いた。そういうときの朋琳は、五尺そこそこの小柄な体ながら、威厳が全身にあふれていた。白髪のまじった蓬髪、風雪にたえてきた顔は柔らかい微笑を浮かべているが、鋭い光をにじませた眼は強い信念を宿していた。  四天王寺の伽藍再興には、京大の藤原義一、村田治郎、東大の藤島|亥治郎《がいじろう》といった斯界《しかい》の権威が諮問委員に名を連ねていた。出口管長ら一山の悲願は、かつて日本の表玄関だった難波の港のこの旧跡に、再び創建当時の飛鳥様式そのままに、四天王寺式伽藍を再興することにあった。  それだけに出口管長は当初、中門の仁王像にたいしても、現在では世界最古の木造伽藍、法隆寺の仁王像をイメージしており、朋琳にもその旨を表明した。そのため朋琳は、これまでも見なれてきた法隆寺の仁王像を、こんどは実物を測定しに行き、塑像《そぞう》もこしらえてみた。  法隆寺の仁王像は、和銅四年(七一一)に制作されたことがわかっており、現存最古の金剛力士像であるが、当初のものは頭部だけで、体躯は後世のものに変わっている。しかも土つくりの塑像である。木で仏を彫る朋琳は、傑作であることは認めるが、もうひとつ、ピッタリくるものがなかった。 「阿《あ》形はちょいちょい見受ける型やけど、吽《うん》形の右手が開いて、掌を下に向けているスタイルな、こら、意表を突いた、特殊な構えかたや。わたしには想像つかんスタイルや。こんな姿の仁王さんはほとんどあらへん。躍動しとるわ。顔もなかなかユーモラスで、力がある。阿形のほうはちょっと弱い感じがしますな。もっとも、わたしらの追随を許さへん傑作やけどな」  朋琳はそう感想をもらした。そういう心の奥には、わたしは昭和の仏師や、古いのをいくら模刻しようと結局それは真似に終わる、わたしだけにしかつくれない昭和の|におい《ヽヽヽ》のする仁王さんを彫ってやる、という激しい意欲が燃えたぎっていた。 「わたしら仏師は、古来よりの仏像のお姿を守った上で彫造しとりますが、けど、ただただ昔ながらの形を彫っているだけでは、現代に生きている仏師としての役目が果たせまへん。昭和に生きているかぎり、いま現在の仏像があってもええんやないかと思います」  朋琳は思う存念を率直に出口管長に披瀝《ひれき》した。 「わかりました。おまかせしまひょ」  と出口管長はいったが、朋琳がどんな仁王像を造仏するか、それは朋琳がこれまでつくった仁王像を見れば、おおよその見当はつく。幸い、霊山観音の仁王像が完成ま近だった。  京都の東山、高台寺《こうだいじ》の南隣にそびえる霊山観音は、地元の実業家が戦没者の慰霊のためにつくったもので、朋琳はその実業家から、山門の仁王さんを彫ってほしい、と依頼されて、これにとりかかっていた。その一対の仁王像はいまも拝観することができるが、完成したのが昭和三十六年。さっそく出口管長や藤島亥治郎博士らが、その仁王像を見にいった。出口管長が感嘆した。 「うーん、見事なできや。えろう結構な仁王さんですなあ。この型でやってもらいまひょ」  ただし、一つだけ条件を示した。 「彩色はやはり朱と青のほうがよろしいな」  霊山観音の仁王像は、施主の希望で、金色にしてあった。往古の仏師は、国家権力や貴族階級の庇護のもとに仏像をつくったが、現代の仏師は仏心あつい篤志家や施主、いわゆる買ってくれるスポンサーがいなければ、せっかく彫った仏像も陽の目を見ることはなく、いわんや仁王像などの大きな仏像は予算的に彫ることができない。魂の自由を何よりも求める仏師ではあるが、施主のたっての希望であれば、それをむげに断わることができないのが、現代の仏師の辛いところであった。  いよいよ四天王寺の仁王像に取りかかるという昭和三十七年の春。  朋琳は、東山三条の九條山《くじようやま》に工房を設けた。東山有料道路の三条側登り口から、少し急な坂を登っていくと、山ふところに閑静な台地がある。その一画に七十二坪ほどの土地を購入し、ささやかな工房兼家屋を建てて移り住んだ。  朋琳は昭和十二年に、極貧生活のどん底で妻を亡くして以来、再婚することなく、男手ひとつで五人の子供を育てあげ、いまもヤモメ暮らしだったから、工房に移り住むことはかえって都合がよかった。息子の宗琳はすでに結婚して二人の娘がいた。宗琳のほうはこれまでと同じく新丸太町《しんまるたまち》の借家に住み、そこから九條山に通ってきた。九條山の土地は、宗琳の妻・芳子《よしこ》がなんとか工面して、八十五万円を三年ローンで支払う約束で、やっと求めたものだった。  朋琳は六十歳にして初めて自分の「砦《とりで》」、工房を持った。そして「京都仏像彫刻研究所」を設立した。といっても、朋琳と宗琳父子、それに若い弟子が三人、出口|雅章《まさあき》(現・翠豊《すいほう》)、今村|美知世《みちよ》(現・宗円)、江里康則《えりやすのり》の五人だけのスタートであった。が、明治以後、京仏師としては画期的な山門の仁王像の造仏という千載一遇の仕事に、それこそ寝食を忘れて取り組む日々が始まった。 「ええか、仁王さんというのはな……」  朋琳は、若い弟子たちに、これまで自分が培ってきた思索と技法のすべてを注ぎこんだ。  仁王像は二王とも書き、二天、仁王尊ともいうが、もともとはインドの護法善神の一つで、中国を経て日本に伝わり、わが国では中古以来、金剛力士、密迹《みつしやく》力士、あるいはたんに金剛・力士と呼んでいる。金剛像は「阿形」、つまり口を開いた形をしており、力士像は「吽形」、口を閉じた形で、左右一対で阿吽の相をなしている。 「阿は陽、吽は陰や。男と女、光と陰、無と有、虚と実……この世のことはすべて阿吽から成り立っているわけや。つまり、この世は阿吽ということやな。けど、お寺の門をくぐったら真如の世界、絶対の世界やな。この世の雑念、雑事を門の内側に持ち込んだのでは、真の祈りにはならん。そこで仁王さんは、山門を入る衆生《しゆじよう》に、阿吽の世界を持ち込むのではないぞ、という務めを果たしてる。また伽藍の守護者やから、仁王さんはあんなに恐い忿怒形をしてはる。体つきも逞《たくま》しく大きくないといかんというわけや」  朋琳は話し上手だった。 「禅寺では、葷酒《くんしゆ》山門に入るを許さず、とあるやろ。あれも同じこっちゃ。葷酒とはネギやニラのように臭いがきつい野菜と酒のことや。つまり、この世の煩悩やな。これが浄念を乱すもとやから、こんなものは一切まかりならん、と山門の傍らの戒壇石に刻んである」 「先生は入れへんわ」  弟子の一人がまぜっ返すと、 「ハハハ、わたしなんかは真っ先に禅寺では断わられるやろ」  酒好きの朋琳は、ややしわがれた声で笑ったが、しかし、仁王像を刻むときの朋琳の姿は、別人のように京仏師の敬虔《けいけん》さを漂わせていた。  朋琳の朝は早い。起きてすぐ身を清めると、毎朝、弟子たちと一緒に般若心経を唱えるのが日課だった。無念無想で祈ると心の雑念が払われ、さあやるぞ、という気持ちがわいてくる。毎朝の読経はその場で終わるが、祈りの心は仕事中ずっと持ち続けて、仁王像と取り組むのだ。  四天王寺の阿吽の仁王像はともに一丈五尺(約四・五メートル)もある巨大な仏像で、これをつくるのはたいへんな技術と労力を要する。仏像彫刻の技術にも、長い歳月の間に仏師たちの知恵と経験が生み出した変遷が刻み込まれていた。  奈良時代の木彫仏は、ほとんどが全身を一本の霊木から丸彫りする一木造りだったが、丸彫りだと、木心からひび割れができるし、大きい仏像ほど重さもかなりのものとなり、木材も少なく、しかも造仏作業も簡単ではない。そこで藤原時代になると、「寄木《よせぎ》造り」という工法が編み出された。宇治平等院鳳凰堂の阿弥陀如来像をつくった大仏師|定朝《じようちよう》が、その寄木造りの大成者とみなされている。  さらに鎌倉時代になると、東大寺の仁王像をつくった運慶、快慶らが「賽割《さいわ》り法」という新技法で、巨大な仏像をつくった。詳しい工法はのちに述べるが、朋琳は四天王寺の仁王像の制作にあたって、この賽割り法を使った。この技術は、息子の宗琳と共同で苦心をかさね、鎌倉時代以来すたれていたものを再現し、すでに愛媛県の出石寺、霊山観音の仁王像で実証済みだった。  朋琳はいわば運慶や快慶らと同じ賽割り法の技法を駆使して、昭和の仁王像をつくろうとしていた。日本の木彫仏の伝統的な技法を正統に受け継ぎ、これを工夫改良して次代に渡すのも、運慶ら慶派につながる仏師としての使命だと、朋琳は思っている。  仁王像に使う木材もたいへんな量を必要とした。材料は極上の尾州《びしゆう》ヒノキである。朋琳は、四天王寺の南谷|執事長《しつじちよう》らと同行して名古屋にある熱田《あつた》の営林署へ出向き、自ら良質の木曽ヒノキを五十石(一石は一尺=約三十センチ角で、長さが一丈=約三メートル)選び出したが、いざ着手してみるとそれでも足りず、追加したほどだった。  伽藍の造営のほうは、五重塔が昭和三十四年、金堂が三十五年、講堂が三十八年という具合に着々と竣工し、壮大な大伽藍が姿を現わそうとしていた。伽藍は不燃性などを考慮し、鉄骨鉄筋コンクリート造り、屋根は本瓦葺きという構造形式である。  朋琳たちは、三十七年六月からは、四天王寺に泊まり込みで、いよいよ一丈五尺の仁王像の巨体の組み立て作業に入った。金堂が完成するまで、仮のお堂にしていた場所が空いたので、そこを作業場とした。そして明けて三十八年の二月、ついに一対の仁王像ができあがった。  阿形は、カーッと見開いた眼が吊り上がり、裂けた口もとからは炎をふき出しそうな忿怒の形相。吽形は、口をぎゅっとヘの字に閉じて、眼光鋭くあたりを睥睨《へいげい》する。胸の筋肉逞しく、台座を踏みしめた足の筋肉の力強さ、猛々しいまでに全身には緊張感がみなぎっていた。  仁王像の足には台座のほぞに差し込む足駄をはかせている。朋琳がそこに「仏師松久朋琳」と墨書していると、出口管長がそれを見ていった。 「なんで大仏師と書かんのや」 「大仏師号をいただいてもおりませんのに、そんなことできまへんがな」  朋琳が答えると、出口管長が即座に朋琳の手をとった。 「そらいかん。あんたは昭和の大仏師や。ただいまから大仏師を名乗りなはれ。四天王寺が授けます」  四天王寺の「大仏師」を名乗ることを許されたのは、明治以来、朋琳が初めての栄誉だった。この上ない名誉に、朋琳は感涙し、仏像をコツコツと彫って五十年、愚鈍のように生きてきた苦労が一気に報われた思いがした。  昭和三十八年はアジアで最初に開催される東京オリンピックの前年にあたり、日本中が興奮にわいていた。その一方で日本人の仏心が四天王寺に集まっていた。この年十月の四天王寺復興記念大|法会《ほうえ》にさきだち、三月に中門の仁王像|開眼《かいげん》法要が営まれた。この仁王像は、大阪の著名な財界人がつくっている大相撲の後援団体が四天王寺に寄贈したものである。そのため当日は柏戸、大鵬の両横綱が豪快、華麗な土俵入りを奉納して、境内を埋め尽くした参詣人たちの盛大な拍手をあびた。ここに朋琳一代の傑作が完成した。  さらに名誉が重なった。この年十二月、朋琳は「日本仏教の母山」といわれている天台宗比叡山延暦寺からも「法橋《ほつきよう》」という号を授与された。「法印《ほういん》」「法眼《ほうげん》」の次に位する最高の名誉ある僧位だった。また昭和四十五年には、身延山久遠寺《みのぶさんくおんじ》からやはり「大仏師」号を授けられた。  朋琳は「仁王の松久」の異名をとり、名実ともに「昭和の大仏師」となった。だが、ここまでたどり着くためには、明治、大正、昭和という時代に翻弄され、凄まじいまでの極貧生活の中で、悲惨きわまりない相次ぐ肉親の不幸に慟哭《どうこく》し、息子宗琳と魂の葛藤を繰り返すなど、一個の人間として、大仏師として、想像を絶するような修羅の魂の彷徨《ほうこう》があった。この本は「心の王国」を求めた父子二代の魂の遍歴の記録といっていい。 [#改ページ]   第一章 救いなき魂の彷徨   1 嵐の日の昭和改元 「貧乏なんていう生易しいものではなかった。母も妹も満足な治療も受けられずに死んだんです。ぼくの足だって、金さえあればこんなにならなかった。父は仏像だけ彫って、家庭を顧みようとはしなかった。夫として父としては責任を果たさなかったと思いますよ。ぼくはいまでも、父に対しては、愛憎半ばする複雑な気持ちを持っています」  宗琳の右足には六十五歳のいまも、貧乏の時代の後遺症が残っている。息子が語る父朋琳の姿は、「家庭|破綻《はたん》者」とでもいうべき修羅にみちたものだった。  朋琳、宗琳と名乗るのはずっとのちになってからで、父の本名は松久|茂次《しげつぐ》といい、長男の名前は武雄《たけお》という。武雄は大正十五年二月十四日、父茂次と母|婦美《ふみ》の間に長男として、京都市下京区寺町の路地裏の小さな借家で生まれた。父松久はそのころ、天理教にのめり込んでいた。婦美と見合い結婚をしたのは前年、大正十四年のことだが、婦美と見合いをしたのも、天理教関係者の紹介によるものだった。  その関係者は伊吹宗三郎という熱心な信者で、養父松久|丈五郎《じようごろう》の甥にあたっていた。婦美は旧姓松宮、福井県|大飯《おおい》郡|本郷《ほんごう》村字岡田(現大飯町)の農家の娘で、そのころ京都に出て、信者仲間の家の手伝いをしていた。結婚式もやはり伊吹の教会で挙げた。そのとき松久は二十五歳、婦美は二十三歳だった。婦美は丸顔の美人で、松久が高尾《たかお》の紅葉見物を名目に見合いしたおり、一目惚れしたのである。  路地裏の借家は、階下が二間、二階が二間の穴倉のような家で、家賃が八円だった。そこに移ったのももとはといえば、松久が天理教にのめり込んだあげく、寺町通り松原上ルにあった「御仏師」の看板を掲げた松久の店を八百円で売ってしまったからである。その当時、現在の河原町通りはまだ狭く、京都駅から中心街への目抜き通りは、この寺町通りだった。養父の代からの店を手放して手に入れた八百円も、そのことごとくを天理教に注ぎ込んで、何も残らなかった。  松久は二十二歳のとき、無一文で仏師として独り立ちしたが、そのころ、仏師といっても仕事がなく、位牌の文字を彫って糊口をしのいでいた。普通のもので八十銭、一円から一円五十銭というのが相場で、豪華なもので二、三円だった。米一升五十銭の時代で、もう食うことに追われていた。たまに仏像が売れるので、何とかかつかつで生活することができたが、路地裏の借家に移ってからも、せいぜい働いても月に三十円前後、そのなかから八円の家賃を払い、天理教の教会にも納めて生活するのは並たいていのことではなかった。結婚したばかりの妻、婦美は家計のやりくりに毎日頭を痛めていた。  二十六歳で若い父になった松久は、穴倉のような借家で売れない仏像を彫り、内職に位牌の文字を彫る。暗澹《あんたん》とした生活の中で、その分いっそう天理教に唯一の救いを求めていった。  そんな若い仏師のもとにでも、弟子にしてほしい、という奇特な少年が現われた。武雄が生まれた三ヵ月後の五月、藤本陽二という十五歳の少年が親に連れられてやってきた。 「わたしんとこは泉南《せんなん》(南大阪)の真宗の寺でおますが、息子を一人前の職人にしとうおまして、ぜひ仏さんつくりを仕込んでもらいとうおます」  そう頼まれて、松久はびっくりした。 「ご覧のとおり、うちはこんなあばら家や。内弟子なんかおける世帯やあらへん。それにいまどき仏師なんて食えへんで。どこぞ、よそさんで頼みなはれ」 「いや、この子は最初、ある仏具屋さんに預けたんでおますけど、どうしても仏さんを彫りたい、といいよりまして。よろしゅうお頼み申します」  ぜひにと頼まれ、根が人のいい松久は、わが家の世帯も顧みず、断わりきれなくなってしまった。こうして二十六歳の若い仏師に、第一号の内弟子がさずかった。  藤本陽二は明治四十五年三月の生まれで、師匠の松久より十一歳下。紅顔の美少年だった第一号の内弟子も七十八歳となり、現在は木彫作家として活躍しているが、藤本が懐かしむ。 「あのころの朋琳さんは極端に貧乏な時代やったね。位牌を彫ったり、仏像の手などを修理してましたよ。内弟子とゆうても、そのときは仏具屋から通ってまして、小遣いなんかももらえませんから、家から仕送りしてもろてました。五円くらいですかな。住み込むようになったのは、次の森ケ前町に越してからですわ」  松久は、妻の婦美が必死に家計のやりくりをしているのに、夕方になるとふらりと外へ出て行くことが多かった。そんなときは、どこに飲ませる店があるのか、酒に酔って帰ってきた。将棋を差しに行くこともあった。酒と将棋がやり場のない生活の吐け口のようだった。酒と将棋は「大仏師」となってからも、朋琳の生活から切り離せなかった。  藤本が内弟子に入って間もなく、師匠はその酒でとんでもない失敗をやらかした。  円山《まるやま》公園の南端に、天明三年(一七八三)に建てられた芭蕉堂がある。茅葺《かやぶ》き屋根の東屋《あずまや》で、そこに松尾芭蕉の木像が安置されていた。このあたり一帯は真葛《まくず》ケ原といい、昔から花の名所として知られ、池大雅や円山応挙など風流人の遺跡が多い。かつて西行も、この地にあった阿弥陀房という庵《いおり》を訪れて、   柴の庵《いお》と聞くは悔しき名なれども 世にも好もしき住居《すまい》なりけり  と詠んだ。のちに西行の跡を慕ってこの地に詣でた芭蕉が、西行の歌をしのんで、   しばの戸の月やそのままあみだ坊  という俳句をつくったことから、この地に芭蕉堂が建てられ、俳聖の木像が安置されて昭和まで語り継がれてきたのだった。  松久はこの芭蕉の木像の模刻を依頼された。ところが帰路、少し酒を飲んで帰る段になって、持参しているはずの大事な木像が手もとにないことに気がついた。 「しもた、どこかに忘れてきてしもた。これはえらいこっちゃ」  松久は真っ青になって、どこで失したか必死になって思い返すうち、途中で自動電話(今の公衆電話)をかけたことに気がついた。そうだ、あそこや、松久は急いでそこに駆け戻ったが、もはや木像はそこになかった。 「えろう青うなって、意気消沈してましたわ。けど、どないしても芭蕉さんは出てきよらへん。結局あきらめて、記憶を頼りにその木像を再現しやはった。これがまた見事なできですねん。芭蕉堂にはどう謝りはったか知りませんけど、今も朋琳さんのつくらはった芭蕉像が昔からのものとして安置されているのと違いますか」  藤本が明かすように、松久はそのころからどこか世俗離れがして、飄々《ひようひよう》としているところがあった。その失敗があったあとも、酒は松久についてまわった。寺宝ともいうべき芭蕉の木像を紛失してしまったのだから、普通ならえらい騒ぎになるところだったが、松久の人柄からか、その問題はそれで不問にふされた。というのも、松久が預けられたときに見た記憶だけで彫った木像が本物に勝るとも劣らない見事なできばえだったからであろう。  仏師としての腕は確かだったが、しかし、松久にとっては、世にいれられない憂悶の日々が相変わらず続いていた。そこへ今度は実母が連れ合いと転がり込んできた。あとで述べるように、松久をめぐる肉親関係は非常に複雑だった。  仕事場を兼ねた狭い借家に、武雄が生まれたばかりの松久夫婦と養母、それに転がり込んできた実母と連れ合いが一緒に住んでおり、息がつまりそうだった。藤本だって通いにくい。松久はその年の暮れ、寺町の借家は実母たちに明け渡し、またも引っ越しをする羽目になった。  朋琳は最後に九條山に落ち着くまで、生涯に十回近く京都市内を転々と引っ越しをすることになるが、今度越した先は左京区|下鴨《しもがも》森ケ前町で、高野《たかの》橋から南へ二百メートル、高野川べりに近い田んぼの中にできた新興住宅地だった。五軒長屋の二階建ての借家で、家賃は十五円。階下は二間で松久親子と養母が生活し、藤本は二階の三畳間に住み込むことになった。  借家は西向きの家で、高野川の清流に面しており、千メートルほど南へ行くと下鴨神社の糺《ただす》ノ森にぶつかる。自然環境は申し分なかった。この借家も天理教の縁で見つけたものだった。近くには下鴨警察署があった。  その日、京都は大雪が降っていた。  森ケ前町の借家は、静かな環境で、松久は満足していたが、交通の便が悪かった。バスはなく、市電に乗るには出町《でまち》まで二十数分も歩かなければならなかった。不便な場所へ引っ越したので、自然に仏具屋の足も遠のいてしまう。これは計算が狂った。それでなくても苦しい生活がさらに逼迫《ひつぱく》した。寒くても炭が買えず、火鉢に木の葉や木屑を燃やして辛うじて暖をとるありさまだった。  食べ物もろくになかったから、妻の婦美は赤ん坊の武雄をつれて、寺町の実母の家にときどき行っては、飢えをしのいでいた。その日も松久は、赤ん坊を抱いた妻を寺町まで送り届けたあと、一緒につれてきた弟子の藤本にこういった。 「この手紙を持って、仏具屋さんまで行ってきてくれ。用件は手紙に書いてあるさかい、相手が渡すものをもろてくればええ。わたしはここで待ってるわ」 「手紙をただ渡せばええんでっか。そんならちょっと行ってきます」  藤本は師匠から手紙を手渡されると、指示された近くの仏具屋に走った。仏具屋の主人は、駆け込んできた松久の小僧をジロッと見ると、藤本が出した手紙を読んだ。次の瞬間には吐き捨てるように口汚なく罵った。 「五円借してほしいやと。アホくさ。貸す金なんてあらへん。よう性懲りもなく借金の申し込みばかりしよって。あかん、あかん。とっとと帰ってそういいなはれ」  その手紙は借金の申し込みだった。切羽つまった松久が仏具屋に泣きついたのだが、相手にもされず、藤本は店先から追い返された。 「先生、殺生でっせ。都合悪いことだけぼくにさせて」  赤っ恥をかかされた藤本が戻って、若い師匠につい愚痴ると、がっくりした顔で松久が天を仰いだ。 「やっぱりあかんかったか。弱ったな、電車賃もあらへん」  とぼとぼと二人で歩くしかなかった。何とかあてにしていた借金が断わられたとあっては、一文無しで手土産も買えず、寺町の実母の家に妻子を引き取りに寄ることもできない。松久と藤本の若い師弟は、雪の道を重い足どりで下鴨のほうに向かって歩き出した。 「冷たいもんどすなあ。仏具屋さんて、先生のつくらはった仏像や仕事はひったくるように持っていくくせに、困ったときには五円も貸してくれへんなんて」  多感な藤本は腹が立って、今度は貧乏な師匠に同情した。 「世の中とはそうしたものや」  若い師匠は変に達観していた。 「仏具屋かて商売や。いうてみれば金儲けが仕事や。むろん仏心のあつい仏具屋さんもおるけどな。だいたいな、もともと仏具屋というのは仏師やったんや。仏師のなかから、経営の才のあるもんが仏具屋になって、お寺とか一般の家庭とかの需要者から注文を取って、ソロバンをはじくようになったんや」 「はあ、仏具屋も仏師でっか」 「そうや。徳川の中期から、そういう目から鼻に抜けるような利にさとい仏具屋が出てきたんや。それが仏教の堕落の始まりや。考えてもみい。仏具屋はええ仏さんをつくるというより、一にも二にも売ることばっかり考えて商売しとるから、仏心なんてとんと無うなってしもうてるわ」 「そうどすなあ」 「そやから、仏師にも売れるものだけを要求しよる。仏さんは拝むものという信仰心が失せてるさかい、それは単なる商取引きや。仏師かて、仏具屋にさかろうて、怒らせると、仕事をもらえんようになり、生活にひびくから、ソロバンにあわせた仏づくりをするようになったんや。えらい浅ましいこっちゃ」  松久は、仏教の堕落について語るときだけ、口調に激しい熱をおびてきた。 「仏師も仏具屋も堕落しとるから、世間も相手にせんわ。だから明治になると、廃仏|毀釈《きしやく》でさらに打撃を受けたんや」 「廃仏毀釈て何でっか」  内弟子になってまだ日が浅い十五歳の弟子が訊いた。 「それはな、明治になって国が神道を中心にした政策を取ったもんやから、仏教が冷遇されて、仏像なんかずいぶん毀されたんや。�仏ほっとけ、神かまえ�なんて戯《ざ》れ歌がはやったくらいや。八坂《やさか》の塔なんか五両で売りに出されても誰も買い手がつかん時代になってしもた」 「たったの五両でっか、そんなアホな」 「嘘みたいなホンマの話や。そのくらい仏教は世間から相手にされんようになってしもた。仏師も仏さんを彫るどころの騒ぎやない。うちのおやじがそうや。仏具屋も息をひそめるしかないわな。これでは立派な仏さんが生まれるはずないわ。それがずっと続いて、仏師てこんなありさまや」  しかし、松久に自嘲の色はなかった。むしろ弟子に聞かせる淡々とした達観した語り口のなかにも、強い意欲をふとのぞかせた。 「貧乏なんて問題やない。人間はその生き方が大事なんや。仏心なくしてええ仏さんは彫れん。わたしはそのうち必ず、みんなが自然に手を合わせて拝みたくなるような仏さんを彫ったるで」  貧しい師弟の歩く姿に、降りやまぬ白い雪が舞っていた。  雪はすでに五、六寸も積もっている。下駄の歯と歯の間に雪がつまって歩けなくなるから、途中で何度も歯の間の雪を取らなければならなかった。出町までようやくたどり着いたあたりで、二人はまた並んで、ある家の軒先でコンコンと下駄の雪を落とした。そのとき突然、格子窓が開いて、そこのお女将が顔を出して怒鳴った。 「あんたら、ひとの家の前でガンガン何してんの。うるさいやないの。あっちでしなはれ」  そして、また格子窓をぴしゃっと閉じた。 「それが突然コワいお女将さんに怒鳴られたものやから、先生がびっくり仰天して、雪の中にひっくり返ってしまった。その格好がおかしかったので、妙に覚えとります」  藤本が回想するが、その日は松久にも藤本にもさらに生涯忘れられない日となった。  糺ノ森まで戻ってきたとき、二人はようやく一息ついたが、雪はなおもやまなかった。それどころか、師弟が森ケ前町の自宅まで帰りついて、疲れた体を休めていると、雪が降りしきるなかで雷鳴が轟いた。 「雷まで鳴るなんて珍しいわ」  松久は、雪を踏みしめて歩いてきたせいで足がホテり、なかなか寝つかれなかった。それは藤本も同じだった。雷鳴が轟いたのは午前一時すぎだった。まさにその時刻、天皇が崩御されたことを次の日に知った。  大正十五年十二月二十五日、午前一時二十五分、大正天皇は葉山《はやま》御用邸で崩御された。四十七歳だった。即日、剣璽渡御《けんじとぎよ》の儀が行なわれて、新天皇が誕生、「昭和」の元号が公布された。  松久と藤本にとって、雪の日の思い出は大正天皇の崩御ともつながっているが、松久にとって天皇の問題は、そのころのめり込んでいた天理教の教義とも深くかかわり合っていた。そのために、のちに「不敬罪」で留置場にぶち込まれることにまでなるのである。   2 「このままでは日本が滅びる」  昭和と改元された元年はわずか七日で終わり、すぐに二年を迎えた。大正天皇の大葬は二月七日から八日にかけて行なわれ、十数万人が葬列を送った。  まだ大葬の余韻が残っている三月七日のことだった。  松久が仕事をしていると、突然、家がグラグラッときた。 「何やこれ、地震か」  と腰をあげると、今度はもっと激しい震動がして、二階建ての家全体が大揺れに揺れた。 「これは大地震や」 「家の中は危ない。はよ避難せんと」  家中が大騒ぎになり、松久は、二歳の武雄を抱き、妻と養母をせきたてて、外に飛び出した。藤本も真っ青な顔をして、外へ逃げ出した。どういうわけか、大地震のあとには雨が降るが、この日もしばらくすると、ザーッと大雨が降ってきた。幸い、家も壊れず、誰も怪我をしなかったが、北丹後《きたたんご》では惨状が起きていた。  この地震はのちに北丹後大地震として記録されることになるが、北丹後の網野《あみの》、加悦《かや》、久美浜《くみはま》を結ぶ地域に発生、家屋倒壊とそれに伴う火災が相次いで、死者二千九百人余を含む死傷者は七千人を数え、全壊戸数一万二千五百戸以上という大惨事となった。大阪や神戸でも工場が壊れたり、道路に亀裂が走ったりしたほど、関西一帯の被害は大きかった。  北丹後大地震は、まるで昭和という時代の暗い幕あきを告げるような前兆だった。この年、日本は金融恐慌の嵐が吹き荒れ、銀行がバタバタと倒産し、不況が人々の生活を圧迫した。総辞職した若槻《わかつき》内閣に代わって登場した田中義一内閣は、山東出兵や東方会議という中国侵略政策を推し進めていく。内憂外患の気配のなかで、仏師の生活などは押し潰され、もうほとんど仕事らしい仕事はなかった。  そうした不景気のなかで、長女の愛子が生まれ、松久は二人の子の父親となった。仕事のない父は二歳の武雄の手を引き、高野川の河原をぶらつく以外に、身のおきどころがなかった。仕方なく弟子の藤本もあとをついてくる。 「いやな世の中や。このままでは日本は滅びるわ」  無聊《ぶりよう》をかこつ松久は、弟子に聞かせるともなく呟く。 「教祖中山みきさまは、高山《たかやま》は世界一列おもうよう、ままにすれども先は見えんで、とおっしゃっているがホンマや。世の中を変えることができるのは天理教だけや」  このころでは、松久の天理教に対する信仰心はより深く、もっと過激な思い込みになっていた。天理教の教祖、中山みきは国家権力、官憲に対して強い抵抗を示してきた人で、民衆のことを谷底といい、国家権力を高山と呼んで、痛烈に批判したが、松久が私淑しているのは、その天理教でももっともラジカルな教義解釈のため、教会内からも異端視されていた大西愛治郎の率いる「天理研究会」だった。 「あしきをはらい たすけたまえ 天理王命《てんりおうのみこと》」と唱えながら、病む人にさづけの取り次ぎをする「おさづけの理」などで知られる天理教は、天保九年(一八三八)、農家の主婦だった中山みきに天啓が宿り、みきが「神のやしろ」と定まったときをもって立教とする宗教である。  最初のうちは、安産の守護や疱瘡などの病気の治癒を施すみきの「たすけ」によって人が集まっていたが、その後、幕末から布教が本格化し、みきは慶応年間に信者のつとめを説いた「みかぐらうた」を作り、明治二年から十五年にかけて「おふでさき」を著した。これはみきが神からの天啓を自ら記した文書で、約千七百首の短歌から成っている。  さらに晩年のみきと、みきから神意を取り次ぐことが許されていた本席、飯降《いぶり》伊蔵を通しての教えを編集した「おさしづ」があり、天理教ではみきの二書とこの「おさしづ」を教義の原典としている。中山家の住居内(現在は、教会本部一帯)には「ぢば」が定められ、「かんろだい」が据えられている。 「ぢば」は親神、天理王命が人間を創造したとされる神聖な場所で、「かんろだい」はぢばに立っている正六角形十三段、高さ八尺二寸の台で、天理王命が宿っているとされる礼拝の中心である。そして、かんろだいの上には五升入りの平鉢が置かれている。これは、人類救済成就の暁には、天から授かる寿命薬である甘露を受けるためのものであった。  みきは明治二十年に、九十歳で死去したが、その魂は存命当時と同じく「ぢば」にとどまって守護すると信じられていた。みきは、世俗的な権力をもつものを高山、その反対に底辺にあえぐ民衆を谷底と称し、谷底救済を第一義とした。  松久ら信者は、むろん教祖の「みかぐらうた」や「おふでさき」などの主要な文章は空んじている。松久は、たとえば、 「このたびは谷底にては、ちょっとしたる木もたっぷり見えてあるなり。この木も月日だんたん手入れして、つくられたる国の柱……」  という教えに、深い救いを感じていた。その教えは、次代を担うものは底辺の谷底から出現する、というものだった。  一見してわかるように、天理教はわかりやすい平仮名を使ってはいるが、独自の用語が多い教団で、しかも「真柱《しんばしら》」「統領《とうりよう》」「ふしん(普請)」「ようぼく(用木)」といったように、建築用語が比喩的にたくさん用いられているのが特徴だった。これは教祖の一番弟子で、本席になった飯降伊蔵が大工であったことと無関係ではあるまいが、同時に、天理教という教義をもってこの地上に宗教浄土を建設しようという理想をあらわすものであろう。  天理教の教えを松久流に解釈するならば、人間の肉体は親神から貸し与えられている「かりもの」で、心だけが自由に使うことが許されている。人間の生命は神の守護によるものであるから、人間存在の根源を深く知り、本来的自己に目ざめ、その任にふさわしい人となるように努力しなければならない、というものだった。  親神の意にそわない人間の悪は、本来、清浄無垢な魂に「ほこり」がついたようなものであり、とくに八つのほこりとして「をしい、ほしい、にくい、かわい、うらみ、はらだち、よく、こふまん」をあげているが、これらに心し、人は、親神がそのように生きることを望んで人間を創造したように、明るく澄んだ気持ちで日々を過ごし、「陽気ぐらし」をしなければならない。  もとより人にはそれぞれ人生のさまざまな苦しみがあるが、自分がいまおかれている状況をまるごと受け入れる「たんのう」の心がまえで、忍耐することもときには必要だ。それを乗り越えることによってより幸せになるのが「ふし」というものであり、「ようぼく」(信者)は、信仰活動に身も心も惜しみなく捧げる「つくし」の気持ちが大事である、とされていた。その「つくし」とは、具体的には教団への献金、奉仕活動をさす場合が多かった。  松久が「御仏師」という看板のかかっていた養父の店を八百円で手放して、教団活動に注ぎ込んだのもそのためだったし、伊吹宗三郎に連れられて、何度も「ぢば」参りにも通った。あとでもふれるが、その当時の松久ほど、魂の救済を必要としているものはなかった。  昭和三年ころ、天理教はすでに公称信徒数が四百九万三千人の大教団で、教会数は一万四百三十を数えていた。天理教の救いの信仰は、関西一円だけでなく、全国の津々浦々に布教され、信徒数がふえていた。国家権力(官憲)にとっては、肥大化する天理教の存在は、戦時体制へと突入していく過程で、要注意の教団だった。  底辺の「谷底」の救済を第一義とし、急激な社会変革と「かんろだい」を中心とした宗教世界の実現を説く天理教は、教祖みきの存命中から、官憲の干渉を受けてきた。みきは明治七年に最初の弾圧を科されたのを手始めに、教部省達類などのさまざまな法名違反のもとに、勾留、科料など計十八回にわたって、弾圧されていた。精神病の診断も行なわれたことさえあった。  とくに明治十四年、「かんろだい」の石普請が始まると、官憲の干渉はピークに達し、みきの自宅尋問、勾留と続き、翌十五年には、「かんろだい」の破壊と建築資材などが没収された。その後も数年は年間数回におよぶ勾留の弾圧を受けていた。  明治二十年にみきが死去したあと、天理教は、みきの孫で初代真柱の中山|真之亮《しんのすけ》を教会長として、明治二十一年に、神道本局直轄教会として公認され、これを機に全国的に信徒数をふやしていくが、相変わらず官憲の厳しい監視下にあった。  明治二十九年には内務省訓令が出され、マス・メディアによる「淫祠邪教」キャンペーンも展開されていった。こうした弾圧の中で、天理教は、天理王命を天理教|大神《おおかみ》と変更し、活動を制限するなど、教団改革条項を打ち出して、教団の延命策をはかった。  さらに大正から昭和初期にかけては、国家による宗教がもっとも強まった時期で、宗教統制が一段と厳しくなった。しかし、軍部主導のもとに中国侵略路線がととのえられていくなかにあって、時代の変革を求める期待と機運もまた高まっていた。  天理教の中でも、昭和に入ってから、「おふでさき」と「おさしづ」が相次いで公刊され、「教祖にかえれ」という機運が急速に盛りあがっていた。その時期に登場してきたのが、松久が「天理教の救世主」とあがめ、崇拝している大西愛治郎だった。 「西に救世主があらわれた」  と最初に、大西の存在に刮目《かつもく》したのは伊吹宗三郎だった。  伊吹が松久の養父丈五郎の甥にあたることは前に述べたが、伊吹も人知れぬ世の辛酸をなめつくしてきた苦労人だった。四条の古い京紅の店に奉公したが、弟二人が極道者でそのために苦労し、宗教にすがるようになった。そしていまでは天理教の布教師をしていた。  布教師といっても、教団から給料が出るわけではない。それこそ身銭を切って、病人のいる家を訪ねては、教祖みきの「さづけ」の話などをして、熱心に布教活動を続けていた。松久に救いの手を差しのべたのも伊吹であり、伊吹は松久にとって、いわば天理教入信の師だった。  草創期の天理教は、その独得の教義ゆえに、つねに「天啓者」という存在が問題となっていた。教祖みきが明治二十年に死去したあとは、本席・飯降伊蔵が「言上《ごんじよう》のゆるし」によって、教祖の死後啓示を取り次いでいたが、この飯降も明治四十年に七十五歳で亡くなる。永年の官憲の弾圧に耐え、苦心惨憺の末に、天理教が悲願としてきた一派独立を果たしたのはその翌年、明治四十一年のことだった。  飯降の死後、教団ではみきの孫の中山真之亮が初代真柱となったが、実は飯降が亡くなる三日前に、みきが娘分としていた上田ナライトを自分の後継の取次者として指名していた、という噂が流れた。そのあたりの神意をめぐって、教団内部でもいろいろ取沙汰されていた。そのころ、伊吹が傾倒していた大阪の北大教会の教会長、茨木《いばらぎ》基敬もまた名乗りをあげた。 「教祖の本当の後継者は自分である」  茨木は頬骨が高く、ちょっとキリストに似た風貌をしていた。事実、神のお告げを取り次ぐ霊能力をもっていて、伊吹たちは「キリストの再来」とあがめ、松久も連れて行かれたことがあった。松久は茨木の印象をのちにこう語った。 「なんや、普通の顔やないですねえ。それにしゃべりはってる言葉が、英語ともヘブライ語ともつかぬ難解な言葉で、それを息子の基忠さんが速記しやはるのですわ。わたしには何を話されたかさっぱりわからんかった」  天理教団からすれば、突然、勝手に後継者として名乗りをあげた茨木一派に対して、手をこまねいているわけにはいかない。教祖の孫を初代真柱として教団の内部結束をはかり、「教祖存命の理」を根本教義として、茨木一派を追放した。結局、茨木は不遇のうちに世を去った。  教団の内紛に翻弄される信者たち。しかし、伊吹と松久には一つの信念があった。 「中山家の血統を継いでいるというだけで、真柱になるのはおかしい。天と地の心をつなぐ媒介《なかだち》役をつとめるのがホンマの真柱や」 「天理教を中山家が私物化したらあかん。教祖さまの教えはみんなのもんや。そのためにも、ちゃんとした天啓者をたてな」  伊吹の言葉に松久がこう応じたのは、神意の取次者であった飯降伊蔵が、自分の死後のことについて�遺言�し、 「西に余分が一人あるなり。それをこちらへ。それをこちらへ……」  と指示していたという噂を聞きつけていたからであった。 「ホンマの取次者であった本席さまは、西のほうにどなたか第三の取次者になられる天啓者があらわれることを見透していなさったのに違いない」  伊吹は、そういうことになると熱心になるタチだった。  折も折、西の方角、山口県萩に、大西愛治郎が出現した。大西は自ら「かんろだいの理」を保有しており、自分こそが天啓者であると主張したから、教団内が騒然となった。しかも名字まで�西�とついてある。大西は大正十四年に奈良県竹内に進出し、「天理研究会」と名乗って、独自の宗教活動を開始したのである。 「やっぱりホンマの天啓者があらわれた。大西さまこそ教祖さまの真の後継者や」  伊吹は、実際に大西の教義解釈を聞くにおよんで、たちまち熱烈な信徒となり、松久にもそう鼓吹した。  大西愛治郎は明治十四年、奈良県に生まれたが、明治三十二年に母親の病気を治癒したい一念から、天理教に入信した。群馬県で布教後、山口県の三教会の再興にあたり、山口宣教所所長となるが、この間に大西トヨと結婚し、岸岡の姓から大西姓を名乗るようになった。山口県萩で布教したころの大西の話を、松久ものちに聞いている。  大西は萩に乞食小屋のような小屋を作って、そこに住んでいたが、信者が訪ねていくと、家の中は机一つなく、まさに赤貧洗うがごとき生活をしていた。それでも遠方からきた信者のために�食事�をふるまったが、それはサンマの頭を焼いたもので、食卓などないから、石油缶に新聞紙を張りつけたものが膳代わりだった、という。  しかし、大西は大正二年に、自ら「天啓者」であると悟った。  大正二年というのは天理教にとっては意味のある年だった。教祖みきは、「陽気ぐらし」をすれば、人間は百十五歳まで定命《じようみよう》があるとしている。みきは九十歳で亡くなったが、この世の死を「出直し」といい、死は親神のもとに帰ることであり、やがて再び新しい肉体を得て、この世に生まれ変わる、と説いている。みきは、現身《うつしみ》をかくしたあとも、魂は元のやしき「ぢば」にとどまって存命で、信徒たちを導いている、というものだった。その百十五歳の定命がつきた翌年の「つぎの年限」が大正二年にあたっていた。  大西はこの大正二年に、自分こそ「かんろだい人の理」を保有しており、天啓者、かんろだいそのものである、と主張しはじめたのである。  佐藤浩司の一文(『新宗教事典』所載・弘文堂)によれば、「かんろだい人の理」とは、 〈土地において一ヵ所(ぢばの甘露台)、人において一人(天啓者、人間甘露台)であると悟り、甘露台とは人間でもあり、しかも愛治郎こそ天啓者・人間甘露台であるとした理念である〉  というものだった。  やがて大正十四年、奈良に「天理研究会」を開いた大西のもとへ、「生き神さんがあらわれた」ということで、信者たちが蝟集《いしゆう》して、天理教が二つに割れるような形勢になってきた。信者たちの中には、むろん伊吹も松久もいた。  松久は本気で信じていた。 「今こそ�神の国�が実現するときや」  大西が授ける「おふでさき」や「おさしづ」の教義解釈は、実に強烈だった。天理教の最高の象徴である「かんろだい」についての解釈を聞いて、松久はこれまでもやもやとしていた目のうろこが落ちるような気がした。 「教祖さまは、かんろだいについて、『天から降ってくるかんろを平鉢に受けていただくと不老不死になる』と説かれたが、これは一つの比喩である。真の意味は……」  と大西は説法した。 「かんろだいとは、至純にして最高のものが生まれるべきところである。人においても然り。天理教は教祖さまの神の教えをようぼく(用木)に正しく伝えるための教団であって、中山家の血統を守るためのものではない。教祖さまの教えを正しく媒介《なかだち》できる天啓者こそ、真の後継者である」  大西は堂々と教団の内部革命論を唱え、中山真柱を中心とする本部を真っ向から批判した。初代真柱の中山真之亮は、大西が「かんろだい人の理」を主張した年の翌年、大正三年の十二月三十一日、すなわち大晦日に四十九歳の若さで亡くなったが、このことも天理研究会派の信者たちは、大西の出現と関連づけて特別の意味をもたせていた。  教祖みきは、弾圧を加える国家権力に対して、最後まで強い抵抗を示して生涯を終えたが、その後、みきが亡くなると、教団側は官憲の弾圧を恐れて天理王命の主神まで名前を変える�弱腰�ぶりで、すっかり反権力の姿勢を失っていた。  大西はこのことも批判し、教祖みきの教えの原点に立ち戻るべきだとして、ついには国家革命論まで説き出した。  昭和三年になると、田中内閣は、五月に中国山東省で済南《さいなん》事件を起こし、六月には張作霖《ちようさくりん》爆殺事件の陰謀を企て、中国に対する全面的な侵略態勢を正当化しようとしていた。国内的には、三月十五日、日本共産党に対する大規模な弾圧が行なわれ、宗教に対する思想統制も急速に強まっていた。治安維持法が緊急勅令のかたちで改正され、特高警察も強化されていた。  こうした軍部体制は、大日本帝国憲法のもとで、天皇の統治権を中心にとられており、昭和という時代の中で、天皇は神格化され、やがて「現人神《あらひとがみ》」に祀り上げられていく。  この年の十一月、昭和天皇の即位の礼および大嘗祭《だいじようさい》が京都で行なわれることになっていた。大西は即位の大礼を前にして、かねてからまとめていた研究資料を、上は総理大臣から代議士、警察にいたるまでバラまくという挙に打って出た。研究資料の内容は、軍部が策謀している大戦と国家滅亡を予言警告したもので、天皇の神格化を否定する激烈な言葉が奔《はし》っていた。その内容をかみくだいていえば、 「いまにして革命をしなければ日本は滅亡する。天皇は現世の雛型であって、本当に神の意思を継ぐ者は大西愛治郎である。大西を神に立てるべきだ。そうすれば日本は滅亡から救われるだろう」  といった、国家権力からみれば仰天するようなラジカルなものだった。  大西が信者たちに研究資料の配布を命じたのは春先のことであったが、時代の不気味な影を感じていた松久たち信者は、「救世主」と信じる大西の意を受けて、一般民衆にも布教や辻説法をすることに何ら臆するところはなかった。  というのも、天理教の組織では、布教によって導いた人と導かれた人は、いつまでも導きの「親子」関係にあるという形態をとっているから、強力なカリスマ的な指導者は、多くの部下を擁して、あたかも教団内において半ば独立した小教団のような観を呈することがあった。大西の率いる天理研究会はのちに昭和十一年、「天理本道」(二十五年に「ほんみち」と改称)として一派を成すが、教団内における最大の分派集団になった天理研究会はその典型だった。  内弟子の藤本にいわせれば、松久は、 「決して宗教的革命家でも理論家でもなく、激情的な性格からカーッと一気に燃えあがって突っ走った人」  ということになるが、ある日、宗教|狂い《ヽヽ》している師匠が弟子にいった。 「街頭演説会をやるから聞きにこい」  松久は当日、なんと下鴨警察署のすぐ近くで、熱に浮かされたように、小柄な体を挑戦的に突きだしながら、演説をぶっていた。数少ない聴衆の間には、明らかに特高とわかる目つきの鋭い男もまじっていた。幼い武雄を背中におぶったサクラの藤本も後ろから、師匠の姿をのぞき込んだ。 「皆さん、日本がまさに滅亡せんというこのときに、天は大西愛治郎という救世主をわれわれに遣わされたのです。大西こそ真の救世主であります。このまま軍部のなすがままにしておいたら、日本はどうなるか。われわれの生活はどうなりましょうか。こんな軍部に理不尽なことをさせているのは、他ならぬ天皇であります。天皇あっての軍部だからこそ、勝手なことをして、この日本を戦争で滅亡させようとしているのであります。果たして、天皇はわれわれの救世主でありましょうか。とんでもない、天皇こそこの日本をあやまらせるもとであります。  皆さん、日本を救う道はただ一つ、それは大いなる神のみこころを信じ、身をゆだね、魂が救われることであります。それができるのは天皇ではありません。神から遣わされた大西愛治郎の教えをそのまま信じることによって、初めて皆さんは救われるのです。なぜなら大西は神そのものだからであります」  聞いていて、藤本は、こんなことしゃべって大丈夫かいな、と心配になった。藤本でさえ、「不敬罪」という言葉は知っていた。  演説から四、五日たって、 「松久さん、ちょっと来てくれまへんか」  と巡査がやって来た。下鴨署までご足労願いたい、という。えらく丁寧な言葉遣いだった。松久がついていくと、刑事部屋に案内された。そこで相手の態度が一変した。 「貴様ッ、畏れ多くも天皇陛下を冒涜しおって。そのままですむと思ってるのか」  特高刑事が松久の胸ぐらをつかんで吠えた。 「天皇陛下の叡慮を干犯し、陛下のご尊厳をはなはだしく冒涜した不敬の行為がどんな罪になるか、貴様ッ、よう知っておろう。ただではすまんぞ」  相手はすごんだが、しかし、このときの松久は確信犯だった。大西に教化された松久は、むしろ国家権力、官憲にたいしては「虎の威を借りた狐」くらいにしか思っていず、哀れな奴ら、とさえ軽蔑していた。おのずからそれが態度にも出る。松久が滔々《とうとう》と宗教的信条を述べ始めると、それをさえぎって、特高がせせら笑った。 「貴様ッ、そんなことは留置場でやれ! 当分、帰れんな」  松久は不敬罪で留置場にぶち込まれた。四月初旬のことだった。   3 野辺送り  松久はなぜ、警察に勾留されるほど宗教にのめり込み、天理教に救いを求めるようになったのか。自らの人生を評して、「もみくちゃの紙のような人生」というように、それまでの松久をめぐる修羅の生活は、複雑な肉親関係もからんで、幸せ薄いものだった。松久が不敬罪で下鴨署に勾留されたとき、森ケ前町の自宅には、妻子と内弟子の他に、伯母の春が一緒に住んでいた。養父の姉にあたる春は、精神に異常をきたしていた。  松久は由緒ある官人の家に生まれたが、幼いときから暗い不幸の影がさしていた。松久茂次は明治三十四年八月十五日に出生したことになっているが、戸籍上の届けは十月二十二日、その日は時代祭りの日にあたる。父|櫛田《くしだ》久永、母琴江の間の五男、末っ子である。  櫛田家は代々、京都御所の警護をつとめる武人の家柄で、「仁の官人」という役名だった。先祖の功により御所から「十六菊の輪に橘《たちばな》」の紋を許されたほどの家柄で、もともとは華族や官人たちが住んでいる塔ノ段(現在の河原町今出川西入ルあたり)の屋敷町に宏壮な邸宅を構えていた。  母琴江の実家も名家で、父|加藤子桓造《かとうしかんぞう》は加賀藩の京都屋敷の家老職をつとめていた。桓造は明治維新のあと、小学校の校長をしたこともある学殖の人で、謡曲や能面の絵をこなす風雅な趣味の持ち主でもあった。母方の叔父も絵描きである。やがて仏師になる松久の血筋はたぶん母方の血によるものであろう。  久永と桓造は囲碁の仲間で、そのことが縁で久永は桓造の娘琴江と結婚することになったようだが、思えば琴江もこの結婚によって波乱にとんだ薄幸の生活を送るようになる。久永は茶屋遊びがすぎて、御所から身を退くはめになり、茂次が生まれたときは、零落して高辻《たかつじ》室町西入ルにある小さな社《やしろ》に逼塞していた。そして病気で寝込むようになり、経済的に完全に破綻した。  生活がたちゆかなくなった櫛田家から、四歳になる末っ子が松久家に養子にもらわれていくことになった。松久家は寺町通り松原上ルにあり、「御仏師」の看板を掲げた仏具屋と仏師を兼ねた店で、養父は丈五郎、養母はしげといった。二人の間に子供はなかった。 「松久の家は木曽義仲の流れを汲んでおりましてね、義仲が敗れたあと岐阜に落ちのびたということです。わたしの曽祖父、つまり丈五郎の父親ですわな、その代に京都に移り住んだようですが、祖父にあたる丈五郎も苦労した人と聞いてます」  丈五郎の代から三代目の仏師にあたる宗琳が明かすように、丈五郎もまた丁稚《でつち》奉公をして辛酸をなめてきた人だった。  いまも寺町通り松原下ルに乾《いぬい》大仏堂という百数十年つづいた老舗の仏具屋があるが、丈五郎が丁稚奉公をしたのはその仏具屋だった。九歳からつとめあげ、二十五歳で独立して小さな店をかまえた。そして茂次が養子にもらわれたとき、丈五郎は三十五歳の働き盛りだった。それは明治三十七年のことで、日本は日露戦争に国運を賭けている真っ最中だった。  丈五郎も丈六《じようろく》の阿弥陀仏を彫ったほどの人で、ひとかどの仏師ではあったが、後年の朋琳の目からすると、仏師としての天分は格別でもなかったようで「ごく平凡な仏師」としての生涯を送るが、この養父の晩年がまた不遇だった。  仏師としての才能は、むしろ直接の血を引かない養子の茂次のなかに秘められていた。松久は学歴といえば、開智《かいち》小学校を出ただけである。日本画家の上村松園《うえむらしようえん》もここの卒業生の一人で、なかなかの名門校だった。のちに息子の武雄も三年までここで学ぶことになる。 「門前の小僧、習わぬ経を読む」で、松久は十歳のときには早くも小刀を持ち、仏を彫る真似ごとを始めていた。  仏を彫るきっかけについて、朋琳はのちにこう回想している。 〈毎日、主店に坐ってコリコリと大根みたいに木を削ってます父親の姿が、何やら気になりだしたのは十歳という年齢になってからのことでした。コリコリ、コリコリやっているうちに仏さんの眼や鼻がたちまち現れてくる。それが面白うて、「ぼくもやりたい」と、言いだしますと、「ほなら教えたろう。そのかわり途中でヘコタレたらあかんぞ」というようなことで、初めて小刀を持たしてもらいました〉  養父は、彫るときはあぐらを組むことから教え、「地紋彫り」の初歩から厳しく叩き込むようになった。最初は面白半分に始めた小刀いじりだったが、まだ十歳の遊びたい盛り、学校の友だちが誘いにくると、放り出してついて行きたくなる。しかし、養父は「まあまあ、これならよかろう」と、その日の修業が終わるまで許さなかった。  そのうち、養父の仕事先の人が来て、 「よう、坊ン、今から習うたら立派な名人になるぞ」  と褒めてくれたことが、子供心にもうれしく、励みになった。  松久が最初に「頼まれて」彫ったのは十二歳の秋だった。養父と親しい林寺という仏具屋が、この子は才能がある、と見込んだのか、真顔で�注文�した。 「坊ン、おじさんに福助を彫ってくれへんか」 「ええわ、彫ったる」  無邪気に請け負ったものの、さて、福助というものがわからない。手本を探し回るうち、寺町通り五条上ルのあたりに「福助足袋」という看板が目に入った。あ、これや、と写生してきて、それをもとに手を傷だらけにして彫りあげた�処女作�が十センチほどの福助だった。喜び勇んで仏具屋に届けると、林寺が手にとってしげしげと眺め、感心して褒めた。 「これ、ホンマに坊ンが一人で彫ったんか。見事なもんやなあ。うちの家宝にするわ。よし、坊ン、小遣いやろう」  林寺は、二十銭銀貨一枚と十銭銀貨一枚を握らせた。ウドン一杯が一銭五厘の時代である。初めて彫った福助が三十銭とはすごい、と、自分でもびっくりした。そして掌に握りしめていた銀貨が汗ばむほど感激して、店に走って帰った。  養父は、本格的に仏師として修業させるため、息子を栢口《かやぐち》隆運という仏師のもとに入門させた。あとでふれるが、栢口は七条《ななじよう》仏所、慶派の系譜を継ぐ名人で、そのころは柳馬場《やなぎのばんば》四条下ルに住んでいた。ここから松久の仏師への道が始まることになるが、それは同時に暗い不幸の幕あきでもあった。 「ウアーッ、ウアーッ」  養母のしげが突然、得体の知れない発作を起こして、獣のような叫び声を発してのたうちまわった。夫の丈五郎も、息子の茂次も、しげの突然の狂態に、最初何が生じたのか理解できなかった。やがてそれが精神に異常をきたしたためと知ったとき、呆然とし、なんでまた急に、と暗澹となった。 「気が変になってしもた。どないしょ」  丈五郎は、精神を病んだ妻を見て、なすすべもなくオロオロしていた。大正三年、松久が十四歳のとき、養母が発狂した。貧しいなりにつましく生きてきた一家の生活が、これを境に暗転していった。  しげは洛南、巨椋村《おぐらむら》の雑貨屋の娘で、仏師丈五郎のもとに嫁いだが、綺麗好きで几帳面な性格だった。丈五郎は家計のきりもりはすべて妻にまかせ、店の仕事に精を出していたが、それもしげが働き者でしっかりしていたからであった。店を閉じたあと、軒先に下げてある「御仏師」と書いてあるガス灯のランプの火屋《ほや》(ガラスの筒)を磨くのもしげの日課の一つだった。  松久の記憶に残っている最初の光景は、 「お狸さんが出るさかい、早よ寝んねしイ」  といってあやしてくれたおばちゃんの背中にしがみついて、「コワーいよオ」と泣きじゃくっている自分の姿である。四歳で松久家にもらわれていく暗い夜道の道すがら、泣いてしがみついていた記憶だった。  養母は子供を生んだ経験がないため、子供の扱い方がわからず、息子となった茂次をわけもなく猫可愛がりした。それでいて急に怒り出すことがある。子供の気持ちなどおかまいなしで、そういう点では、自分の意のままにならないと癇癪を起こすような、神経質なところがあった。  小学校に入ったころには、茂次は自分がもらわれっ子だということを察していたが、それが決定的にわかったのは十歳のとき、初めて小刀を握って、仏さん彫りの真似事を始めた年だった。松久の店とは目と鼻の先にある寺町通り四条|下《さが》ったところの赤壁の寺の門前で、茂次はいきなり中年の女性に呼びとめられ、 「坊ン、おまえのお母さんやで。大きゅうなって……」  と急に涙ぐまれた。咄嗟《とつさ》のことで、どう返事したらいいかわからず黙っていると、その女性が抱きしめようとした。 「おまえのお母さんやで、早よおいで」  茂次は思わず後ずさりをした。生みの母親の記憶などは何一つない。が、それが血を分けた母子の目に見えない絆なのか、不思議にコワくはなかった。その後も、赤壁の寺の門前でよく出会った。実母の琴江は、夫と死別してから、新京極の三条上がった矢田寺《やたでら》の境内で易断をして細々と生きていた。矢田寺は奈良矢田寺の別院で、本堂に安置する地蔵菩薩は、諸願成就のご利益があるといわれ、参詣客が多かった。家老職の名家のお姫さまに育って、何の苦労もせずにすむはずの人生が、今は生々流転、冷たい浮き世の風にさらされて、孤独な晩年を迎えていたのである。  いつしか茂次が実母と会っていることが、養母の知るところとなった。しげは激怒した。養子に出したら、実の父母は一切関係を断つというのが当時のしきたりだったから、しげが怒るのも無理はなかった。 「もう、絶対に会ったらあかんで」 「あのおばさん、いったい誰やの。ぼくのお母さんというとったけど」  思い切って訊いてみると、しげがそれこそ目を吊り上げて怒った。 「アホくさ。おまえのお母さんはわたしやないの。あの女は子捕りや、人さらいや。もうしゃべったらあかんよ」  養母は養母なりに、茂次をわが子として愛していたのである。その養母が気がふれてしまった。 「いまから思いますと、おとなしゅうて真面目いっぽうの亭主に対する欲求不満が昂じたのやないかと想像されます」  と朋琳はいうが、夫の丈五郎は酒も飲まない謹厳実直な男で、いつ売れるともわからない仏をコツコツと彫り、晩の十時半にはきちんと止めるのが日課という仕事一途の真面目人間だった。仏師仲間の寄り合いとか、親戚の法事とか、よほどのことがないと外出もしなかった。  しげはいつも発作を起こしているわけではなかった。機嫌のいいときはいたっておとなしく、ご飯を焚いたりもできる。ただ、極端に吝嗇《けち》になって、惣菜などは作らない。これには困って、惣菜を買ってくると、それを見てまた発作を起こし、「ウアーッ、ウアーッ」とわめき散らした。家族のものはなすすべがなかった。  かといって、大正のこの時代、精神医学が今のように発達しているわけでもなく、施設も少なかった。発作が起きないときはおとなしい病人なので、座敷牢を作って閉じ込めるのも忍びない。家において家族で監視している以外に方法はなかった。そのため茂次は栢口隆運のもとに修業に通うこともできなくなった。しげの発作がいつ爆発するかに脅えながら、丈五郎と一緒に暗澹とした気持ちで細々と仕事をしていた。  松久のおかみさんが気がふれた、という噂はたちまち広まった。近所から「村八分」にされ、誰も寄りつかなくなった。たまたま客がいるとき、しげの例の発作が起きると、「ウアーッ」という気味の悪い叫び声を聞いて、客は恐ろしがって逃げ帰った。もう松久の店は八方塞りで、仕事どころではなかった。それに丈五郎も茂次も慢性の栄養失調になっていた。その上、茂次は神経衰弱、いまでいうノイローゼになってしまった。  丈五郎は、気のふれた妻とノイローゼの息子を抱え、放心状態になっていた。もはや一家に何ひとつ救いはなかった。甥の伊吹宗三郎が天理教を熱心に勧めたのは、まさにこの時期だった。 「こんな病人が出たのは、この家に悪い因縁がついているからや。それを断ち切らなあかん。それでないと治らんわ」 「どうしたらええんや」  丈五郎がワラをもつかむ気持ちで訊く。 「神さんを祀ることや。天理教にはおさづけというありがたいお恵みがある。天理教は病人を治してくださる宗教や。悪いことはいわん。神さんを祀って悪縁を断たな」  布教師の伊吹が幾多の信者の例をあげて、「さづけ」の効用を説く。進退きわまっていた丈五郎は、仏師でありながら、とうとう神棚を作って神を信心し始めた。仏師仲間や親戚がこれにはあきれて嘲笑した。 「仏師の家が神さん祀るとは、それこそ気が狂ったのと違うか。仏さんより神さんを信じるなんてアベコベや。これでは治るものも、かえってバチがあたって、ますます悪くなるわ」  口さがない総攻撃に、松久家は完全に孤立した。  孤立すればするほど、身を寄せ合うのが家族というものである。丈五郎よりむしろ熱心に天理教の教会に通うようになったのは息子の茂次だった。伊吹がつれて行った教会は新町五条下ルにあった。養母が発狂する前も、伊吹はときどき顔を見せて、天理教の話をしていたが、そのころは「ええことゆわはるわ」と人ごとのように聞き流していた。それがしげの気がふれ、自分までノイローゼになると、本当に暗い因縁が憑いているような気がして、神さまでも何でも信じて、その悪縁からのがれたかった。  一度信じると、自分でも「宗教的気分というものがもとから好きだった」というように、茂次の心に火がつき、足繁く教会に通うようになった。そして教祖みきの「おふでさき」や「みかぐらうた」の説法を知るにおよんで、その教えがまたとない救いとなった。  教祖みきの「おさしづ」の冒頭には、「さあさあ」という言葉が必ずついている。それは、さあさあ、早く救わないと人類は滅びてしまう、という親神の慈悲の心から発しているもので、そのあとにリズミカルに神の教えがつづくのである。たとえば、 〈さあさあそれそれの処、心定めの人衆定め。事情無ければ心が定まらん。胸次第心次第。心の得心出来るまでは尋ねるがよい。降りたと言うたら退かんで〉  というぐあいである。  伊吹がその神意を説きほぐしてくれる。 「これは教祖さまが亡くなる直前のおさしづや。大事なのは形やない、心のつとめで、それも事情がなければ心が定まらん。この上はおまえたちの胸次第心次第であって、このことをよく悟り、心を定めて熱心につとめよ、とおっしゃっている。得心がいかないなら、得心がいくまで訊くがええ。何でも教えてあげよう。けど、いったんこれまでというたら退いてしまうから、取り返しがつかんようになる前によう訊いておけ、と親心をお示しになっているんや」  そういわれてみると、わが身の事情にもあてはまって、熱心につとめに励まなければならん、もっと天理教のことを知らなあかん、と茂次は思い、ますます傾斜していった。  そのうち、ノイローゼが治ってきた。教会に行くと、同年輩の若い信者たちがいた。彼らと手を取り合って、青年会などで活動しているうち、鬱屈していた心が自然に開放されていったのである。  天理教の「さづけ」を実感した茂次は、もう尋常なのめり込み方ではなかった。伊吹に同道して、大阪の北大教会の茨木基敬に会いに行ったのもこのころのことだった。が、養母のほうは一向に良くならなかった。気がふれているしげの面倒をみるだけでも大変なのに、今度は松久家にさらに厄介な荷物が転がり込んできた。  茂次が十九歳になった大正八年、養父の姉にあたる春が出戻ってきた。しげのように叫び声を発するということはなかったが、春もまた精神に少し異常をきたしていた。春は娘時分に男にだまされて精神が正常ではなくなった。それでも世帯を持って伏見で暮らしていたが、今度は亭主にも捨てられて、弟の丈五郎のもとへ転がり込んできたのだった。  四人家族のうち、精神に異常をきたしているしげと春、二人も不幸を背負っている。栄養失調気味の丈五郎もすっかり弱っていた。仕事らしい仕事もなく、生活苦にあえぐ茂次の双肩に、絶望的なまでに重荷がくい込んでいた。  しげは春が同居するようになってから、ますます癇癪もちになった。もともと綺麗好きだったしげは、家の中に塵一つ落ちていても気になって拾いまくる。春は反対に無頓着というよりだらしがなくて、平気で汚して歩く。そのたびにしげの目が吊り上がった。二人は朝から晩まで反目し合い、果ては取っ組み合いの喧嘩になることもあった。  気のふれた二人の女が相手の髪をかきむしり、着物の裾をあられもなく乱して、奇声を発し合い、喧嘩しているさまは凄惨で、さながら地獄絵図だった。仏師の家なのに、なぜこの家にだけ不幸がかたまって襲い、苦しめるのか、茂次はこの世の残酷な仕打ちを呪った。丈五郎はなすすべもなく、虚脱状態だった。その顔が栄養失調でどす黒くむくんでいた。  不幸はこれでもか、これでもか、と容赦なく押し寄せてきた。  二人の病人を抱え、気の休まる間もなかった茂次自身が、今度は原因のわからない病気にかかって倒れてしまったのだ。日に三十回以上も下痢をして、便所に駆け込むが、出るものなどはない。脚気の症状さえ呈している。茂次はすっかり痩せこけて、呻吟していた。  丈五郎も脚気で、もう杖をつかないと歩けなくなっていた。不自由な体を折り曲げ、息子の枕元にへたり込むようにして、布団の中に手を入れてお腹をさすり、涙声で呟いていた。 「しっかりするんやで。おまえは松久の店の大事な跡取り息子や。早よ治らんと」  不思議なことに、気がふれていた養母のしげが、正気に戻った。そして、母親らしく看病をしはじめた。 「熱が引いたら、すぐ治るよって、もう少しの辛抱やで」  意識は朦朧としていたが、夢うつつの中で、茂次は、このまま元気なお母さんにかえってくれたらええな、と思った。両親のそばでは、伊吹が一心不乱になって、茂次の回復を祈って祈祷をしていた。  その甲斐があってか、数日すると、今までの病気が嘘のように熱が引き、茂次は快方に向かった。そして起き上がれるようになったとき、養母のしげはまた以前の精神状態に戻っていた。あれは神さんが憐れんでそうしてくれたのやろか、茂次は狐につままれたような気がした。  入れ替わるように、その年の秋、養父の丈五郎が寝込むようになった。妻の異常、出戻ってきた姉の世話、息子の大病と、家族の不幸を一身に背負って、もう精も根も尽きはてたのか、再び起き上がることはなかった。栄養失調と脚気が丈五郎の体を蝕んでいた。茂次の体はまだ完全に治ってはいなかったが、必死になって看護をした。丈五郎の顔にはもはや生気がなく、死相があらわれていた。養父が、骨と皮だけになった手を宙にさまよわせて、息子の手を探している。  茂次がその手をしっかりと両手で握りしめると、安心したのか、 「たのむでエ」  と呟いた。それが最期だった。丈五郎はそのまま息を引き取った。しげも春も、丈五郎の死が理解できずにポカンとしていた。茂次の目からどっと涙があふれた。お父ちゃん、成仏しイや。なぜか無意識のうちに、神さんではなく、仏さんに祈っていた。やはり心の奥底には、仏さんの存在があったのかもしれない。  寂しい野辺送りだった。葬式は、伊吹が段取りをつけて、天理教の教会でささやかにやった。仏師仲間は誰も来なかった。親戚の何人かが義理で顔を出した。当時は霊柩車などはなかった。町内の古い馴染みの人が五、六人で、丈五郎の遺骸を駕籠で、鳥辺山《とりべやま》の火葬場まで運んでくれた。五十五歳で苦労にまみれた生涯を閉じた養父は、小さな骨壼に入って戻ってきた。十月も半ばのことで、鳥辺山はすでに秋一色であった。  それから二年後の大正十二年。養母のしげも臨終のときを迎えていた。養父の死後、松久の店はもう誰も寄りつかなかった。茂次は思い切って店を売った。すがりつくものは天理教しかなかった。  不幸が重なれば重なるほど、神のご加護が少しもないとは考えず、まだ信心が足りないからだと、ますます狂信的になっていくタイプが茂次だった。店を売った金もあらかた教会に寄進させられた。露路裏の借家に移って、二十二歳で独立したが、仏師の仕事があるわけではなかった。せいぜいが位牌の文字彫りである。こんなに一生懸命に生きているのに、世の中どこか間違っている、と思った。  その年の五月、京都で最初のメーデーが行なわれた。メーデーの何たるかも知らなかったが、茂次は見にいった。共産党が先頭に立ち、幟《のぼり》を誇らかにかついだ若い労農者たちの群れが、デモ行進をしていた。デモ隊は、京都駅前の広場から平安神宮前の岡崎公会堂へと、気勢を上げながら行進して行く。ああ、こういう連中もいるんやな、世の中を変えなあかんと思おとるのはみな一緒や。茂次のなかで何かがめざめつつあった。  養母のしげは体が衰弱していくにつれ、精神が正気に戻ってきたようだった。すっかり昔の母親の顔になったのは亡くなる直前で、言葉つきもおだやかになった。 「行水がしたいんや」  長く寝込んでいたしげが、ある日、そう訴えた。すぐ湯をわかし、湯浴みをさせてやると、しげが目を細めて気持ち良さそうにしていた。しげは、 「久しぶりにええ気持ちやったわ。おおきに」  と礼をいって、床に入った。 「ちょっとしんどいから、手を握ってんか」  茂次が養母の手を握っていてやると、そのうち静かになった。しげはそのまま死んでいた。あの狂気はいったいどこに消えてしまったのか、やさしい死に顔だった。お母ちゃん、もう苦しまんでもすむんやね。たちまち母親の顔が、涙にかすんだ。とめどなく涙があふれてとまらなかった。茂次はいつまでも母親の手を握りしめていた。  養母の葬式は、丈五郎の野辺送りよりもさらに寂しかった。同じ人として生まれてきながら、貧しさのゆえに親類縁者でさえ相手にしないし、葬式にも来ない。世の中どっか狂っている、と叫びたかった。救うてくれるのはやっぱり神さんだけや。それから数年後、松久茂次は、不敬罪で勾留されるほど、過激な信者に変貌していた。   4 不敬罪で獄中生活  下鴨署の留置場にはさまざまな人種がいた、「ブタ箱」はまさに社会の縮図だった。コソ泥、押売り、脅喝で捕まった男もいれば、思想犯もいた。即位の大礼の前ということで、警察当局は神経質になり、たいした罪状を犯してもいないのに、容赦なく検挙して、留置場にぶち込んだ。松久の入れられている雑居房はそういう連中でいっぱいだった。  そういう中で一目おかれていたのは、三月十五日に大検挙された、いわゆる「三・一五」事件の共産党員およびそのシンパだった。彼らは検挙されたあとも拷問にも屈せず、留置場の中でも房内の他の検挙者たちに密かに「天皇制の打倒」と「プロレタリアート革命」の日が近いことを�演説�していた。  額にかかる長髪を手でかきあげる癖のある若い男が、声をひそめて松久に話しかけてきた。一見してすぐ学生とわかった。 「あんたはなんでパクられたんや」 「ちょっと演説をやりまして……」  松久が返事をすると、若い男は仲間とでも勘違いしたのか、松久に親近感を示して話し続けた。 「あんたも知ってると思うが、一九一九年に国際共産主義の統一指導部たる共産主義インターナショナル、いわゆるコミンテルンが設立されて以来、ようやく九年目にして、わが共産党が大衆の前に公然とその存在を明らかにした。あんたは『赤旗』の創刊の辞を読んだか。あれほど感動したことはなかった」 「はあ?」  松久が要領を得ない返事をしたのにも気がつかず、若い男は一人でしゃべりつづけた。 「日本プロレタリアートの最も優秀な、最も戦闘的な前衛分子の革命的隊伍たる日本共産党は、と書いてあるだろう。スローガンにもゆうてるやないか。天皇と結びついた資本家と地主の議会を破壊、労農の民主的議会をつくれ! って」 「はあ?」  松久のポカンとした顔を見て、さすがに若い男も変に思ったらしい。 「ぼくは京大の学生やけど、あんたは?」 「仏さんを彫ってます。もっとも仏師やゆうても、満足な仕事もありまへんけど」 「仏師?」  若い男がすっとん狂な声をあげ、それから自分の勘違いに笑い出した。 「今どき仏師なんておるんかいな。フーン、仏師ねえ」  どうやら若い男は地方からきた学生のようだった。もっとも当時は、京都の人間でも、物情騒然とした世の中に、今も仏師をなりわいとしている存在がいることなど、知る人は少なかったであろう。松久はのちに内弟子の藤本に、 「共産党の学生さんのぺらぺらしゃべりはることは、チンプンカンプンでちっともわからんかった」  と留置場暮らしのことを話しているが、しかし、「天皇制打倒」「帝国主義戦争反対」などを訴え、「労働者に職と仕事を与えよ」「大土地を没収せよ」などと叫ぶ彼らの主張は、主義こそ異なっていても、その心情において、どこか共感するものがあった。松久も天皇の神格化を否定し、大西愛治郎を「神」として、教祖みきの説く理想的な宗教世界をこの世に具現しようとしている点では、過激な立場に立っていた。 「仏師のあんたが、何の演説をやってパクられたんや」  若い男が、松久が仏師と知って、別の興味を持ったらしく、また話しかけてきた。 「天理教の教えを辻説法したらやられたんや。こんなことぐらいで検挙しよるなんて、警察もヤキがまわってんなあ」 「そうや、言論、出版、結社の自由なんてどこにもあらへん。山宣《やません》かてテロで殺《や》られたんやから」 「山宣が殺された? それは知らんかった」  松久はむろん、山宣の名前で民衆に人気のあった山本|宣治《せんじ》のことは知っている。松久が検挙されたこの年、昭和三年二月二十日に、第一回普選(男子普通選挙による衆議院議員総選挙)があって、官憲の干渉と弾圧の中で、京都一、二区からは労農党の水谷長三郎と山宣が当選したからだ。無産政党の当選者は、他に安部磯雄、西尾末広、河上丈太郎ら全国で八人だったが、第一回普選の興奮がまださめきらぬ三月十五日に、官憲が暴威をふるったのが、いわゆる「三・一五事件」だった。  三・一五事件は、擡頭してきた共産党に対する国家権力による弾圧だった。検挙者は全国で千六百人にのぼり、この京大生のように学生の多いことが目立った。党幹部では徳田球一、野坂参三、志賀義雄らがいっせいに検挙された。  警察での取調べは苛烈で、その拷問の凄まじさは、小林|多喜二《たきじ》の小説『一九二八・三・一五』に戦慄的に記録されている。  事件の直後、田中内閣は治安維持法の改正案を上程、議会を無視して天皇の名のもとに緊急勅令をもって公布した。この治安維持法「改悪反対」を公然と主張して、議会内で闘ったのが山宣だったが、山宣は三月五日の夜、警官あがりのテロリストによって暗殺されたのである。  暗い時代の風は、留置場の中にも吹き込んでいた。  松久は、この留置場に四月半ばから五月初旬まで二十七日間も勾留されていた。取調べはただの二回だった。あとは留置されているだけである。不潔な留置場はシラミの温床でもあった。松久はシラミ退治が毎日の仕事になった。面会は許されていなかったが、衣類は替えることができたので、妻の婦美が洗濯した衣類を持って下鴨署に通った。  婦美は、当時の女性としては背が高いほうだった。下鴨署の特高たちは、婦美がくると、 「ほら、また|おおめろ《ヽヽヽヽ》(大女)が来たぞ」  とあからさまにいい合った。  婦美は、シラミをつぶした夫の着物を持って帰る。襟の縫い目などには、しぶとく生き残っているシラミがもぐり込んでいることがあった。婦美が幼な子の愛子をあやし、武雄を抱きしめながら、内弟子の藤本に寂しい顔をみせて、呟いた。 「これが亭主の血を吸ったシラミかと思うと、ニクらしいというより懐かしいわ」  しかし、藤本のほうはそうはいかなかった。松久が勾留されている間に、両親がきて、息子を大阪に連れ帰ってしまった。両親が、ブタ箱に入れられるような危険な思想の持ち主の師匠のもとに、大事な息子は預けられん、と考えたのだろう。内弟子第一号の藤本はこうして去っていった。藤本はのちに高村光雲の弟子、相原明雲に師事して、木彫作家となるが、しかし、両親に連れ戻されたあとも、松久のところにはよく顔を出した。  その藤本がいう。 「朋琳先生にとっては、あの勾留が人生の一つの転機になったのと違いますか。天理教のことも含め、いろいろ考えはった。ずいぶん悩まれたと思いますわ」  昭和三年のこの年、治安維持法違反、不敬罪で検挙された天理研究会の信者は、大西愛治郎以下百八十名が起訴された。これを第一次天理研究会事件という。検挙された信者の末端に松久がいた。  勾留されたまま、外界との接触を一切禁止され、いつ釈放されるかわからない状態の中で、無為な時間が流れ、不精髭面に目ばかりが異様にぎょろつく松久は、いつしか牢名主のような存在になっていた。新入りの男が、異様な風体をした松久を牢名主と思ってぺこぺこと低頭する。これにはさすがの松久も苦笑した。  実際、雑居房にはいろいろな人種がぶち込まれていた。悉皆屋《しつかいや》の竹岡という男は、娼妓を足抜きさせて逃げ、捕まった男だった。竹岡には妻子があったが、宮川町の娼妓の色香に迷ってのめり込むようになった。当然、金がいる。悉皆屋というのは、着物や布地の染め直し、洗張《あらいは》りなどを引き受ける職人で、高価な衣類も預かる。それを質屋に入れて遊び狂い、果てはその娼妓を足抜きさせて、金沢にまで逃亡してしまった。 「そこまでは良かったんや」  と竹岡はケロリとした顔で得意気に続ける。 「わしらが金沢にいるなんて、誰も知らんこっちゃ。そのはずやった。それがあんた……」  借家を見つけて、新婚生活の真似事をして間もなく、どこでどう調べたのか、そこを刑事が急襲してきた。妓楼の主人も一緒だった。 「往きはチンチンカモカモでよかったのやが、帰りは別々の車両に乗せられて、それが涙の生き別れ、わしはブタ箱に直行や。殺生やおまへんか」  この男には後悔の色など微塵もなかった。 「ええ女《おなご》やった。女房や子供には粥しか食わせなくても、あの妓には寿司食わせたい気になりまっせ。わかりますやろ、この気持ち。世の中にはそういう女がおりますがな」  松久はつくづく「人間の業《ごう》」を思った。不幸な生いたちから養子に出され、精神に異常をきたした養母と伯母を抱えて、若いころから女の子と知り合うこともなく、苦労の連続だった松久にとっては、男と女の機微などわかるはずがなかったが、妻子がありながら、そうまでする人間の業の深さを思わないわけにはいかなかった。  雑居房で一緒の男たちは、それぞれに修羅の過去を持ち、泥沼のような生活にあえいできた者、愛憎のもつれから女を傷つけた者、愛欲から妻子を路頭に迷わせた竹岡のような男と、一般の庶民生活からすれば、箸にも棒にも引っかからないような人生の落伍者ばかりだった。留置場は、いわば人生の吹きだまりだった。が、肩肘張っている若い共産主義者やシンパの運動家とは異なって、自然体で生きている人間のしたたかさがあった。そして、凄み、咆哮し、意気がってみせる彼らの無頼な姿には、どこかに男の切なさ、哀しさがにじんでいた。それを感じるようになったとき、彼らは松久にとって、人生の反面教師となっていく。  松久は、自分の心と対話することが多くなった。留置場は外界から遮断されている点では、自分の心を凝視《みつ》める格好の場所でもあった。松久が天理教に入信したのは、相次ぐ肉親の不幸から救われたいという一心からだったが、仏師の家でありながら、仏に帰依しないで天理教に走ったのは、熱心に勧誘した伊吹宗三郎の存在が何よりも大きい。いまこの留置場では、伊吹の絆から解き放たれている。自分一人で考えるしかなかった。  これまでの宗教活動は、すべて伊吹のいうなりに動いてきたようなものだった。「キリストの再来」と伊吹がいう茨木基敬に傾倒したのもそうだ。茨木は、本席の飯降伊蔵が亡くなったあとの後継者をめぐる教団の一連の内紛に乗じて、ほんまの後継者は自分である、という言動をした。伊吹に連れられて茨木に引き合わされたとき、松久が確かに異様な感動を受けたのは事実だったが、今、冷静になって振り返ってみると、ほんまに天啓者やったら、なんであんなぶざまなことしたんやろか、と急に思い出したことがあった。  茨木は教団内部から「淫祠邪教」の烙印を押されて追放され、松久が伊吹に連れられて訪れたときは、生駒《いこま》の富雄に移っていた。松久らがいるとき、たまたま刑事が内偵にきた。そのとたん、それまで傲然としていた茨木の態度が一変した。 (わたしらには麦飯しか出さへんのに、刑事がきたら、おべんちゃら《お世辞》たらたらいうて、ご馳走出してご機嫌とって、あれ、なんやろ。なんで神さんといわれる人が、警察にあんなにぺこぺこ頭さげて卑屈になったのやろ。教祖さまはどんな弾圧を受けられても、官憲を恐れたりなどせんかった。えらい違いや)  その光景を思い出すと、茨木に対して今まで抱いていたイメージが、すーっと遠のいた。  あの地震のときもなんかおかしいわ、と松久にもう一つの記憶が甦ってきた。ある日、大きな地震が家屋を揺り動かした。それに仰天して、茨木の妻が裸足のまま逃げ出したことがあり、それがあとで、神さんをほったらかして自分だけ逃げた、と陰口を叩かれるもとになった。 (茨木さんがほんまの神さんやったら、天啓があったのと違うやろか。天啓があったら、何もあわてて逃げることなどあらへんのに)  それは前から抱いていた疑問だった。教祖みきは、日露戦争の始まる前から、 「いままでは唐《から》や日本というたけれど、これから先は日本ばかりや」  と断言し、これから先は日本が�世界国家�を築いていく中心になると�予言�した。松久は少なくともそう信じているが、天理教にあっては、天啓者はそうした予言能力を持っていなければならなかった。  茨木さんは、英語ともヘブライ語ともつかぬ難解な言葉をぺらぺらしゃべって、神のお告げを取り次ぐ霊能力を持っているといわれたけれど、あれはコケおどしやなかったろうか。天理教に入信したばかりの十六歳のころは素朴に信じていたものが、他人よりも人生の辛酸をなめてきた三十歳のいまは、一度疑い出すと、その不信感が増幅されていった。  松久は、教祖みきの示した『おふでさき』や『おさしづ』は絶対的なものとして信じている。しかし、教祖みきや本席の飯降が亡くなったあと、後継者争いで内紛が絶えなくなった。それはなぜだ。松久は、真柱を擁する教団本部のやり方に、根本的な疑問を持っていた。 (本部は、それこそ教祖さまのお言葉をねじ曲げて、教団というデッカイ化物をこしらえているだけやないか)  そうした俗物主義に愛想をつかして、松久は、新しい天啓者として登場してきた大西愛治郎に「真の後継者」をみて私淑し、いまこうして留置場にぶち込まれるまでに自分の全存在を賭けてきた。妻子まで犠牲にしている。それもこれも、教祖みきが予言したように、自分らのように「谷底」の人間こそ「国の柱」になり、この世に宗教世界を具現しようという理想に燃えていたからであった。そして大西こそ、弾圧を恐れて官憲の前に天理王命の主命まで変更するような腰抜けの本部と違って、教祖みきの教えの原点に立ち戻ろうとする強烈な宗教的確信を持った天啓者と信じてきたからだった。  松久にとって、教祖みきは絶対的な存在だった。だが、大西も絶対的な「神」たらんとしている。そのために、自分を「生き神さま」として信者たちに崇めたてさせ、天理研究会を肥大化させている。これも一つの巨大化した組織ではないのか。 (大西さんが、教団の内部革命論を唱えたのも、所詮は教団内に、自派の勢力を植えつけ、拡大しようという野望があるからやないやろか。結局は、本部と研究会の組織対組織の争いや、主導権の奪いっこやないのか) (いや、教祖さまの神意をこの世に実現するためには、力がなくてはできん。そのための組織作りやないか)  松久は心の中で独り問答を繰り返した。 (大西さんが、独走する軍部と政府に体を張って抵抗するのは当然や。けど、天皇より自分を絶対の神とせよ、という国家革命論までいくとどうやろか。それでほんまに民衆は救われるやろか。もしかしたら……)  松久の心に疑問がふつふつとわいてくる。 (大西さんも所詮、教祖さまの教えのうち、自派の都合のええとこばかり取って、神や民衆のことを利用するだけやないのか。本来、神の教えは形やない、心のつとめが大事、と教祖さまもいってはる。組織は大きくなれば堕落するもんや。大西さんはそれを別に作ろうとしている。その結果はどうなるか。おれは本部と大西派の間に挟まれてもみくちゃにされるだけやで)  内弟子の藤本がいったように、松久は本質的に「宗教的な革命家でも理論家でもない」、いわば情念の男で、天理教の活動にしても、情熱に火がついてカーッと一気に燃えあがるところがあった。それが孤独な獄中で独り問答をしていると、今まで盲信的になっていて流されていた自分の心のなかがみえてきた。  わたしは仏師や、その原点に戻ったとき、天理教という憑《つ》きものが落ちた。 「ほんまの神は、もう天理教から姿を消してしもたんや。教祖さまの教えは、おれの心の中にあればええ。組織なんかいらん。神さんとか仏さんは、教団とか宗派とか、組織を超えたところにある。そうや、天にあるもんや、宇宙にあるもんや、自然のなかにあるもんや」  松久はそう叫びたい気持ちにかられた。松久はのちにこう語っている。 〈それに私が強いジレンマを感じたのは、天理教が徹底した現世中心主義に立ち、日本人の宗教観念の中心を占める祖先崇拝が、教義上ほとんど意味をもたないということでした。私は、仏師としての自分の生き方にかかわる問題として、ひそかにそれを悩んでいたのです〉  松久は、獄中で自分の生きるべき道を発見した。 「天理教という�幻影�を払いのけて、これからは仏さんを彫ることにすべてを集中しよう。わたしは仏師や、いや、立派な仏師になるんや」  松久が下鴨署から釈放されたのは、それから間もなくだった。松久は、あれほど傾注し、のめり込んでいた天理教と全存在を賭けて私淑していた大西愛治郎に、なぜ訣別したのか。  二十七日間という獄中生活は、自由を束縛された身からすれば、長いといえば長い。まして松久は末端につながる信者であり、しかも生活のあてさえない妻子を抱え、心を病んだ伯母までいる。二十七日間も勾留されているのは、筆舌に尽くしがたい苦痛だった。  本人はのちに「実によい人生勉強をさせてもろた」と語っているが、当時そんな心の余裕があるはずがなかった。強制された孤独な内省の時間の中で、自分の心を凝視し、独り問答を繰り返しているうちに、組織闘争に巻き込まれていた愚を悟り、神とは何か、仏師として生きるべき道の深遠さに思いいたったのは事実であるが、松久にそれを促す外的な要因はなかったのであろうか。  治安維持法違反で検挙された者の数は実に六万人を超えたといわれるが、その中で起訴猶予の処分、もしくは執行猶予のいい渡しを受けた者、または刑の執行を終わるか、仮出獄を許された者の数も一万人以上を超えている。これらの検挙者の大多数は、いうまでもなく共産主義者やシンパだったが、国家権力が彼らを抑えるためにとったのが「転向」という問題だった。  日本共産党のリーダー、元共産党中央委員長、佐野学らが転向声明を発表して、社会に衝撃を与えたのは、三・一五事件から五年後の昭和八年六月だった。佐野とやはり最高指導者の鍋山貞親の二人は連名で声明書を発表、日本共産党の方針と活動、とりわけ「天皇制打倒」のスローガン、党の反戦闘争、植民地の解放政策などは誤りであると批判したのだ。もちろん、日本共産党はすぐに「党破壊に狂奔するスパイ的裏切者」に即時除名の処分を下した。が、これを機に、大量転向が続出したのである。  転向の背景には、官憲による逮捕、投獄、そして拷問という国家権力の行使があったが、それと同時に、共産主義の非現実性から天皇主義に回帰しようとした当人たちの自発性もそこにからみ合っていたことを見逃すわけにはいかない。  のちに出獄した佐野学はその手記にこう記している。 〈私は宮城二重橋の前に恭しく額づき、神寂びた皇居を拝して、これまでの不臣の罪を謝し奉つた。私のやうな者が獄死もせずに生きて再び天日を仰ぎ得たのを思へば不思議な有難さが身に沁みる。これひとへに広大な皇恩の賜物《たまもの》である〉  もちろん、共産主義者と宗教者を同一視することはできないが、治安維持法違反、不敬罪で検挙された信者たちが拷問を受けたこともまた事実だった。松久は「拷問を受けた」とは語っていないが、官憲の取調べの過程で、精神的な拷問と懐柔策があったことは容易に想像されることである。松久もやがて天皇主義に回帰していく。そして、何よりも自分が仏師であることを自覚したとき、松久は天理教と訣別し、出獄を許された。  大西愛治郎ら天理研究会の一派は、百八十名が起訴され、二百八十七名が起訴猶予となった。大西は第一審、控訴審とも懲役四年の判決が下ったが、大審院では精神鑑定を受け、心神喪失中に犯行をなしたものと判定されて無罪となった。しかし、昭和十三年、『憂国の士に告ぐ』という印刷物をバラまいて再び検挙された。これを第二次天理本道事件という。そして、やはり宗教弾圧を受けて壊滅状態にさせられた大本教の出口|王仁三郎《わにさぶろう》らと釈放されたのは終戦後のことであった。  松久は天理教とは訣別したが、青春の多感な時代に救いを求めた教祖みきの教えは、いわば精神世界、宗教心涵養の原点となった。そして、やがて仏師として、松久独自の�朋琳教�とでもいうべき宗教的世界を形成していくことになる。 [#改ページ]   第二章 無明の闇を生きる父子   1 京仏師の系譜 「京仏師の偉大な先人には、定朝がおる。運慶や快慶もおる。あの大仏師たちがおれと同じ仏師だったなんて、考えるとそら恐ろしいわ」  松久は深いため息をついた。  松久が一時、師と仰ぎ、修業に通ったことがある栢口《かやぐち》隆運は、七条仏所、慶派の系譜につながる仏師だった。栢口は菓子屋の伜として生まれ、やはり仏師の家に丁稚奉公して仏像彫刻の道に精進、明治・大正期の名人と呼ばれるまでになった仏師で、その作品は精密で華麗、「栢口流」と讃えられていた。松久が手ほどきを受けたのは十二歳の頃から三年間だけで、家庭内の不幸から通うことができなくなったが、仏師としての影響は、養父丈五郎よりもこの栢口隆運から受けたものが大きかった。  栢口は名声などにはまったく無欲の人で、朝起きてから寝るまで、ずっと仏像を彫りつづけるという清貧の生活を貫いていた。栢口が仏師として生きた時代は、明治の廃仏|毀釈《きしやく》の嵐が吹き荒れ、仏師にとっては不遇な時代だったが、安い仕事にも決して手を抜くということがなかった。自己に厳しく、ある意味では孤高の仏師だったが、丈五郎との関係もあって、松久には目をかけ、いつもこう教え諭していた。 「京仏師いうもんは、定朝さんからずーっと生きつづけている立派な仕事なんやで。誰も見てなくても、ちゃんと仏さんが見てはる。心で彫ることや。いまに坊ンにもそのことがわかる日が必ずくるやろ」  そして、その心構えを説いて聞かせた。 「あまり道具に頼ったらあかん」  仏師になりたてのころは、誰でも道具に凝りがちで、高価なノミ(鑿)をたくさん使えばうまく彫れると錯覚しがちだが、それではノミに頼りすぎて肝心の技術がおろそかになってしまう。仏像は決して道具で彫るのではない、心で彫るのだ、というのが栢口の教えだった。師の教えがいま、鮮烈に甦ってくる。 「仏師いうのは名利を求めたらあかん。ひたすら心で仏さんを彫りまいらす、その心が大切なんや。それが衆生が自然と手を合わせたくなるような仏さんとなって、この世に慈悲をもたらす。坊ンもいつか、京仏師の伝統を現代に受け継ぐような立派な仏師にならんとあかんで」  栢口は、京仏師の魂を松久に何度も語って聞かせた。栢口は七条仏所、慶派の系譜につながる仏師の誇りを、その孤高な魂の中に誰よりも強く秘めていたのだと、松久は思った。  七条仏所は、京仏師の始祖、定朝とその系譜につながる仏師たちが居住して仏像を彫っていたことから、その後の仏像彫刻のメッカとなったところで、旧跡はいまも京都駅の近く、七条通り高倉の一角に残っている。 「七条仏所跡」と記された高札には、その由来がこう墨書されている。  平安時代中期に活躍した仏師(仏像彫刻家)定朝をはじめ、その一族、子弟、子孫がながく居住して彫刻にはげんだ「仏所」のあったところで「七条仏所」「七条大仏所」と呼ばれていた。定朝は、かの平等院鳳凰堂の本尊阿弥陀如来の作者で「和様」と呼ばれるすぐれた彫刻様式を完成した。一方彼はすぐれた技術によって法橋の位を与えられ、仏師の共同組織として「仏所」の制度を整えるなど仏師の社会的地位の向上につとめた。  これらのことから、定朝はわが国仏師の始祖と仰がれている。  鎌倉時代に入って、この仏所から運慶、湛慶、快慶らが相ついであらわれ、剛健な、また写実的な多くの名作を世におくった。しかし室町時代に入って、彫刻は全体としてふるわず、この仏所も二十一代康世のとき四条|烏丸《からすま》に移転した。その後幕末の兵乱で火災にあい、仏所の遺構は完全に失われた。 京都市 「仏所」は今でいう工房で、定朝の時代からここには仏師だけでなく、木地師《きじし》、塗師《ぬし》、箔押師《はくおうし》、截金師《きりかねし》といった職人たちが大勢集まっていて、一種の共同組織体として仏像の制作にあたっていた。  定朝はいうまでもなく、平安時代の藤原氏一門の栄華の象徴である宇治の平等院鳳凰堂の阿弥陀如来を造仏した仏師として知られている。高さ二百九十四センチにおよぶ、この鳳凰堂の本尊は、定朝の唯一の遺品で、「寄木造り」という新しい工法の開発によって初めてつくられた日本独得の「和様」を完成させた画期的な阿弥陀如来である。この様式が「仏の本様《ほんよう》」といわれ、その後の日本の仏像彫刻にさかんに踏襲され、やがてのちに松久も比叡山延暦寺の大講堂の本尊、大日如来をつくることになる。 「寄木造り」というのは、霊木信仰からそれまで一本の木から仏像をつくってきた古代の工法にたいして、頭体部、本体、両脚部、両手部、あるいは前面と背面とを別々の木でつくり、最後に合体、一つの仏像として完成させる革命的な新工法で、この工法を使えばどんな巨大な仏像でもつくることができる。それを完成させたのが定朝であった。  そして「和様」彫刻とはどういう特色をもつ仏像なのか。久野健が『仏像の歴史』の中で、大陸の仏像との違いをこう指摘している。 〈十一世紀に入るころまでの日本の仏像は、多少なりとも大陸の仏像の影響を受けながら展開してきました。それに対し鳳凰堂の阿弥陀如来像は、大陸にはまったく例のない仏像なのです。顔は丸く、目は伏し目、鼻は低く、唇はいじょう(異常)に女性的で小さい。体はどうかといえば、正面から見ると、胸幅は割合広く包容力に満ちていますが、側面から見ると、意外に扁平で、平安初期のような奥行きはありません。また、体を包んでいる大衣《だいえ》は、平安初期の像にくらべていじょう(異常)に皺《しわ》数が少なく、またととのえられ、しかも浅く彫られています。鳳凰堂の阿弥陀如来像は、当時の藤原貴族が心にえがいた仏の姿を、目に見える形で示したものではないかと考えられます〉  定朝が仏師として、父であり師である康尚から受け継いだ天賦の才をもって活躍したのは、まさに道長、頼通に代表される藤原氏一門が栄華をきわめた時代であったが、またこの時代は、釈迦が入滅してから「正法」「像法」の世がすぎ、当時の貴族たちは、永承七年(一〇五二)から「末法」の世が始まったと恐怖に脅え、ひたすら極楽往生を願って、競って造寺造仏に財を注ぎ込んだ時代でもあった。  権勢をふるった道長でさえ、晩年は病魔にさいなまれ、亡くなるときは、自ら造立した法成寺《ほうじようじ》阿弥陀堂に籠り、高僧たちが読経する中で、丈六の阿弥陀如来の手から垂らした五色の糸を握りしめ、極楽往生を願って息を引きとったほどである。この九体の阿弥陀如来像を、父の康尚を助けてつくったのも定朝とされている。  そして、頼通が自分の別荘を寺にして、この世に阿弥陀如来の浄土を再現しようとしたのが平等院鳳凰堂で、「極楽を見たければ、宇治の平等院鳳凰堂に行けばよい」といわれたほど、西方浄土の思想が見事に建物にも仏像にも反映しているが、その本尊の阿弥陀如来像をつくったのが定朝だった。  仏師としての定朝は、道長から仏師としては初めて当時としては最高の「法橋」という僧綱位《そうごうい》を贈られた。以後、「法橋」「法眼」「法印」という僧綱位が仏師の名誉の位として与えられる道がひらかれ、この僧綱位の慣習は江戸時代までつづく。しかし明治以後は廃仏毀釈の嵐に翻弄され、仏師の存在など誰も見向きもしない不幸な時代に、松久は生きている。 「七条仏所」からは、鎌倉時代に入ると、運慶と快慶ら、これまた仏像彫刻の新時代を創った不世出の天才たちが生まれた。そしてのちに述べるように、「慶派」「院派」「円派」の三つに分かれ、慶派は七条仏所、院派は七条大宮仏所、円派は三条仏所にそれぞれに仏所を構えて、その造仏隆盛を競っていた。  しかし、松久が仏師として生きようと決意を新たにして、下鴨署の留置場を出た昭和の初期の時代に、京仏師の栄華の歴史は、あとかたもなかった。 「おれは仏師として何をしたらええんや」  松久はむろん、不敬罪で検挙され、勾留されるまでは、仏師として細々ながらも仕事をして糊口をしのぎ、貧乏な生活とはいえ、家族を養ってきた。が、それは仏師の家に養子にやられ、いわば世襲的に仏師の仕事を継いだにすぎない。「御仏師」松久の店を継ぐことは、子供がいない松久家に養子に入ったものの宿命であった。  だが、いまの松久の心を何かが大きく揺さぶっていた。それは天職としての仏師の自覚といってもよかった。栢口師の教えが甦り、自分もまた定朝から始まった京仏師の系譜の中にいるという感動の発見といってもよかったが、その一方では、相変わらず生活の不安も大きかった。  昭和六年、恐慌はさらに深刻化し、九月にはついに満州事変が勃発して、日本はこのまま十五年戦争の泥沼にのめり込んでいく。絶望的な暗黒の時代の始まりだった。松久は三十一歳になっていた。子供も次女の喜佐子《きさこ》、次男の鼎《かなえ》が生まれ、四人になった。天理教と訣別し、下鴨署の留置場を出てから、もう三年が過ぎていた。  天理教に入信したときもそうだったが、松久は心が動くと、すぐそのことに熱中するタチだった。 「まずは一から出直しや」  松久はそう覚悟を決め、初めて七条仏所のことを調べてみた。京仏師としてのルーツを知り、自分の「存在理由」を確認し、確信を持ちたいからであった。七条仏所の遺構は残っていないが、定朝の墓は千本北大路の上品《じようぼん》蓮台寺にあることがわかった。墓石には「日本仏師開山|常《ヽ》朝法印」と刻まれているが、「常朝」は朝廷からの謚《おくりな》によったものという。墓も昔は上品蓮台寺の近くにあったものを、明治の中期に上品蓮台寺に移したこともわかった。 「定朝さんの命日は十一月一日や。どや、ご命日に皆んなで供養して、定朝さんのご利益にあやかりたいもんやな」 「夢よもう一度っちゅう願でもかけようかいな。なにせ定朝さんが活躍しはったころが仏師の黄金時代なんやから」  松久が若い仏師仲間と雑談し合っているときに、やっぱり仏師の元祖の定朝さんをお参りせんとあきまへんな、という話になった。これがきっかけで、定朝の命日に法事を営み、「定朝会」ができることになった。松久の他にも、京仏師の伝統を受け継ごうとしている仏師たちが何人かいた。江里宗平などもその一人で、宗平の息子の康則はのちに松久の内弟子になる縁につながる。そして、この「定朝会」が昭和十七年には「京都仏像作家連盟」に発展していくことになる。  松久の心にやっと何かがみえてきた。が、家庭生活はこの時期、息子の武雄がのちに「父に対しては愛憎相半ばする」と正直に告白したように、まさに「家庭崩壊」の危機にさらされていた。   2 妻の死 「いくら何でも、こんな嵐の日に引っ越しせんでもええのに。まるで夜逃げみたいやないの」  妻の婦美が、質草にもならないような、わずかばかりの着物を包みながら、つい愚痴をこぼした。  家財道具といっても、目ぼしい物は何もなかった。古びた長持ちと薄汚れた布団類が数組、それに鍋、釜、茶碗などの生活用品、子供たちの机と教科書の類いがあるくらいのものだ。九歳になった長男の武雄が黙って、自分の学校の用具を鞄に詰め込んでいた。幼い弟妹たちは、わけも分からず、陽気にはしゃいでいた。夫の松久は、道具を丁寧に包みながら、憮然とした声で妻に答えた。 「おふくろと一緒に生活するのはもう嫌、というたのはおまえやないか。それでおれも腹を決めたんや。どうせ引っ越しをせんならんなら、一日も早いほうがええ」 「それはそうやけど、よりによって、こんな雨風の日に引っ越しせんでも……」  婦美がため息をつくのも無理はなかった。外は激しい嵐だった。前の晩から凄まじい風が吹き荒れ、横なぐりの雨が降りしきっていた。粗末な家はみしみしと不気味な音をたてて軋み、窓ガラスが割れた。そこから容赦なく雨風が叩き込まれてきた。松久は襖を外して窓に応急処置をほどこし、ようやく雨風を防いだ。そのうち、今度は屋根瓦が吹っ飛んだのか、天井のあちこちから雨漏りがしてきた。一家は一晩中、雨漏りを避けながら、寝ずに夜明けを迎えたのだった。一番下の鼎はまだ三歳にもなっていない。荒れ狂う嵐の物音に脅え、母の胸にすがって夜通し泣いていた。  今日は引っ越しをするというのに、なんてひどい嵐だ。松久は腹だたしかった。婦美は貞淑な妻だったが、実母の琴江とソリが合わなかった。精神に異常をきたしていた伯母の春が亡くなったあと、松久一家は寺町の露路裏の家にまた舞い戻り、実母の琴江と同居していた。  しかし、家老職の家柄に生まれた琴江は何かと見識が高く、ガミガミと権高《けんだか》にものをいうので、婦美と折合いが悪かった。嫁姑の不仲に困りはてた松久は、それで琴江には内緒で借家探しを始め、こっそり引っ越しをする手筈を整えていた。そこへこの無惨な暴風雨だった。おれの人生はまったくついてないやと、松久は無情な嵐が恨めしかった。  昭和九年九月二十一日。嵐はますます激しさをまして、関西地方を襲っていた。「室戸台風」と呼ばれることになるこの大型台風は、四国の室戸岬に上陸、九百十一・九ミリバールという日本の陸上では史上最低の低気圧を記録し、さらに北上して京阪神地方を直撃したのである。  瞬間最大風速が毎秒六十メートルにも達した凄まじい風雨は、至るところで甚大な被害をもたらした。大阪市西淀川区の療養所では、高潮で水浸しになったため、院長が引率して約六百人の患者を付近の堤防に緊急避難させたが、それも束の間、患者たちが一瞬にして波にさらわれ、約四百五十人の患者が死亡・行方不明となる大惨事に見舞われた。東海道本線の滋賀県石山駅東方の瀬田川鉄橋では、台風にあおられた列車の客車九両が転覆し、百七十五人の死傷者を出す大事故となった。  この台風で死者や行方不明になった人は三千三十六人、全壊、半壊もしくは流失した家屋は実に八万戸を越すという未曾有の大惨事で、人々は阿鼻叫喚の地獄の中に叩き込まれ、自然の猛威の前に成すすべもなく、翻弄されていた。  京都の被害はまだ少ないほうだった。大阪の四天王寺の五重塔と中門(仁王門)も倒壊し、金堂が傾き、太子殿が破損した。台風の悪魔のような爪あとは、神聖な伽藍さえも無惨に倒壊させ、さながらこの世に仏の慈悲などなきがごとくであった。四天王寺の五重塔は大丈夫というので、そこに避難した人たちが倒壊した建物の下敷きになって圧死した。  五重塔は建築学の泰斗、天沼俊一の手で再建されるが、この塔もまた昭和二十年三月十三日の大阪大空襲の被害を受けて、他の伽藍ともども焼失してしまう。そして昭和三十八年に大伽藍が不死鳥のように再興され、松久が仁王門の阿吽の仁王像を彫ることになるが、松久はむろんこの室戸台風のとき、自分の将来にそんな仏縁が待ち受けていることなど知るよしもない。  松久は、一段と荒れ狂う台風を恨めし気に睨みながら、さすがにこれでは引っ越しは無理だ、とあきらめた。が、昼を過ぎたあたりから、嵐の勢いが衰えてきた。風も弱まり、雨も小降りになった。松久は現金なもので、これなら引っ越しできんことはない、と思い直した。根が激情家の松久は、 「嵐の日に引っ越すのもおもろいやないか。一生忘れられん日になるがな」  と、しぶる婦美をせきたてて、一気に引っ越しを敢行した。というより、手配していたトラックがこんな日でも来たため、空で帰しても手間賃は払わなければならない。それならいっそ無理をしてでも引っ越してしまえ、と思ったのである。いまの松久家にとっては、トラックの手間賃を払うのさえ痛かった。  松久家が新たに引っ越した先は、中京区の壬生寺《みぶでら》の近く、壬生相合町にある借家だった。この壬生の家も、「門口でお辞儀をしたら奥の便所に行きあたる」と松久が評したような、奥行きのない狭い二階建ての住まいだったが、狭いなんていっていられない。わずかばかりの家財道具を運び込んだ。その夜は台風で電線がずたずたに切断され、どこもかしこも停電だった。勝手の分からない新しい家で、松久一家はランプを灯しながら、引っ越し第一夜の夕食をとった。子供たちがはしゃいでいた。婦美も、口うるさい姑から解放されて、初めて親子水入らずの生活がこれから始まるのだと思うと、引っ越し前の愚痴はどこへやら、子供たちに食事をさせながら、自分も嬉しそうだった。 「寺町の露路裏住まいより、よっぽどましや。狭くてもやっぱりわが家ね」  婦美にとって、これから先の数年間は経済的には貧しくても、もっとも幸せな生活だったが、最大の悲劇はそのあとに不意に襲ってくる。  婦美は、仏師の夫と結婚してこのかた、貧乏生活と縁が切れたことがなかった。結婚してすぐに長男の武雄と長女の愛子が生まれ、藤本陽二という内弟子もできたが、夫は天理研究会にのめり込み、不敬罪で留置場に入れられてしまった。その間、婦美は手内職をして辛うじて生活を支えてきた。森ケ前町の借家時代は、新婚の甘い生活などはどこにもなかった。  日本全体が不景気に被われていた。松久は天理教と訣別して下鴨署から出てきたあと、心機一転して、森ケ前町から下鴨神社の真裏手にあたる松ノ木町に引っ越しをした。昭和四年のことで、政界では緊縮財政を唱える浜口内閣が出現したが、金解禁断行による金融恐慌の嵐は、日本中を混乱に巻き込んで、いわゆる「昭和恐慌」を引き起こした。不景気は増大し、失業者も続出していた。  こんな時代に仏像を彫る仕事などはあっても稀だった。仕事がなく無聊《ぶりよう》をかこっている松久は、食うために易者の真似事を始めた。松ノ木町に移った年に次女の喜佐子が生まれ、二年後の六年には次男の鼎も誕生して、子供が四人にふえた。実はもう一人、男の子が生まれたが、三男になるべき子は早逝した。親子六人の生活に加えて、精神に異常をきたしている伯母の春まで面倒をみなければならない。明日の米にも困るような極貧の生活だった。  このままでは一家が餓死してしまう。何とか金を工面しなければならないが、本業の仏師の仕事はほとんど無いに等しかった。松久は万策尽きた。養父母が死んだあと、親子の縁が復活し、よく顔を出すようになっていた実母の琴江が、その頃は建仁寺の北門を入った左側で易断をやっていた。名家のお姫さまとして育っただけに、琴江は流転の人生を送りながらも、どことなく顔立ちに気品が漂っており、紫の被布などをまとうと、謎めいた妖しい雰囲気をかもし出す。そのため、「建仁寺八卦」といって、なかなか人気があった。 「大本教の出口王仁三郎も夜の夜中に御高祖頭巾《おこそずきん》で顔を隠して、八卦を見てもらいにきよったよ」というのが琴江の自慢だった。  松久はこの実母から、見よう見真似で易学を齧《かじ》ったことがあった。仏を彫ることの他に自分にできることはといえば、この聞き齧りの易学しかなかった。 「しようがない、易者にでも成るか」  という夫に、婦美があきれた。 「あんたが易者に? 俄《にわか》易者になんて誰が見料払って占ってもらうというの」 「当たるも八卦、当たらぬも八卦や。おふくろだって、娘時代に教養の一つとして習い覚えた易学が生計の道になったんやから、おれにもでけんことはあるまい」  松久の一夜漬けの易学の勉強が始まった。易学の書には、新井白蛾の『易学|小筌《しようせん》』、真勢《ませ》中州の『範囲図』などがあるが、松久は実母からそれらの書を借りて読みふけり、さらに「高島易断にあらずんば易にあらず」とまでいわれた高島|呑象《どんしよう》の易学に心酔した。天理教にのめり込んだときもそうだったが、松久の熱中癖が今度は易学に向かわせた。 〈とにかく、天・沢《たく》・火・雷・風・水・山・地という、自然の現象のなかでも最も人間に神聖視されている八つの現象、すなわち�八卦�をもって、人間の運命を占うという至理至妙な�易�の哲学に、わたしはもう無我夢中となってしもたのです。そして�易�の同好会みたいな集まりにも加わり、神戸あたりまで足をのばして著名な易断家の講演を聞いたりもいたしました〉  と、松久はのちにこう語っているが、婦美にもいったように、ついには松ノ木町の家に「易断」の看板を掲げて、本当に易者になってしまった。  しかし、世の中はそんなに甘くはない。見料が安いため、そこそこに客はあったが、家族六人の生活を易者稼業で支えるという目論見はものの見事に外れた。貧乏のどん底で、伯母の春が不幸な生涯を閉じた。生きている家族の生活も悲惨だった。ついには米にもこと欠き、家賃を払う金もなく、家主から追立てを食らう羽目になってしまった。行くところは寺町の露路裏の家しかなかった。たまたま実母の琴江の連れ合いが亡くなり、琴江が一人で住んでいた。松久は家族を連れて、情けない姿で寺町の家に舞い戻った。  婦美にとって、姑の琴江の存在は、貧乏な生活以上に心痛の種となっていった。最後まで「家老の娘」という誇りを捨て切れなかった琴江は、ことごとに婦美に辛く当たった。婦美は北陸若狭の農家の出である。加賀百万石の名家の血筋だけが心の拠りどころだった琴江は、何かというと、「フン、農家の娘のくせに」と憎悪さえむき出しにして、息子の嫁を小馬鹿にした。  琴江は、孫の武雄らにたいしても、絶えずガミガミと文句をいっていた。武雄はすでに小学生になっていた。父と同じ開智小学校に入学したが、育ち盛りのイタズラ盛りである。初老の琴江は、薄くなった髪を隠すため、当時では珍しく前髪に髢《かもじ》をこっそり入れていた。いまでいう鬘《かつら》である。  琴江が夜寝ているとき、武雄がふと見たら、祖母の鬘がズレて、薄く禿げかかっている頭頂部分がのぞいていた。祖母の�秘密�を知って、思わず笑い出した武雄は、寝ていたはずの祖母が目を覚まして、下からジロッと睨みすえている視線に気がつき、恐怖心さえ感じた。恐ろしい祖母の目つきだった。髪の�秘密�を孫に知られた琴江は、武雄を権高に叱りとばして、「人にしゃべったらあかんよ」と釘をさした。  嫁と姑の関係は年がたつごとに一層険悪なものとなっていった。その板挟みになって、松久も気苦労が絶えなかった。子供たちも、祖母に叱られてばかりいて、普通の家の子供のように、「おばあちゃん」となつくどころか、かえってイジけてしまっている。夫として、父として、松久は決断を迫られていた。 「もうこんな家はかなわん。わたしたちを取るか、お義母さんを取るか、あんた、男ならちゃんと決めてちょうだい」  婦美からも最後通告を出されては、松久も覚悟をしなければならなかった。 「ほなら、また引っ越しやなあ」  先だつものは金だが、このころは、百万遍の知恩寺《ちおんじ》の数珠に文字を彫る仕事が回ってきていたので、寺町の家に舞い戻ってきた当時に比べたら、少しは家計の足しになっていた。知恩寺は京大構内の北、今出川通りに面したところにある。法然上人が念仏道場として開いた古刹で、知恩院とともに浄土宗にとっては由緒ある寺だった。  知恩寺では毎年、四月二十三日から二十五日まで「御忌会《ぎよきえ》」といって、信者たちが「南無阿弥陀仏」と唱えながら、大念珠繰りの行をする。このときに使う大数珠は、直径三寸くらいもある数珠で千八十個つながっているが、この数珠玉に「××家先祖代々之霊位 施主××」と、信者から受け付けた文字を彫るのが、松久の仕事だった。一文字二銭の彫り賃だったが、十五、六字のものは三分もあれば簡単に彫れる。毎年、一週間ほど仕事をすると、三十円から四十円、多い年は五十円になった。その仕事が二年ほど前から毎年もらえるようになっていたので、松久は引っ越しても何とかやっていける、と計算をしたのである。 「けど、そんなこと切り出したら、おふくろがまた猛り狂うから、新しい家が見つかるまでは内緒にしておけ」  松久は妻にそういい含め、琴江には黙って借家を探して歩いた。そして見つけたのが壬生相合町の借家だった。琴江は、一人で置いてけぼりにされると知って、激怒して叫んだ。 「おまえたちの顔なんか見とうない。さっさと出て行け!」  それが室戸台風の嵐の日の引っ越しとなったのである。婦美も子供たちも初めて琴江の呪縛から解放された。壬生相合町での新生活が始まった。  台風一過のあとの秋晴れの空。爽やかな日々が続いていた。松久にとっても、婦美にとっても、久しぶりに訪れた平穏な心の休まる生活だった。壬生相合町は友禅染めの工場が多かった。いわば友禅染めの職人の町である。職人たちは気位が高いが、技術を持っている者に対しては、それなりの尊敬を払う。松久は、借家の表の間に棚を作り、そこに今まで売れるあてもなく彫ってきた仏像などを並べた。ちょっとした店の構えになった。  仏像には�三十二相八十種好�という細かい約束事があるが、一定の技法を習得し、一定の形を記憶してしまえば、仏像の形に仕上げること自体は、松久にとってはさして難しいことではなかった。  たとえば、三寸の釈迦如来坐像を彫る場合、ノコギリ、ノミなどを使って「木取り」をする。そして、額口、顎、耳の位置を決め、ノミで顔、肩、腕、膝の角を丸めていく。胸幅は曲尺《かねじやく》で二つ測り、それを保ちながら、胸と腕とを分けるようにノミと丸刀を入れていく。手の位置はいきなり決めずに、上から少しずつ彫り下げていくのがコツだ。  仏像が一般の彫刻と違うところは、とりわけ指の表現にあった。�印相�といって、指の形を反らせたり曲げたり、さまざまに表現が変化しているのはすべて意味があり、仏の思いをあらわしているのである。仏師は、指先をみただけで、それが生きた仏像か、死んだ仏像か、を見分けることができる。したがって印相の中央の線をきちんととらえることが大事である。  さらに肩から腰にかけて、少しずつ丸みをつけていき、全体のバランスをとったところで、顔のつくりに入る。仏像の頭は肉髻相《にくけいそう》といって、高く盛り上がっているが、これは徳の高さをあらわすもので、仏像独得の表現だった。長くて大きい耳をしているのも特徴だ。これは、迷える衆生のどんな悩みでも聞き届けてくれるという、み仏の慈悲の心の表現だった。  そして目。仏像の切れ長の目は、無限の未来のことまで見透すようなものでなければならない。人間の�鵜の目鷹の目�と違って、仏像の目は欲というものがカケラもない、深い慈悲の目をしていなければならない。貧乏のどん底で彫っている松久は、おれの彫る仏さんは買い手を探している、もの欲しげな顔つきや、と自嘲することがあった。  仏像彫りは、「荒彫り」「小づくり」、そして「削り上げ」の三つの工程から成るが、衣紋《えもん》のヒダの模様を彫って完成させるのに、三寸の釈迦如来坐像なら二日もあれば十分だった。店先には、そうして暇にまかせて彫った小さな仏像を並べていたが、仏像は買う人もなく、いつまでも棚の上からなくならなかった。  店は高辻通りに面していた。松久が店先に座って、それぞれこつこつと仏像を彫っていると、職人や子供たちが物珍しそうに寄ってきて、松久はたちまち近所の名物男になった。松久には、案外、人をそらさぬ如才のなさがあった。根が楽天的で話好きでもあった。この町に移った翌昭和十年には末娘の真百美《まゆみ》が生まれ、松久は三十四歳で五人の父となった。  一家七人の生活は、相変わらず極貧の生活に近かった。内弟子第一号の藤本陽二は、実家に戻ったあとも、時どき松久の家に遊びに行っていた。ただ閉口するのは、「泊まって行け」と勧められて、子供たちの寝小便のついたままの布団に寝かされることだった。 「鼎さんや真百美さんがまだ小さかったからね、おしっこの臭いがぷんぷんする布団を出されるんですよ。客用にはそれを使うしかない。あの布団には閉口しましたよ」  雪が降ってくると、容赦なく戸の隙間から吹き込んできた。京都の冬は底冷えがする上に、雪まで家の中にうっすらと白い模様を作るのだから、寒いことこの上もない。臭い布団でもかぶって、震えて眠るしかなかった。  松久家には下駄も一足しかなかった。 「先に履いたほうが勝ちや」  といって、松久は気にもかけない。藤本が着て行った外套《がいとう》も、油断をしていると、松久がひょいと引っ掛けて出掛けてしまい、なかなか帰ってこなかった。松久も「これ以上はない」というぐらいの貧乏をしたと語っているが、食べられるものは何でも食った。 「いつだったか、珍しく家の中を大掃除したことがあるんですよ。そのときどこに潜んでいたのか蛇が出てきた。隙間だらけの家だから潜り込んでいたのでしょうね。その蛇を大騒ぎして捕まえ、金網の上で焼いて食っちゃった。いやあ、あれにはギョッとしましたよ」  藤本が明かす貧乏物語のひとこまである。  壬生寺は、平安時代に園城寺《おんじようじ》(三井寺《みいでら》)の僧が、母の供養のため、定朝作の地蔵菩薩像を安置したのが寺の起こりと伝えられている。幕末には新撰組が一時、この壬生寺に屯所《とんしよ》を置いたことでも知られるが、ここは毎年四月に壬生大念仏会、いわゆる壬生狂言が行なわれることでも有名だった。  次男の鼎にはいまも鮮烈な記憶がある。五歳のとき、母に連れられて壬生の狂言を見に行った。参集した観客たちは、一銭玉を賽銭箱に投げ込むが、人波が多いため、遠くの人は一銭玉が届かずに、人の群れに落ちてしまう。幼い鼎は、人の群れをかきわけて、地面に落ちている一銭玉を何枚も拾い、それを母に渡した。母は黙って受け取り、焼きイモを買ってくれた。鼎はいまもその味を忘れることができない。 「それほど貧しかったんです。子供心にも強烈にその思い出が残っています」  その貧乏の盛りに、悲劇は不意に訪れた。  昭和十二年八月、京都はうだるように暑い日が続いていた。婦美は一日、夏休みに入っている武雄をはじめ、子供たちを連れて、嵐山に水泳に行った。渡月橋《とげつきよう》の川下で、武雄や愛子、喜佐子、鼎、それに二歳の真百美を抱いて、水遊びに興じ、家に帰ってくると、急に体がだるくなった。 「なんや知らん、ちょっとしんどいから休ませてもらうわ」 「暑気にでもあたったのやろ。少し体を休めたらすぐ治るやろ」  松久もあまり気にかけなかった。ところが翌朝になると、婦美の顔中にアセモのような腫物が吹き出して、「痛い、痛い」と異常なうめき声を発している。初めてこれはただごとではない、と思い、近所の町医者に診てもらったが、少しもラチがあかなかった。そこで東福寺の近くにある第一日赤病院へ連れて行くと、医師が診るなり告げた。 「すぐ入院させなさい」  悪性の丹毒だった。松久は妻の病状が想像以上に危険なものであることを知ったが、まさか次に、 「もう手術のしようがありません」  と宣告されるとは、夢にも思っていなかった。その瞬間、何が何だか分からなくなった。妻が死ぬ、そんな馬鹿な。松久は、顔中に繃帯を巻いて、「ウーン、ウーン」と呻いている妻の顔を見つめた。武雄や愛子たちも不思議そうに、繃帯だらけの母の顔をのぞき込んでいる。  婦美は高熱にうなされたまま、一週間後の八月十三日に、あっけなく死んでしまった。松久は呆然として立ち尽くし、妻の死が信じられなかった。それから涙がとめどもなくあふれてきた。 「お母ちゃん、死んだらあかん、死んだらいやだよう」  武雄が冷たくなった母の遺骸に取りすがってワンワンと泣いていた。松久がふと涙に濡れた目を中庭に向けると、五歳の鼎が母の死も知らずに、赤トンボを追って遊び回っていた。  藤本もいうように、婦美の短い生涯は、貧乏から脱却できないままの「気の毒な生涯」だった。武雄も、母の死は父にも責任がある、と思い詰めていた。野辺送りも寂しかった。松久は、養父母、伯母の春に次いで、今度は妻の婦美まで貧乏のどん底で死なせてしまった。葬式のとき、武雄も愛子も泣き濡れていた。幼い喜佐子や真百美は、まだ母の死が実感としてわからない。鼎は、近所のおばさんから、 「可哀想やなあ。お腹空いたやろ」  と冷たいおにぎりをもらって食べていた。 「坊ンのお母さん、死んだんやで」  その夜、鼎は「火の塊」が空を飛んでいったのを見た。あれがお母ちゃんかなあ、鼎は子供心にも初めてそう思った。妻を喪った松久は、葬式のあとも虚脱状態で、何日も仕事が手につかなかった。五人の子供を抱え、これから先のことを考えると、ただ暗澹として涙だけがこぼれ落ちた。   3 涙の離別  妻の死のあとに、松久家に訪れたのは一家離散の悲劇だった。  母のいない家庭ほど寂しいものはない。松久家は灯の消えたような陰鬱な家庭になってしまった。松久は育ち盛りの武雄を筆頭に、五人の子供を抱えて途方にくれた。武雄もめっきり寡黙な少年になった。母を喪った子供たちは不安げな表情をして黙りこくっていた。  松久は、子供たちのそんな顔つきを見ると、胸が締めつけられた。いつまでも放心状態でいるわけにはいかなかった。経済的な余裕などあるわけがない。むしろ明日の米さえこと欠く貧乏生活の中で、とにかく子供たちを飢えさせないためには、自分が彫る以外に金の入ってくる道はなかった。 「どんな仕事でもしますよって、なんぞ仕事ありまへんか」  松久は、もうなりふりをかまってはいられなかった。仏師の誇りなどかなぐり捨てて、仏具屋を駆けずり回った。御用聞きと同じである。そして、その度に重い足を引きずって家に戻るわが身が哀れだった。日ごとに絶望と落胆の影が松久の表情を暗くし、焦りの色が濃くなっていった。質屋に入るものなら何でも入れた。質屋の暖簾《のれん》をくぐるのは武雄だった。武雄の心も屈折していった。  婦美は福井県|大飯《おおい》郡本郷村字岡田(現・大飯町)の農家の娘だった。婦美の実家、松宮家は岡田でも裕福だったが、祖父の代に賭けごとが好きで田地田畑を無くし、身代を潰してしまった。父の徳蔵は先祖に申し訳ないと発奮し、京都に出て桶屋で修業、桶屋で一財産を成して、田畑を再び取り戻した。婦美はその徳蔵の長女で、弟に家業を継いだ昇と妹のみつえがいた。  徳蔵は婦美が亡くなったあと、子供を抱えて苦闘している松久を見かねて、こう切り出した。 「小さい子供を五人も、あんたが男ヤモメ一人で育てるのはとても無理だ。当分の間、子供をわしが預かろう」 「とんでもない。どんなことがあっても子供はわたしが手元で育てます。それができんかったら、苦労したまま死なせた婦美に申し訳がたたんよって」  松久は即座に、義父の申し出を断わった。 「あんたの気持ちはよう分かる。けんど、現実の話をせんとな。このままでは生活がたちゆかんのは目に見えている。そのほうがあんたも楽やし、子供たちにとっても幸せなんやで」  義父の徳蔵は、情理を説いて、子供を離したがらない松久に、子供の幸せも考えろ、といった。 「子供みんなとはいわん。鼎と真百美の二人を預かろう。二人ともまだ幼いから、事情もようわからん。岡田の生活に溶け込むのも早かろう」 「子供たちを引き離すなんて、そんな不憫な……。これもみんな、わたしが甲斐性がないばっかりに……」  松久は、自分の情けなさに、つい涙をこぼして、唇を噛みしめた。何の因果なのだろう、親子二代にわたってこんな目にあうとは。自分も、父が茶屋遊びが過ぎて経済的に破綻し、幼いころに養子に出された。そして今度は、親の自分に甲斐性がないばっかりに、幼いわが子を他家に預ける話まで持ち込まれている。 「そんな親子の生木を裂くようなことはせんといてんか」  松久は、果ては懇願さえしていた。 「ここは一時の激情にかられて決めてはいかんがな。ようく考えてみることやな。何も親子の縁を切るのとはわけが違う。あんたの生活がうまくいくようになったら、すぐ引き取ればいいこっちゃ。それまでの辛抱やがな。そのほうが子供たちの幸せになるんやで」  徳蔵が親身になっていってくれてることは分かっていた。それだけに松久はいっそう辛かった。このときはそれで終わったが、徳蔵はその後も何回となく、繰り返し繰り返し、子供たちを預かろう、と松久のもとにいってきた。 「あの子たちは、わしにとっても可愛い孫やで。田舎なら、ひもじい思いをすることもなかろうが。あんたも会いたくなったら、きたらええんやから。子供らは腹いっぱい食べて、元気に育つのが一番ええんやで」  義父にそこまでいわれると、松久も決心しないわけにはいかなかった。正直な話、女手のない家庭で、幼い子供たちの世話をやきながらでは、仏師としての仕事はおぼつかない。生活だって大変だ。それならいっそ義父のいうように……と心が千々に乱れて苦悩したあとで、松久は深々と頭を垂れていた。 「お言葉に甘えて、二人の子供をよろしく頼《たの》っます」 「それがええ、それがええ」  徳蔵も肩の荷を下ろしたようだった。  その夜、松久は子供たちに話して聞かした。 「近いうちに、福井のおじいちゃんの家に行こう。鼎と真百美はしばらくの間、あっちで遊んでればええ。お父ちゃんがすぐ迎えに行くからな」  胸が張り裂けるような思いでいい聞かせる父の心などはむろん何も知らず、鼎と真百美は、田舎に遊びに行くの、とはしゃぎ回っていた。聡明な武雄は、すぐに事情を察して、父を問い詰めるように叫んだ。 「ほんまに遊びに行くだけやの。違うんやろ。鼎と真百美はもうこの家に帰ってこんのやろ。よその家にもらわれて行くんやろ」  武雄は涙をいっぱいためていた。  若狭の国、福井県本郷村字岡田には、京都から山陰本線で舞鶴まで行って小浜《おばま》線に乗り換え、若狭本郷駅で降りるか、北陸線で敦賀に出、そこから小浜線で逆に西に走り、若狭本郷駅で下車するか、二つの行き方がある。現在なら二時間半くらいの距離だが、昭和十二年のこの時期はもっと時間がかかった。徳蔵はまだ五歳の鼎と三歳にならない真百美の二人の孫を連れて、岡田へ帰っていった。  子供たちを見送る松久は悄然としていた。つい、きのうのことのように思い出す。松久が初めて岡田の婦美の実家を訪ねたのは、婦美と結婚した大正十四年。そのころは新婚旅行などする金もなく、盆休みに夫婦そろって挨拶に行ったのが最初だった。村では盆踊りをやっていた。松久は酒をご馳走になり、酔うほどに自分も踊りの輪に入って、見よう見まねで陽気に手足を動かした。そのさまがおかしいというので、村中の人たちが大笑いしたが、気取らない性格が好感をもたれたとみえて、村中の娘たちが、 「あれが松宮さんとこへ京都から来た婿さんや。気さくな人やね」  と噂し合って、婦美を羨ましがった。そのことをあとで婦美から聞き、松久も満更ではなかった。あれから十数年、婦美はすでに亡く、二人の子供は婦美の実家に預けられてしまったのである。車中で無邪気にはしゃいでいるであろう鼎と真百美を思いやりながら、松久の脳裡を亡き妻とのいろいろな思い出が次々によぎっていった。  岡田は人家がわずか六十数軒の村落である。三方がまるで屏風をたてたような山に囲まれた谷底のような地形にあり、近くには和田の釈迦浜と呼ばれる波の荒い岩壁があった。本郷村は岡田の他、父子《ちちし》、佐分利、野尻、川上などの村落から成っているが、全村の人口を合わせても当時二千人くらいしか住んでいなかった。  鼎と真百美は最初徳蔵の家に預けられたが、すぐに鼎は小原《こはら》恒久、みつえ夫婦のもとで養育されることになった。みつえは、母婦美の妹で小原家に嫁いでいたから、鼎にとっては叔母にあたる。  岡田には松宮、小原、堀口、仲瀬、斎藤と五つの姓しかなく、たとえば小原家は小原八右衛門、松宮家は松宮伊右衛門というように代々の屋号で呼ばれていた。この五姓の他に、水上姓がただ一軒だけあり、大工をしているそこの次男が後年作家の水上勉となる。  松宮家と小原家は五十メートルくらいしか離れていなかったし、水上家とは距離にして約二百メートル、いわば隣り家同士だった。水上勉は大正八年三月生まれ、鼎は昭和六年十一月の出生だから年が十二歳ほど違う。水上は十歳のとき、京都の寺の小僧となり、そのときの体験をもとに書いた『雁の寺』で直木賞を受賞、その後数々の名作を世に送っているが、とりわけ生まれ故郷の若狭を舞台にした作品に独得の味わいがある。  水上勉は、『若狭幻想』の中で、岡田についてこう書いている。 〈岡田部落は、せまい谷にある。末広のかたちで、野づらから村へかけて高みになって山峡へ吸われている。そこに金持ちの家も貧乏な家も、まちまちの向きで、平家、二階家、杉皮ぶき、藁ぶき、瓦ぶき雑多で、住んでいる人の顔や性格がちがうように、家々は、しゃがんだり、あぐらをかいたり、立ちはだかったりしたように子供には思えた〉  真百美が連れて行かれた祖父の家は茅葺きの母屋を中心に、蔵二棟と小屋二棟とが母屋を挟むような形で建っていた。裏の小屋には牛を一頭と鶏を四、五羽飼っていた。京都育ちの幼い真百美は、牛や鶏が珍しく、飽かずに眺めていた。祖父の徳蔵は、蔵の中で一日中桶を作る仕事をしていて、気難しそうだった。徳蔵は先妻を亡くし、このとき後妻をもらっていたが、母の記憶がない真百美には、この祖母が�母�となった。祖母は、血がつながってはいないが、真百美を不憫《ふびん》がって、いつも可愛がってくれた。あるとき、祖母が訊いた。 「お父ちゃんやお母ちゃんがいなくて、悲しいか」 「ううん、ちっとも悲しくなんかない」  少し強情なところがある真百美が首を振った。悲しくないはずがなかった。まだまだ両親にすがりついて甘えたい年頃だ。が、それを口にしては悪いような気がしたのである。  松久はすぐにでも子供たちを引き取りたかったが、経済的な事情から果たせないまま、真百美も鼎もすっかり岡田の人間になってしまった。真百美が七つになった年、祖母が死んだ。 「あの子を残しては死んでも死にきれんわ。立派な娘に育ててんか」  と祖父に泣いて頼んで逝ったということを、あとで真百美は聞かされた。  祖父は几帳面な性格だった。毎朝、神さまと仏さまに手を合わせ、読経をする。真百美はいつもその音で目が覚めた。神棚にお茶をお供えする役目は、徳蔵の長男で婦美の弟にあたる昇だった。昇は農業をやりながら桶屋も兼業していた。百姓仕事はとくに天然自然に左右される。毎朝の祈りは、五穀豊穣を願ってのものであったが、若狭はとりわけ仏教信仰があつい土地柄だった。  真百美は小さいころからごく自然に、松宮家の生活に馴染んでいった。本郷国民学校に入ってからも、やる仕事は一杯あった。学校から帰ると、黒板にやるべき仕事が山のように書いてあった。昇の子供の子守りはもちろんのこと、農繁期などは、猫の手も借りたいほど忙しい百姓仕事と、桶屋の仕事でてんてこ舞いだった。 「女の子は、読み書きさえできたらそれでええ。あとは、体を動かして働くことを覚えるほうが大切やで」  というのが祖父の口癖で、盆と正月以外は遊ばせてもらえなかった。ふだんの生活でも、躾が厳しかった。ご飯の炊き方はむろん、米の研《と》ぎ汁も残しておいて牛の餌に混ぜれば無駄がない、と教え込まれた。 「いいか、歩くときもぼんやりと歩いたらあかんで。表から裏に行くときは、何ぞ裏に持って行くものはないかを考えて、手ぶらで歩かんようにするこっちゃ。裏から表へ来るときも、片づけながら気配りして歩くこと。いつかはおまえも嫁に行かにゃならん。今からその心がまえを身につけんとな」  祖父の愛情から出た躾ではあったが、真百美がふと京都に思いを馳せるのは、わたしはこの土地で嫁入りさせられるのかしら、と考えごとをする夜だった。真百美もいつか少女期を迎えるようになっていく。  鼎が小原家に預けられたのは、腕白小僧で祖父の手に負えないからだった。真百美より四つ上の鼎は、そのうち自分たちが父のもとを離されて田舎に預けられているのが、子供心にもわかってきた。両親のいない悲しみに必死で耐えようとする心が、かえって幼い反抗となってあらわれた。鶏の卵を黙って盗ったりしては、祖父にこっぴどく叱られた。  母婦美の妹、みつえには子供がなかった。みつえの夫恒久は肺結核を病んで、寝たり起きたりの生活をしていた。鼎はそこへ預けられた。鼎は神経質なほど潔癖な性格だった。このことが鼎の心を傷つけないはずがない。祖父の家に遊びに来ると、前よりもひどく腕白ぶりを発揮して、真百美や昇の子供、つまり従兄弟たちを困惑させた。謹厳な祖父の唯一の楽しみは、当時禁じられていた密造酒のドブロクを作ることだった。むろん自分が飲むためでもあったが、酒好きの「京都の婿のため」というのが祖父のいい草でもあった。  鼎はある日、祖父の家に遊びに来ると、秘蔵のドブロクをこっそり悪戯心で飲んでしまった。祖父が激怒することを期待して、いわば挑発的にやった行為だった。が、このときにかぎって祖父は怒らなかった。鼎の度の過ぎるイタズラに、徳蔵は何か普通でないものを感じたのだろう。鼎は父が来るのをいつも待ちわびていた。  壬生相合町の家から笑い声が消えた。六人いた家族のうち、妻が急逝し、二人の子供は田舎に預けてしまった。狭い家でも、幼い鼎や真百美たちが走り回っていたほうが、まだ生活に張り合いがあった。それがいまは、店先で買い手のあてのない仏像を彫っている虚しさもさることながら、松久の心を、二人の子供を犠牲にしてしまったという後悔の念が苦しめていた。  世の中も騒然としていた。婦美が亡くなった年の七月には蘆溝橋《ろこうきよう》事件が勃発して日本中が大騒ぎになった。近衛内閣は国民精神総動員を発令して、「尽忠報国」「挙国一致」「堅忍持久」の三大スローガンを掲げ、※[#歌記号]見よ東海の空明けて……という「愛国行進曲」が、京都の街なかでも盛んに歌われていた。 「何が挙国一致や。軍部に引きずられて政府が国民を惑わせているだけやないか」  松久が武雄にいうともなく、独りごとを呟くことが多くなった。軍部に対する怒りは、かつては天理研究会の闘う信者だった松久から消えてはいなかった。が、ひたすら日中戦争に突っ走っていく軍部や政府は、市井の庶民の感情など歯牙にもかけず、日本を総力戦態勢一色に変えていった。もしかしたら、おれも戦争にもっていかれるかもわからんな、そう思うと、松久は胸が一層苦しくなった。 (そんなことにでもなったら、この子たちはいったいどうなるんや)  右を向いても、左を見ても、絶望ばかりだった。人は誰でも平和を願《ねご》うてるのに、国が戦争を始めたら個人の平和なんかどっかに消し飛んでしまう。戦争は人殺しや、殺戮《さつりく》やで。今の日本は、教祖みきの教えも、仏さんの慈悲の心も、どっかに見捨てられてしもた。宗教を弾圧した国は早晩滅びるのがおちや。戦争は亡国の始まり、もうこんな日本はあかん。松久は否応なしに国家とは何か、個人の平和、幸せ、そして宗教とは何か、といった問題に直面させられていった。  そして、松久本人がよくわかっていた。人間の幸福は愛なくしてはありえない。愛の結晶体が幸福な家庭であるということを。が、同時に、自分が子供も満足に育てられない「家庭の破綻者」であることも切ないほど自覚していた。  唯一の救いは、残された三人の子供たちだった。婦美が亡くなったあと、家事は長女の愛子の仕事になった。愛子はまだ十歳に満たなかったが、朝早く起きてご飯を焚き、ありあわせの惣菜を用意して、朝食の仕度を整えた。小学校から帰れば、遊びたい盛りなのに、夕食の仕度に頭を悩ます。そんな娘の姿を見て不憫に思いながら、父は店先でこつこつとノミをふるう以外に能のない自分に自虐的な悲しみを覚えるのだった。  長男の武雄もよくこまめに働いた。仏具屋へ使い走りさせられるのも武雄の仕事だった。極貧のどん底でも子供は育つ。武雄がいよいよ小学校を卒業する日がきた。ここでまた困ったことが起きた。 「お父ちゃん、修学旅行でお伊勢参りに行くことになったんや。お小遣い五十銭かかるんやけど」  そのころ、京都では卒業記念の修学旅行で伊勢へ行くことになっていた。武雄が金のことを心配しておずおずといった。家にそんな余分な金がないことは子供心にも分かっている。 「修学旅行か、そら行かなあかんなあ」  父も一瞬、思案顔になった。そうはいってみたが、さて金をどうするか。あらかたの仏具屋には借金のし通しで、もう借りるあてもなかった。息子の修学旅行の金どころか、家計費だって底をついているのである。千本松原の仏具屋にまた泣き込むしかなかった。その仏具屋は松久の腕を買っていた。父は祈るような気持ちで、委細をしたためた手紙を武雄に持たせ、仏具屋へ行かせた。武雄は、またか、と恥ずかしかったが、やはり修学旅行には行きたかった。  仏具屋の主人は、松久の借金申し込みの手紙を読むと、困ったお人や、こんな子供を使いに寄こされたら用立てな、わしがこの子に恨まれてしまうわ、とぶつぶつ呟きながら、それでも五十銭貸してくれた。天にも昇る思いで、武雄が五十銭を握りしめて帰ると、父は安心した顔になり、五十銭から二十銭を自分でとりあげ、三十銭だけ息子に渡した。 「これで我慢しいな。行けんよりはましやろ」  武雄は裏切られた思いがしたが、口には出していわなかった。学校では小遣いは五十銭と決めている。自分が人並なことをしなければ、行けないことはない、と思うことにした。貧しい家庭の長男は、その三十銭でも容易でないことを知り尽くしていた。  武雄は修学旅行に行っても、自分のために買ってきたのはわずかに十銭の木刀一本だった。あとの二十銭は、妹の愛子と喜佐子のために、駄菓子と色のついた貝がら細工を土産に買ってきた。やさしい妹思いの兄だった。本当は、もう少し小遣いがあったなら、福井に預けられている鼎や真百美にも何か土産を持って行ってやりたかったのだ。  松久は、妻の故郷においてある二人の子供のことが気がかりで、盆や正月には無理をしても会いに行った。正直にいえば、京都では満足なものが食べられない。妻の実家に行けば歓待され、食費が浮くからであった。そんなことは知らない幼い二人の子供たちは、父が兄や姉と一緒に会いにくる日を待ちわびていた。  鼎には今も鮮烈な思い出があった。  その年は雪が深かった。父は兄の武雄と姉の愛子、喜佐子を連れて、いつもの年の正月のように会いに来てくれた。婦美の実家では、徳蔵が、亡くなった娘の婿のために自分で作った地酒をふるまい、京都から来た三人の孫たちに腹一杯ご馳走を食べさせた。そして一泊した翌日、土産を包んだ風呂敷を手にして、松久親子はまた京都に帰っていく。  鼎は父と三人の兄姉たちを駅まで見送りにいった。少しでも長く父や兄の武雄や姉たちと居たかった。外は吹雪いていた。大雪が積もっている。午後三時ごろの汽車に乗るつもりで駅に着いたら、「雪のため汽車は不通」という貼り紙が出ていた。 「不通か、困ったな。また一晩お世話になるか」  という父の言葉を聞いて、鼎は喜んだ。 「そんなら、おれ、一足先に帰って知らせてくる」  鼎は雪道をこけつまろびつ、小原の家に走って戻った。駅から家までは子供の足で二十分はかかる。息をはずませて家に帰ると、みんな松宮家に寄っていた。今度はそちらへ飛んで走った。 「おっ母あ、お父ちゃんと兄ちゃんたち、また今晩泊まるさかい、いま戻ってくるわ」 「へえ、また帰ってくるの、かなわんなあ」  小原の母は、松久親子を送って、やれやれ今年の正月も終わった、とホッと一息ついているところだったので、つい愚痴が出た。それを聞いて、鼎は無性に悲しくなった。そのまま松宮家を飛び出すと、また雪道を駆けて、こちらに向かっている父や兄姉たちのもとに急いだ。吹雪の中を四つの影が近づいて来た。 「お父ちゃん、小原のおっ母あたち、また泊まるといったら怒ってたわ」  そう告げた瞬間の、父のなんともいえない苦渋の表情を、鼎はいまもはっきりと覚えている。父が寂しそうな声でいった。 「そうか、そんなら駅へでも行って寝よか」  鼎はもうどうしていいか分からなかった。とぼとぼと引き返そうとする父や兄姉たちと一緒に駅に行くべきか迷ったが、鼎はまた必死になって雪道を飛んで帰った。あんな寒い駅の中では父ちゃんや兄ちゃん、姉ちゃんたちが凍え死んでしまう、何とかせんと、と思ったのだ。外はもう暗くなりかけていた。松宮家に転がり込むと、鼎が泣きながら叫んだ。 「お父ちゃんたち、駅で寝るといって戻ってしまった」 「それは大変や、えらいこっちゃ」  徳蔵たちは、ことの成りゆきを初めて知って大騒ぎになった。ちょっと愚痴ったことが、こんなことになるとは誰も思ってもいなかった。早よ、迎えに行け、といわれて、鼎はまたまた雪道を駅に向かった。吹雪が一層激しく、寒気が厳しかったが、鼎は夢中だった。駅のすぐ近くで、ようやく父たちに追いついた。 「頼むさかい、帰って。おっ母あたちも待ってるって」  鼎は泣いていた。父は黙っていた。父の目にも涙があった。自分が情けなかったのだ。物乞い風情で押しかけてきたと思われていることが身に沁みて分かった。こんな小さい鼎がどんな切ない気持ちで、駅と家の間を往復していたのかと思うと、胸が張り裂けるほど悲しかった。武雄も愛子も喜佐子をかばいながら、泣きそうな顔で吹雪の中に立ち尽くしていた。  父が悄然とした声でいった。 「おまえが可哀想やから、厄介になるか。さあ、戻ろう」  松宮家に舞い戻ると、徳蔵が詫びた。 「まあ、気イ悪くせんといてんか。さあ、熱い酒でも飲んで体を温めて。子供たちにもおいしいもの、用意したアるで」  その夜、父は鼎と真百美をしっかりと抱きしめて寝たが、なかなか眠れなかった。真百美も布団の中で悲しみをこらえていた。利発な真百美は幼いながらも、一家のおかれた立場がよく分かっていた。彼女は、父や兄姉たちが来ても、あまり嬉しげにすると祖父に悪いと気をつかい、さりげない顔をして接していた。そしていつも、父たちが帰ると、寂しさのあまり、風呂場の焚口で煙にごまかして泣いていた。父たちが乗って帰る汽車の汽笛の音が、いつまでも耳にこびりつき、京都を恋しく思いながら、涙をそっとふいていたのだ。  越前若狭、福井は仏教信仰の盛んなところだった。岡田の東隅に阿弥陀堂があった。そこで毎年八月十四日の入盆の日に「阿弥陀の前」という行事をやる。青年団と子供たちが、その阿弥陀堂で、太鼓や鉦《かね》を鳴らしながら掛け合いをやるのである。鼎にとってそれは奇妙な不思議な体験だった。  阿弥陀堂は瓦葺き方形の古堂で、須弥壇《しゆみだん》には小さな阿弥陀仏の坐像が祀られていた。入盆の日がくると、六、七歳からの子供たちが、阿弥陀堂に入って扉を閉じてしまう。堂の外には年寄りと青年団の若者たちが太鼓と鉦を持って控えている。堂の中の子供たちがわめく。 「阿弥陀の前になにやら光る。ごぜの目が光る」  すると、年寄りが答える。 「兄嫁ごぜの目が光る、目が光る」  このようにして、「向いの山に竿さしわたす」「先はじょじょむけ、もとしゃぐま」と掛け合いをやり、太鼓や鉦がせわしく打ちならされる。 「いまでも、あれはどういう意味なのか、分からないけど、奇妙に心に残っています。田舎に預けられていたので、ごぜの目が光るというのが一層不気味で、子供心の心象風景と何か重なり合うものがあったのでしょうね」  と、鼎はいうが、福井にはこうした独得の仏教的風土とでも呼ぶべき世界がある。浄土真宗の門徒も多く、天台宗、真言宗などの古刹もある。曹洞宗の総本山、永平寺など禅寺も多い。岡田のすぐ近くには釈迦浜という名の断崖絶壁があった。村の古老たちは、この釈迦浜の下は大きな穴がえぐられていて、その穴は長野の善光寺の戒壇下まで続いている、といい伝えてきた。  水上勉は『若狭幻想』の中で、昔はこの釈迦浜が「うば捨て浜」だったと記している。 〈「釈迦浜という名はありがたい名でな、これは、お釈迦様の住んどられる山じゃからそういうたもンじゃ。この釈迦浜で死ぬとな、極楽往生が出ける。海に沈んでも、善光寺さんまでお詣りすることができるんじゃからの……爺婆がよろこんで死にたいと思うたのもわかるような気がするんじゃ……」  私に釈迦浜で死にたがった爺婆の話をした人は、村の古老だが、もし、大昔に、爺婆たちがこの岩壁に捨てられることを望んだものならば、ありそうなはなしではある〉  断崖絶壁の岩の形をよく見ると、「それぞれの形が、仏の像のようにみえる」のも不思議な世界だった。冬の夜など、釈迦浜を洗う波音がどーん、どどーんと鈍くひびき、吹雪の海から人間の悲鳴のような声さえ聞こえてくる。  松久は、鼎と真百美を抱きしめながら、その音を聞いていた。それは幻聴のようでもあり、死んだ妻が何かを訴えているようでもあった。どんなに貧しくても、一家六人が揃って暮らすほど幸せはない。それを二人も子供を預けて、おれは子捨ての親や、その自責の念と悲哀が父を眠らせなかった。一日でも早く鼎と真百美を京都に連れて帰らんとな、と松久は決心したが、それが実現するのはなお十年近くも時間を要した。救いようのない無惨な傷痕が、今度は長男の武雄を襲ってきた。   4 生と死のはざまで  松久家には、まるでこの世の悪霊のような貧乏神と不幸がとり憑いていた。貧乏神はまた病気を招き寄せる。長男の武雄が突如、「脊椎カリエス」という難病に見舞われたのは昭和十五年冬のことだった。  小学校時代の武雄は、父の仕事の使い走りや家事の手伝いのため勉強する暇がなく、成績はさほどではなかったが、図画だけは抜群に優秀だった。小学校を卒業する年を迎えて、武雄も少年らしい夢は抱いたが、上の学校に進む経済的なゆとりなどは、むろんあるはずがなかった。卒業したら、一日でも早く家計を助ける手仕事を身につけなければならない。その宿命を担わされていた武雄は、それならいっそ好きな仏絵師で身を立てよう、と決心した。  絵描きにもいろいろあるが、父の仕事を見て育った武雄は、仏像に彩色する彩色師という仕事があるのを知っていた。その彩色師になるのが一番早道だと思った。父にいうと、父は喜んで、ほんなら、知り合いの彩色師のもとに弟子入りするのがよかろう、と話を決めてきた。  朱雀《すじやく》第三尋常高等小学校を卒業すると、やがて武雄は八木秀蔵という彩色師の内弟子として住み込むことになった。八木家は、東山区新門前通り大和《やまと》大路東にあった。彩色師の家も親子世襲が多く、職人気質の典型的な例で、秀蔵は二代目だった。歌手の藤山一郎とはいとこにあたる。  京都にはもう一軒、八木|大三郎《たさぶろう》という名人気質の堅物《かたぶつ》として知られた職人がいた。八木大三郎は明治二十六年生まれで、十三歳で彩色師に弟子入りし、昭和五十九年に九十歳で亡くなるまで彩色一筋に生きた男である。信仰心があつく、仏像に彩色するときは、 「仏像いうもんは、わしらが死んでも、百年、二百年はおろか千年先まで残るんやで。わしは金は残さんが、いい仕事だけを残したいんや。金なんか食えたらそれでええ」  と、口グセのように彩色師の誇りを話した。  事実、大三郎は、醍醐寺塔頭《だいごじたつちゆう》の三宝院の内陣、比叡山延暦寺の根本中堂、高雄神護寺《たかおじんごじ》などの彩色を手がけている。松久よりは八つ年上だが、むろん仏師と彩色師として深いつながりがあった。秀蔵のほうも優秀な彩色師だった。松久の長男を預かり、彩色師の仕事のイロハから武雄を教えることになった。  もちろん、この時代の日本の職人社会は徒弟制度である。修業は厳しかった。朝の七時から夜十時まで、息抜く暇がない。遊び盛り、育ち盛りで、それまで外を飛び回っていた少年には、一日中座りっ放しの修業が最初はひどくこたえ、辛かった。住み込みの内弟子だから、食事のときも遠慮があった。居候、三杯目にはそっと出し、どころではなく、いつも最後に残りものの食事をとった。 「ええか、他人《よそ》さまの飯を食って修業せんと一人前の職人にはなれへんのやで。けどな、飯を食うために行くのやない。修業専一や。飯はよう食ったらあかんで」  父は、武雄が内弟子に入るとき、そう諭した。しかし、育ち盛りの少年にとって、空腹は何よりも辛かった。腹がへって、夜に空き腹をかかえて我慢することもしばしばだったが、武雄は、男が飯のことでとかくいうのは恥ずかしい、と父の言葉を思い出して、そのことは口が裂けてもいわなかった。  彩色は古来からの伝統的な技術の上に成り立っている。たとえば、仏像の種類によっても異なるし、宗祖の仏像に彩色する場合は、宗派によって衣の図柄も色も違ってくる。八木家は仏像彩色師で、家の中には修理のために預かった古仏や、経文を入れる厨子《ずし》などがたくさんあった。  山崎しげ子が『京仏師』の中で、彩色師について書いている。仏像彩色は「盛り上げ」「塗り付け」「彩色」、そして「開眼」の四つの工程から成るが、何といっても仏像彩色にとっては、絵具の技術がものをいった。絵具には天然と合成があるが、仏像にはやはり天然の岩絵具がよい。合成絵具は防腐剤が入っているため、変色の恐れがあるからだ。絵具の基本は、緑青、群青、朱、丹、弁柄《べんがら》、黄鉛、松煙墨、洋紅などで、この基本の色に、紺、黄、白を調合することによって、微妙な色合いが無数に出せるのである。 〈たとえば洋紅に紺を混ぜると古代紫になる。仏像の螺髪《らほつ》の群青(または紺青)も色具合で雰囲気が微妙に変わる。どの色を選ぶかは彩色師のセンス、個性であり、奥は深い〉  武雄は後年、仏師としてだけではなく、宗教画にも傑出した才能を発揮することになるが、その原点は八木家での修業にあった。  八木家に住み込んで彩色をみっちり修業するかたわら、武雄は週三回、日本画の先生のところにも絵の勉強に通うことになった。先生は大槻《おおつき》という絵師で、謹厳実直この上なかった。稽古に行き、「こんにちは」と武雄が挨拶しても、一言も発しない。夫人が「どうぞ」と案内する。稽古場には毛氈《もうせん》が敷かれ、座布団が二つ置いてあるだけだ。師弟とも黙って着座し、先生がまず手本を描いてみせる。  大槻師は、この世に何かおもしろいことがあるか、という顔つきで絵筆をとると、画布に一気呵成に花鳥風月を描く。稽古日ごとに描く絵は異なっているが、四季折々の自然の美が色彩も鮮やかに描き出される。武雄はそれを見ていつも感嘆したが、師は一度しか描かなかった。それを最初から最後まで凝視して覚え、今度は武雄が描くのだ。師の筆の動きを少しでも見のがしたら大変だから、勢い少年の身ながら、真剣勝負になる。稽古が終わって辞するとき、武雄が「さようなら」と挨拶するときも、大槻師はうなずくだけだった。 「あんな先生、どこを探したっていませんわ。見事でしたねえ。あとで気がついたことですけど、稽古日に先生の描く花鳥風月がそのつど違っている。あれは前の晩に稽古していたんですね。先生も真剣だから、こちらも必死ですわ。なにしろ『こんにちは』『さようなら』だけで、あとは絵の世界に没頭してたんやから」  宗琳がこう懐かしむように、この大槻師も少年時代の武雄に「絵の心」を教えた恩師の一人だった。  大槻師のもとに通うようになって一年、武雄のデッサン力や筆遣いがみるみるうちに上達し、色彩感覚が磨かれていった。絵を描くことは楽しかったが、大槻宅に通う上で、ただ一つ、武雄を恐怖に陥し入れることがあった。大槻宅は現在の第一日赤病院のあたりにあったが、八木家から夜、大槻宅に向かう途中には野犬がうろついていた。暗い夜道を歩いているとき、数頭の野良犬がうなり声をあげ、武雄のあとをつけてくる。背後から突然襲われるような恐怖にかられて、身がすくみ、かえって動けなくなった。あまりの怖さに泣き出しながら、その場を逃げたこともあった。野良犬さえいなければ、絵を習いに通うことは、暗い夜道も苦ではなかった。  彩色師としての修業と絵の勉強が、それまで肉親の不幸続きで、ともすれば屈折していた少年の心を明るい希望の光で満たしていった。修業は厳しく、辛くても、それは自分の将来につながっている。確かに朝の七時から夜遅くまで座り詰めで、修業するのはきつかったが、今では耐えられないことではなかった。月・水・金の三日、大槻宅に通うのは、ある意味で、息抜きにもなっていた。  この時期が、武雄にとっては、もっとも充実した幸せな少年時代だった、といっていい。だが、それも長くは続かなかった。松久家にとり憑いている悪霊は、父のもとを離れて生活している武雄の身にまでも及んできたのだ。  武雄はある朝、突然、四十度の高熱を出して、起き上がれなくなった。体中にすさまじい激痛が走る。「ウーン、ウーン」とうめき、「痛い、痛い」と身をよじっていた。高熱にうなされ、夢うつつの中で、武雄は苦痛の声を発していた。驚いた八木家では、すぐに松久に武雄の異常を知らせた。飛んできた父が見たものは、高熱のため火照るように体が熱い息子が、「痛いよう、体が痛いよう」と泣き叫んでいる姿だった。 「これは大変だ、早よ入院させんとあかん」  松久はそう思ったが、入院させる金がなかった。このまま置いたのでは八木家に迷惑をかけるので、ウンウンとうなっている息子をひとまずわが家に引き取った。四十度の高熱を出している病人を動かすというのは無謀なことであったが、父も動転していた。武雄が突然発病したのは、八木家に内弟子として住み込んで二年半後の昭和十五年の冬のことであった。壬生相合町の自宅で、武雄は病気と闘う身となった。高熱はひとまず下がったが、痛みは依然としてとれなかった。 「まあ、そのうち治るやろ、ちょっとの間我慢しイや」  父はそう元気づけて、息子の体に鍼《はり》をしてもらったり、指圧療法を施してもらったりした。松久は自分でも無二膏という膏薬を買ってきて、武雄の患部にペッタリと貼った。徳川中期の漢方医、吉益《よします》東洞が「万病一毒論」というのを説いている。「万病は一つの毒より生ずる」というもので、松久はこの説を信じていた。とにかく毒を吸い出さなければいけない、と思ったのだ。  この吸い出し膏薬が効いたのか、そのうち茶碗に一杯くらいも膿汁が出た。おびただしい量だった。これでようやく痛みがとれて、少し起き上がれるまでになった。冬に家に戻って、昭和十六年も明け、四月になっていた。武雄の病気は結核性関節炎だった。のちに正確には「脊椎カリエス」とわかる。  脊椎カリエスは脊椎の結核だった。おもに肺結核病巣からの菌が骨を破壊する病気で、すさまじい疼痛を伴う。脊椎はいうまでもなく体の中軸になる骨格で、いわゆる背骨のことである。ヒトは上下に連結する三十二個〜三十四個の椎骨から成っていて、上から頸椎、胸椎、腰椎、仙椎、尾椎に区分されている。武雄は結核性関節炎にかかってしまったのである。  そして、さらに不幸なことに、痛みはひとまずとれたものの、片方の脚が動かなくなってしまった。「足がつぶれた」と知ったときの武雄の衝撃は大きかった。武雄の場合、胸部にいくのが足にきた。なんでおれは足が不自由にならなきゃならんの。武雄は自分の運命を呪い、泣きわめいた。父もなすすべがなく、ただ言葉で慰めるだけだ。武雄はそんな父に憎しみの心さえ抱いた。ちゃんと医者に診せて、早く入院させてくれていたら、おれは足など不自由になぞならずにすんだんだ。それは不意にわいた憎しみだったが、その根はもっと深いところにあった。  母があんなに一週間であっけなく死んでしまったのも、父が十分なことをしてやらなかったからだ。専門の先生に最初から診てもらっていたら、助かっていたかもしれないのに、いや必ず死なずにすんだはずだ、と武雄の記憶がまた悲しみで染められた。  母は本当に不幸な人生だった、いいことなど一つもなく、貧乏の中で死んでいった、と武雄は思っている。父が飲みに出かけたり、将棋差しに行って帰ってこない夜など、母がよく一人で占いをしていた。夫が実母から教わったように、夫から見よう見まねで、ほんの初歩的な占いを覚えたのだろう。一人で占ってみては、「お父ちゃん、どこへ行ったんやろ」などとため息をついていた母の姿を武雄は知っていた。  その母は、顔中を繃帯に巻かれて死んでいった。武雄は、息を引き取る直前まで母の手をしっかりと握りしめていた。母の手のぬくもりはいまもはっきりと感触に残っている。母が臨終だというのに、鼎は無邪気に赤トンボを追いかけていた。それが悲しかった。母の死後、鼎も真百美も福井に預けられて、弟や妹が離れ離れになってしまった。真百美など、たまに京都に戻ってきたとき、「もう行かへん、京都にいたい」と泣きついていた。それを無理やり、また福井に送り帰して……。  それもこれも、みんな父が甲斐性がないからやないか。おれの足だって、おれが悪いんやない、親の責任やないか。武雄はそう叫びたかった。貧乏だったのも、父が、将棋差しやら、暖簾通いやらで時間をつぶして、まともに仕事をしなかったからやないか。武雄の心に次々と父への怒りが奔っていた。父の仕事にまで怒りをぶっつけたのには訳があった。八木家に内弟子に入った直後に、武雄は八木家のおばあちゃんからこう聞かされたことがあった。 「松久さんは、下手な松久さんというんやで」  仏師の仲間うちではそういわれているらしかった。それを知って、息子は愕然とした。甲斐性はなくても、父の仏師としての腕前は最高や、と子供心に信じ切っていたからだ。それが「下手な松久さん」とボロクソにいわれて口惜しかった。が、自分も彩色師の修業を始め、日本画の勉強に打ち込むようになってから、何となく、仏師仲間がそう陰口叩いているのがわかるような気がしてきた。 (それは父は我流で仏像を彫っているからや)  そうしたいきさつがあったから、武雄の心の中で父に対する怒りと憎しみが一気に爆発したのだった。この感情と父に対する愛情とが相半ばしている武雄と父の関係は、これから先何十年も、激烈な葛藤と愛憎のドラマを展開していくことになるのだ。  武雄は松葉杖を使わなければ歩けない体になってしまった。最初に松葉杖になれるのに難儀した。ようやくそろりそろりと歩行できるようになって、外に出た。たちまち自分の惨めな姿に屈辱感を味わった。みんなが颯爽とした足どりで通り過ぎていく。彼らの視線が一瞬、松葉杖の少年をとらえる。街往く人たちは一様に、哀れむような同情するような目つきで武雄を見て、それからあわてて目をそらした。無遠慮にいつまでもジロジロ見ている女たちがいたし、よろめきながら歩く武雄にぶつかりそうになって、バカヤロウ、気をつけろ、と罵声を発する男もいた。武雄の心はその度に無惨にも傷つき、己れのぶざまな姿を呪った。  少年の心ほど傷つきやすいものはない。暗闇のなかに突き落とされた武雄に救いはなく、こんな体になったのは父のためだ、と憎しみの心が父に向けられていく。何が仏師だ、下手くそな松久さんなんて陰で嗤《わら》われているのも知らずに。家族を飢えさせ、病気になった女房や息子を満足な医者にも診せられないで、それでも父親か。そんな仏師なんかやめたらええ。一人前の男なら金を稼ぐ道はなんぼでもあるはずや。武雄の暗い心の声は、すべてが甲斐性のない父を呪い、憎むことで、また修羅の世界に落ち込んでいった。  武雄は貧乏がもたらす不幸が骨身に沁みていた。壬生のこの家は、あばら屋のように荒廃していた。また高熱が出て寝ていても、布団は綿などどこにもないような煎餅布団で、異様な汚れた臭気を発していた。畳といったら、上べりの茣蓙がすべてささくれだっている。襖は破れ放題で、開け閉めしなくてもすっとそのまま通り抜けられた。妹の愛子や喜佐子が自分のために一心に看病してくれているが、寝ていても、武雄は二人の妹が可哀想でならなかった。  武雄は不思議だった。こんな貧乏な粗末な家でも、中年の女性がちょくちょく訪ねてくるようになったからだ。一目で父がよく飲みに通っているらしい居酒屋の女ということがわかった。父はその女が最初にきたとき、武雄にテレ笑いをして、このお姐ちゃんが、今日はなんぞうまいもんをつくってくれるそうや、といった。女は持参してきた材料で料理をつくり、食事のあとは台所で洗い物をし、父の仕事着などの繕いをして、帰って行った。それからときどきくるようになった。  父には、子供たちには分からない父の生活があった。妻が亡くなって一年が過ぎたころ、婦美の父徳蔵が再婚話を持ってきた。徳蔵の妹の娘という写真を見せて、 「あんたも男手一つで大変やろ。後《のち》添えをもろたら、子供たちともみな一緒に暮らせるやないか。この娘《こ》なら、婦美とも縁続きやし、わしはええと思うがの」  と、熱心に再婚を勧めた。  田舎では当時、結婚している伴侶が亡くなれば、その妹が後妻に入るなどというケースは珍しくはなかった。一族の財産保全という目的もあったろうが、戦前の男尊女卑社会では、あくまでも男性中心で、女はその倫理のなかで生きるしかなかった。徳蔵にしても、この娘の真意などはどうでもよかった。五人も孫を生んで死んだ長女婦美の亭主もまた、わが一族だったから、再婚話を持ってきたのであろう。 「気持ちはありがたいけど……」  と、松久は義父の突然の話に困惑した。 「わたしにはまだ再婚する気はありまへんのや。そりゃあ、子供を引き取って家族みんなで暮らしたいのはやまやまやけど、そのために後添えをもらうというのは考えたこともおへん」 「今すぐとはいわん。そのうち、あんたもその気になるやろ。考えておいといてんか」  と、徳蔵は写真を置いて帰った。  松久には再婚する気は毛頭なかった。�生《な》さぬ仲�の親子関係がどんなものであるかは、松久家に養子にもらわれて、義理の母に仕えた自分が一番わかっていた。五人の子供たちに、同じ苦しみを味わせたくはなかった。 (女房になれる女ごはあっても、�生さぬ仲�の母親になれるような女ごは滅多にいない)  三十七歳という分別盛りの松久は、子供たちのために再婚はしまい、と思った。貧乏のどん底で何一ついいこともなく病気で死んでいった妻に対する贖罪《しよくざい》の気持ちもあった。おれだけが二度も嫁さんもろて、のうのうと幸せになったら罰《ばち》があたるわ、松久の脳裡には亡妻の面影がいつもよぎっていた。松久は、その後終生、男ヤモメを通して、再婚することはなかった。  しかし、松久は独身ときめたといっても、決して女嫌いではなかった。むしろ本人もいっているように「女ごはいたって好きなほう」だった。別に聖人君子でもなかった。貧乏と子沢山の男ヤモメを承知で、松久のもとへきてもいいという�物好き�な女がいないこともなかった。壬生相合町の貧屋に訪ねてくるようになった女は、松久が飲みに通っていた「あさひ」という、姉妹がやっている縄のれんの店の姉娘だった。  まるでこの世には不幸しかないのか、と思うほど、相次ぐ肉親と妻子の死別と離別の繰り返しの人生に翻弄され、暗い時代の波間に漂っている松久が、束の間のやすらぎを女のやさしさのなかに求めたとしても、決して責められることではない。  日本は日中戦争が拡大し、長期化して、泥沼にはまり込んでいた。昭和十五年に日独伊三国同盟が結ばれ、大政翼賛会が発令されて、国防国家建設の精神運動が幅をきかせ、町には「ぜいたくは敵だ」というポスターや看板が並ぶようになっていた。十一月十日には宮城外苑で、天皇、皇后をはじめ全皇族らが臨席して、紀元二千六百年祝賀式典が挙行され、国体の精華と皇威の宣揚を奉祝するさまざまな行事が行なわれていた。この奉祝記念式典に間に合わせるため、勅令によって大日本帝国国民服令というものが出されたほどだった。松久も国民服を着るようになった。武雄が脊椎カリエスを患ったあと、十六年には、戦時下における国民支配体制の隣組と常会が組織され、相互監視の体制が巧妙につくられていた。  仏師という職業といえども、松久はいつ召集されてもおかしくない時代に生きていた。大本営政府連絡会議はすでに、対ソ作戦準備のかたわら、対南方作戦の準備をすすめていた。松久と「あさひ」の姉娘の恋は、いつか結ばれぬままに消えていった。松久は、子供を取るか、恋を取るか、という話になったときに、躊躇なく子供を取ったからだった。武雄にはまだ、そんな父の奥底まではわからなかった。  武雄は松葉杖をついて自由に歩けるようになると、空気銃に熱中し出した。貧乏な松久家には不釣り合いなこの銃は、八木家に内弟子として住み込んだ二年半に、わずかばかりの給金を貯めて買ったものだった。本来なら家計の足しにすべき金だったが、武雄はどうしても銃が欲しかった。当時の金で五円した。それからの武雄は、心の鬱屈を銃で炸裂させるかのように、孤独なハンターとなった。武雄は唯一の宝となった自分の銃に執着し、家の中でも柱を目がけて発射し、撃ち方を練習した。内弟子第一号の藤本陽二は、壬生相合町の松久家を訪ねたとき、柱に射ち込まれた無数の弾丸《たま》の跡をみて、驚いた。  やがて武雄は、銃を持って、近くの壬生寺に行くようになった。壬生寺には鳩がいた。松葉杖をついた孤独な少年ハンターは、片足でぴょんぴょん跳びながら、鳩の群れのほうに近づき、銃の照準を合わせ、引き金をひいた。最初のうちは失敗したが、そのうち十発に一発は命中するようになった。貧乏だから弾丸もあまり買えない。一発も無駄にできないという異常な執念と集中心は、最後のころはほとんど百発百中といえるほど命中するまでになった。  松葉杖をついた少年が早朝、あるいは人気《ひとけ》がなくなった夕暮れ、片手で銃をかまえ、鳩を撃つ。少年は鳩を撃ちながら、実は心に重くのしかかっている何ものかを、そして多分、そこまでは自分で意識していないが、「父」に向けて引き金を引いていたのではなかったか。  撃ち殺した数羽の鳩は、毛をむしり、内臓をきれいにとり、晩飯のおかずにした。スキヤキにすると、結構おいしかった。武雄の心のうちを知らぬ父は、舌つづみをうっていた。 「これはうまい。いけるわ」  殺生禁断の仏師が、息子が撃ち殺した鳩の肉を口にするなど、生きとし生けるもの、「一切衆生悉有仏性《いつさいしゆじようしつうぶつしよう》」の仏心からすれば、生ぐさいことこの上なかったが、背に腹はかえられない。武雄の撃った鳩の肉が、松久家の貴重な蛋白源になったのもまた事実だった。政府はすでにこの年の三月、鯨肉を除く鳥獣肉一切の「肉なし日」実施に踏み切り、牛肉や豚肉は闇肉として飲食店や料理屋に流れるだけで、庶民には手の届かない貴重品になっていた。妹の愛子も喜佐子も喜んで肉のスキヤキを食べていた。  片足が不随となった武雄は一時、絶望的になっていたが、いつまでも空気銃を撃ってうさを晴らしているほど愚かではなかった。将来の生き方を改めて真剣に考えるようになった。八木家に戻るつもりはもうなかった。彩色師は仏像あっての仕事である。それならいっそ父と同じように仏師になろうと思った。 「ぼくも仏像を彫ってみたいんやけど……」  武雄がそう口にしたとき、父は無条件で喜んだ。父も、これから先の息子がどうなるものやら、思案していたのだ。 「そうか、おまえが仏師になりたいというんなら、わたしも賛成や。これで跡取りができたわ。息子と一緒に仏さんを彫れるなんて、仏師として最大の幸せや。おまえが足を患ろうたお陰で、おまえが仏師になる気になったのやから、何が幸せになるかわからんもんや」  父は、禍福はあざなえる縄のごとしとはこのこっちゃ、と相好を崩していたが、武雄は黙っていた。武雄の心を支配していたのは、むしろ父への敵愾心だった。 (おれは父のような我流ではなく、ちゃんとした仏師になってやる)  それから武雄の仏師修業が新たに始まった。仏師としての基礎的な修業はむろん父から教わったが、この親子はある意味で対照的だった。性格にしても、父は根は楽天的で陽性だったが、武雄はどちらかというと慎重なタチで理性がかっていた。彫るものにしても、父は売れるあてのない�動的なもの�の仁王像の小型のものをこつこつと刻んでいたが、武雄は観音像一点ばりで、明けても暮れても観音さまを彫って修業していた。とにかく削って削りまくるという徹底的な彫り方だから、最初のうちはまるで電信柱のような観音さまになってしまう。それを何体も彫り続けるうち、次第に観音さまの形になり、わずか二ヵ月後には武雄の彫った観音さまが五円で売れるまでになった。  父は仏師としては不器用だったが、武雄は驚くほど器用で、腕がめきめきと上達した。三越の「まごころの像」を彫った佐藤|玄々《げんげん》は江戸仏師の流れをくむ高村光雲の孫弟子として知られるが、この玄々がのちに武雄の技倆をみて「器用すぎる」と感嘆したほど、武雄は仏師として天性の素質を秘めているようだった。むろん器用だけでは仏師にはなれないことはいうまでもない。  武雄は、観音さまを彫りながら、亡き母の面影を追い求めていた。 (おれが観音さまを彫るのは、不幸のまま死んだお母ちゃんが成仏できるよう、供養するためや)  武雄はその一心から、仏師になる決心をしたといってもよかった。武雄の彫る観音さまは玲瓏として美しく、気品のある顔立ちになっていく。  この年の十二月八日、日本は大東亜戦争に突入していった。真珠湾の奇襲攻撃にわきたつ日本は、緒戦の勝利に酔っていた。その興奮の渦からポツンとかけ離れて、松久家にはまたしても不幸が襲っていた。年が明けて十七年、長女の愛子が妙な咳をするようになった。微熱も下がらない。もしやと思って、府立病院でレントゲン写真を撮り、検査してもらうと、結核、という診断だった。  愛子が結核と知って、父も武雄も、家族中が驚愕し、震えあがった。結核と診断されたことは、戦前の日本では、死を宣告されたのに等しいほど、絶望的な病気とされていた。いまでこそ、日本人の死因のトップはガン死だが、当時は「亡国病」といわれるほど、結核の死亡率が第一位を占めていた。しかも若い層の死亡率と罹病率がきわめて高かった。そのため昭和十四年には「結核予防会」が設立されていたほどである。 「愛子までが病気やなんて……」  父は、咳をして寝こんでいる長女が不憫で、髪をかきむしりながら、ポロポロ涙を流していた。なぜこれほどまでに、天はおれを苦しめるのか。もう神も仏もなかった。松久はわが身の運命を呪った。いったいおれが天罰に当たらなければならないような何をしたというんだ。この世に生まれたことが、おれの不幸の始まりだった。両親は没落、幼いころに養子にもらわれていった先も不幸の塊で、養母と伯母は発狂し、養父は失意のうちに死んだ。結婚すれば、妻は得体の知れない病気に冒されて死に、子供たちは離散、そのうち武雄は脊椎カリエスで片足が動かなくなり、今度は長女の愛子が死病の結核にかかるとは! 松久は声もなかった。  この世に地獄からの使いがいるなら、それは他ならぬおれだ。おれが触れたもの、愛したものがすべて不幸になっていく。おれは厄病神だ。松久はいくら自分を責めても責めきれなかった。愛子の結核も貧乏からきたことは間違いなかった。結核は空気のいいところで転地療養する必要があった。鼎と真百美を預けている福井にまた頼むしかなかった。愛子は泣く泣く福井に転地療養のために移っていった。妹を見送る武雄はもう泣かなかった。武雄は少年にして早くも、この世の生き地獄をみてしまった。武雄は唇をかみしめ、心の中で呟いていた。 (おれは父とは違う。父のような仏師にはなりたくない)  父も息子も、修羅の魂を抱いて、これから先なおも生きていかなければならない。天地無情、愛子が福井に去った日、松久家は崩壊し、京都の町には季節はずれの嵐が吹き荒れていた。あとは父子二人、ただ仏を彫るしかなかった。 [#改ページ]   第三章 仏のいる風景   1 慈悲と愛  仏教があるところ、さまざまな仏像がある。松久父子が生涯を賭けて彫り続けることになる仏像とは、人間の魂に何かをもたらすものに他ならない。  もともと仏像は仏教における信仰の対象としてつくられたものである。そこに「仏教の真髄」が表現されていなければ、信者たち、あるいはこの世の救いを求める衆生が魂のやすらぎ、心の平安を願って、自然に合掌するような気持ちにはならない。いったい仏教の真髄とは何か。 〈これは≪慈悲≫だといわれています。キリスト教の真髄は≪愛≫だといいます。慈悲も愛も、人が人を愛するという点では同じなのですが、愛だけですと、私は死ぬほど愛しているのだといっても、相手に裏切られますとそれがたちまち憎しみとなって、殺してやれというふうに変わってしまいます。しかし慈悲のほうは、親が子に対するような愛情です。たとえ親不孝な子どもでも、やはりその子がかわいいんだという徹底した親心、これが慈悲です。この慈悲の心が仏像のどこかに表現されていないと、これは信仰の対象にならないというわけです〉  やはり京仏師であり、美術院国宝修理所の所長を長く務め、妙法院三十三間堂の十一面千手千体観音像など、数多くの仏像の修理にもたずさわった西村公朝は『祈りの造形』の中で、仏教とキリスト教の本質的な違いにふれ、仏教の真髄は慈悲にある、と指摘しているが、「慈」はいつくしみの心、「悲」はあわれみの心、であるともいう。それが仏像の表現では、慈は厳しい愛情、悲はやさしい愛情となってあらわれ、その両方が自然に仏像に表現されていなければ、人々の心をとらえることはできない。  しかし今でこそ、仏教と仏像は切り離せない関係にあるが、釈迦が入滅して数百年間は仏像というものはなく、仏教は純粋に形而上的なものだった。  周知のように、「釈迦|牟尼《むに》」は今からおよそ二千六百年ほど前に、二十九歳で自分の生まれ育った王城を捨て六年間の苦行の末、三十五歳で悟りをひらき、八十歳で入滅するまで約四十五年間、ガンジス河のある中インド地方を中心に説法を続けて、仏教をひろめた。釈迦が入滅したとき、その遺骸は、当時のインドの風習にしたがって荼毘《だび》にふされ、遺骨(舎利《しやり》)は弟子や信者たちに分けられ、各地にまつられた。釈迦の舎利を手あつく埋葬した神聖な墓はストゥーバ(卒塔婆)と呼ばれていた。ストゥーバは円形、または方形の墓壇の上に半円球に土を盛ったもので、内部には釈迦の舎利を安置し、ストゥーバの周囲には石の玉垣や門をつくって、その柱や貫《ぬき》、笠石《かさいし》などにさまざまな彫刻をほどこした。  この装飾的彫刻が仏教芸術の出発点だったが、ここにはまだ釈迦の像は彫られていない。あくまでも釈迦の生涯や仏教の説話が中心で、しかも説法する釈迦は法輪で示し、悟りをあらわす金剛座や菩提樹、あるいは仏足石などで釈迦を象徴していた。これをみても仏教の原始時代は偶像崇拝でなかったことがわかる。奈良の薬師寺には、現存するわが国の仏足石の最古のものが安置されているが、仏像がまだつくられなかった原始仏教時代のなごりが日本でも見ることができる。ちなみに、薬師寺やあるいは法隆寺、さらには大阪の四天王寺などの大伽藍にある五重塔は、ストゥーバの日本的表現で、舎利を納めた塔が多重化して天に聳えるようになったのは、遠方からも仏塔が見え、礼拝できるように建立されるようになったからであった。  ようやく仏像が出現したのは紀元一世紀の中頃とされ、北西インドのガンダーラ地方で、ギリシャ・ローマの神像に似せて製作された石像が、最初の仏像だといわれている。アレキサンダー大王の遠征がもたらした文化がガンダーラ地方で開花し、東西文化の融合となって、彫りの深い西方的なガンダーラ仏がつくられたのが最初だった。  一方、釈迦が説法して歩いた中インド地方でも、純インド式のマトゥラー仏がつくられるようになり、これ以後、仏経は偶像崇拝宗教となっていった。そして、これが全インドに伝播し、さらに中国に伝わり、朝鮮半島の百済からわが国にも伝来した。それ以後、仏教と仏像は影が形に添うようにして、幾多の仏像が日本でもつくられてきたのである。  むしろ今では、インドからも中国からも仏教色が消滅している。ガンダーラで生まれた仏像が長い歴史の歳月を経たあとに、仏教の終着点の日本で、この民族によって同化され、洗練され、最高に円熟した技法で、見事に開花していた。それは仏教文化の精髄として、日本の精神文化として、あるいは人類の文化遺産として、今後も継承されていかなければならない。それを守り、後世に「昭和仏」を残すべき伝統の系譜の中に松久父子はいた。  松久は愚鈍なまでに仏師という仕事にしがみついていた。というよりも、それ以外に自分の生きる道は考えられなかった。易者をやってはみたが失敗したし、いまさら肉体労働もかなわなかった。時代がどんなに暗くても、たとえ陋屋《ろうおく》に住み、貧窮のうちに餓死しようとも、もう仏師が自分の天職と思うほかはなかった。かけがえのない肉親のいのちの数々、愛する妻の死、そして長男と長女の病気、子供たちとの離別……失うものはもう何もなかった。松久は捨て身になった人間だけがもつ妙な明るささえ漂わせるようになっていた。  松久はこの年、昭和十七年、仲間たちと諮って、これまでの「定朝会」を改めて「京都仏像作家連盟」を結成した。定朝会は毎年、定朝の命日の十一月一日に、千本北大路の上品蓮台寺にある墓前に詣でて法事を営んでいたが、回を重ねるうちに、墓前に詣でるのは幹事の四、五人で、あとは鴨川べりの料亭「鮒鶴《ふなづる》」などで飲むだけの会になっていた。定朝にあやかって、仏師の黄金時代を取り戻そう、などと意気込んだ最初の主旨は、すっかり消し飛んでいた。これではいかん、と松久は反省して、江里宗平、深田宗山ら仏師仲間と覚悟も新たに、仏像作家連盟に移行させたのだった。これが現在の「京都伝統彫刻家協会」の母胎となっていくのだ。  釈迦が入滅したあとの無仏時代から、ガンダーラ仏、マトゥラー仏の誕生で、仏像形式がととのえられ、今日もなお永遠のいのちを保ち続けている礼拝の対象としての仏像が数多くつくられてきた長い歴史の過程には、有名無名を問わず、どれだけの仏師が存在したことだろう。 「これらの仏像が、日本人の精神生活に深くかかわり、浸透してきたのは、そこに仏師がいたからや。仏師の先人には、法隆寺金堂のご本尊である釈迦三尊像をつくらはった止利《とり》仏師のような渡来人の仏師もおるし、和様を完成された定朝さんもおる。鎌倉仏師の運慶さん、快慶さんらも偉い仁王さんをつくらはった。そうした仏師たちがようけおったから、日本の仏教文化が見事に花ひらいて、今日まで伝わっているんやで。昭和の仏師のわたしらがここで仏さんつくりをやめてしもたらどうなる? 仏教文化の根が昭和で途切れてしまうがな。だから、仏師たるもの、あだやおろそかに仏像を彫ることはできんのや」  松久は、買い手がいるわけでもない小さな仁王像を彫りながら、息子の武雄に、仏師の道を説いて聞かせた。壬生相合町の狭い店先で、父子は向かい合うようにして仏を彫っている。武雄は相変わらず観音像を手がけていた。この家にいるのはあと次女の喜佐子だけ、七人家族が今ではたったの三人しかいなかった。愛子が結核で福井に転地療養したため、今では十三歳になった喜佐子が、炊事、洗濯などの家事一切をこなしていた。  若き仏師として、武雄は暇さえあれば古来からの名作として今に伝わる仏像を見て、研究していた。その点、名刹古刹の多い京都という風土は申し分がなかった。飛鳥仏、白鳳仏などが古寺に鎮座している奈良も身近だった。自然に仏像の鑑賞眼も深まり、仏師として細かい技法まで目につくようになった。武雄がとくに魅せられたのは天平仏だった。  日本に仏教が伝来したのは、公伝によれば、欽明十三年(五五二)に百済の聖明王が釈迦仏の金銅像一体と経論若干巻を欽明天皇に贈ったのが最初とされている。異説もあるが、ともかく初めは三国時代の朝鮮から仏像とともに造仏技術も伝わってきた。それを持ち込んだのは渡来人の仏師たちだった。したがって、飛鳥時代の仏像、たとえば止利仏師がつくった法隆寺の釈迦三尊像にしても、様式、技法が三国時代に非常に近かった。そのうちに中国との交流が始まると、中国の影響が強くあらわれて、日本における仏像彫刻の主流をなしていった。  松久もむろん仏師として、日本古来の仏像については造詣が深く、各時代の仏像の特徴について、武雄に話すことがあった。 「白鳳仏、天平仏、貞観仏は、北朝後期から隋、唐の特徴が認められるわ。その後も藤原時代から鎌倉時代にも宋の影響を受けている。しかし影響を受けながらも、すでに飛鳥時代でも白鳳時代でも、日本的な同化がみられてるんや。外来文化を日本的なものにこなす日本人の資質は、仏像の面でもはっきり示されているんやで。明治維新後、欧米文化を積極的に受け入れたのと同じような状況が、六、七世紀にもあったわけや、これは日本民族のすぐれた資質として肯定してもええのと違うやろか」  武雄は父の薫陶を受けながら、仏像を見きわめる眼力を身につけていったが、好みがだんだん天平仏に吸い寄せられていった。歴史的には、元明天皇の和銅三年(七一〇)に都が藤原京から平城京に移り、途中で一時、聖武天皇が都を離れたことはあったが、大部分は奈良に都があり、桓武天皇が延暦十三年(七九四)、平安京に遷都するまでの七十数年を天平時代と呼ぶ。  天平時代の初めには、元興寺《がんごうじ》、薬師寺、興福寺といった藤原京の諸大寺が、新しい平城京に移ってきた。そして、「あをによし 奈良の都は 咲く花の 匂ふが如く 今盛りなり」と詠まれた平城京の最大の偉観となったのは、仏教に熱心だった聖武天皇が建立した巨刹・東大寺とそこに造仏された五丈三尺五寸(約十七・六メートル)の毘盧遮那《びるしやな》大仏だった。 「あんな巨大な大仏さん、どうやってつくったんやろ」  武雄の疑問はまずその一点に向けられた。毘盧遮那仏は、もともとは太陽をあらわし、広大無辺な仏智の象徴で、華厳経の本尊である。大伽藍造営、あるいは巨大な毘盧遮那仏の造仏は、国家権力を示威し、華厳経の蓮華蔵世界を現世に実現して仏法を興隆しようとする聖武天皇の発願によるものであったが、それはともかく、この大仏は金銅仏である。  金銅仏は普通、蝋型でつくるが、五丈三尺五寸もある巨大な仏像は、とても蝋型ではつくれない。まず大きな木の骨柱をつくり、その上に筵《むしろ》などを入れて、粘土でだいたいの姿をつくり、鋳造にかかったが、『大仏殿|碑文《ひぶみ》』には八回かけて鋳造したと書かれている。 〈まず粘土で造った原型に塑土をかぶせて外《そと》型をとりますが、おそらく下の部分から二メートルくらいずつ区切って型をとったと思います。できあがると外型をはずし、原型の表面を銅の厚さにあたる分だけ削って中型《なかご》を造ります。その上に外型をかぶせると、中型との間に削った部分の空洞ができますから、そこに溶銅を流し込んで本体を鋳造してゆきます。第一回目の鋳造で一番下の部分を造り終わると、完成したところまで土で埋めてしまいます。大仏はこのような作業を八回くり返して、ようやくできあがったのではないかと考えられます〉  久野健博士の解説である。  大仏造営事業は、天平十六年(七四四)に始まり、天平勝宝四年(七五二)に開眼供養が盛大に行なわれたが、これをつくった仏師は、国中公麻呂《くになかのきみまろ》という百済からの渡来人だった。ちなみに『大仏殿碑文』によれば、この大仏に使われた銅は七十三万九千五百六十斤(四百四十三・七トン)、錫一万二千六百十八斤(七・六トン)、鍍金には金一万四百四十六両(〇・四トン)、水銀五万八千六百両(二・二トン)を要した、という。  武雄は、国家権力がスポンサーだった時代の壮大な造仏事業に目を奪われたが、この数十年後に、よもや自分が世界最大の観音像をつくることになろうとは、想像だにできなかった。東大寺の南大門には、運慶と快慶の仁王像もある。これも因縁をもってくるのだ。  東大寺には、大仏の造営と併行して国中公麻呂が監督してつくった仏像が、他にも残されている。三月堂に安置されている諸像で、本尊の不空羂索《ふくうけんじやく》観音像をはじめ、梵天・帝釈天、さらには金剛・密迹力士《みつしやくりきし》、あるいは四隅に四天王が守っているが、これらの諸像はいずれも脱乾漆造の像である。これは麻布を漆で塗りかためたあと、内部の土を取り出して、張り子の虎のようにする造仏技法だった。  武雄がもっとも魅了されたのは、この東大寺三月堂の壇上に立つ日光《につこう》・月光《がつこう》の両菩薩だった。日光は二百六・三センチ、月光は二百六・八センチの立像で、いずれも塑像だが、合掌して一心に祈りを捧げている両菩薩の表情はあくまでも優しく、気品に満ち、武雄の心を強くとらえて離さなかった。そして、薬師寺の本尊、薬師如来と日光・月光の両菩薩にも強く惹かれた。  武雄は、自分が感動した名品は徹底的に観察し、それを模刻した。先人の偉大な仏師たちのノミの使い方、造仏の技術を勉強するためだった。父は我流のため、「下手な松久さん」と陰口を叩かれた。自分は国宝仏などの名品を何体も模刻することによって、きちんとした技術を身につけたかった。立派な手本をみて「習字」することが上達の基本だと信じたからだった。そんな息子の姿を見て、 「なんや、人のマネして」  と、父が見下したようにいった。それが武雄には、まるで犯罪者にでもいうような棘《とげ》のあるいい方に聞こえて、少しカチンときた。父は将棋を差すとき、いつも口癖のようにこう処世訓をたれていたからだ。 「筋がきたないのは、いくら努力したって伸びひんで。せいぜい三段くらいにしかなれん。名人にはなれへんわ」  息子は、いくら模刻して努力したって、とても名人なんかにはなれんよ、と宣告されたような気がして、じゃあ、お父ちゃんはどうなんや、と心の中で反発したが、口には出せなかった。  仏師としての父は、古仏などを見ても、 「ええお顔してはるわ。なんともいえんなあ」  としきりに感嘆はするが、決して同じものを彫ろうとはしなかった。この姿勢は終生変わらなかった。あくまでも自分の仏心からにじみ出てくる表現を重んじた。武雄はある意味で、形から入るのも時には必要、と考えていたが、父はあくまでも自分の心にだけこだわった。この点でも対照的な二人だったが、こうした姿勢の違いは仏師としての作風の相異ともなり、やがて抜きさしならない父子の芸術的な対立まで生むことになるのだ。   2 戦後の生々流転  戦争が激烈化していく中で、松久父子も戦争に巻き込まれていった。�軍人位牌�の注文が急激にふえ出した。時には近所の人からも頼まれ、ああ、あそこの息子はんも戦死しはったか、と暗然としながら、位牌を彫った。皮肉なことに、他人の不幸がふえるほど、内職としての位牌彫りの収入が多くなるのである。戦死者の冥福を祈りながら、この先日本はどうなるのやろ、と暗然とした。  最初は優勢だった戦局は、その後一変し、昭和十八年一月にはガダルカナル島も落ちた。巷には「撃ちてし止まん」とか、「肉を斬らせて骨を断ち、骨を斬らせて髄を断つ」というスローガンがあふれ、英米などの音楽も野球用語も「敵性文化」として排除され、決戦意識が強化されていたが、四月十八日には連合艦隊司令長官山本五十六が戦死、五月にはアッツ島が玉砕した。悲報が相次ぐうちに十八年も暮れていった。松久もこのままでは徴用を避けられなかった。  明けて昭和十九年、一計を案じて松久は、徴用を逃れるために松原通り千本東入ルの「陸王」という軍需工場の木型部に入った。仏師をやるしか能のない松久は、そこで監督官や将校の目をかすめながら、工員たちに恵比須さんや大黒さんを彫ってやって、せめてもの抵抗をしていた。そこへ松久名差しである話が持ち込まれた。 「陸軍が、ジンギス汗の像をソ連領との国境沿いに近い内蒙古の興安の丘に建てたんや」 「はあ、宣撫工作でっか」 「大きい声ではいえんが、まあ、そうやな。ところが、その像というのがセメントで製作したもんやから有難みがない、金箔にせよ、というのが軍の命令なんや。それをうちが請け負ったんで、ぜひ先生にお願いしたい」  特務機関の使いの者はそう内情を話して、松久に懇請した。松久は、かつて天皇の神格化に反対、不敬罪で検挙された身である。「現人神《あらひとがみ》」の天皇の名のもとに、戦火を拡大してきた侵略戦争に自ら加担する気にはなれなかった。そのことを息子に話すと、武雄のほうが乗り気になった。 「ぼくに行かせてんか。行ったら金になるやろ。それにそんな大きな像に金箔をつける仕事やったら、滅多に経験できることやないから、ぜひやってみたい」  どうやら武雄は貧乏からの脱却と同時に、仏師としての新しい体験にも情熱をかきたてられたようだった。侵略戦争の宣撫工作といった加害者意識などはどこにもなかった。若き仏師の武雄は満州(現・中国東北部)行きを決意した。しかし、金箔師としての経験は皆無である。そこで、父の友人の中村春雄という金箔師のもとに、にわか修業に行った。そして器用な武雄は三日間で、何とか仕事がこなせるまでの技術を身につけてしまった。武雄はこの年の十月に満州へ出発して行った。  画家や塗師屋などを加えた一行の中で、十九歳の武雄は最年少だった。それでも一人前の「箔押師」という肩書きだったので、月給が高かった。「月給が五百円」と聞いて、腰を抜かさんばかりに驚いた。内地では父がいくら位牌彫りをしても五十円に満たなかった。すべて関東軍の特務機関がバックについている仕事だったので、金に糸目はつけなかった。  このとき武雄が預かった金箔は一万枚という厖大な量だった。金箔は、金の地金を延ばしたもので、厚みは一万分の三〜四ミリ程度とごく薄い。塗師屋が像に入念な下地と漆をほどこしたあと、箔押屋の武雄が金箔を押していくのである。セメントに金箔を貼るという奇妙な仕事だったので、最初のうちはなかなかうまくいかなかったが、これもコツをのみ込めば仕事も早くなり、約一ヵ月で金ピカのジンギス汗の像が完成した。トランク一杯に朝鮮飴やタバコなどの土産を詰め込んで、武雄は意気揚々として帰国してきた。松久家にとっては、何年ぶりかで味わう贅沢な生活物資だった。  このときの仕事ぶりがよほど気に入られ、話題になったとみえて、それからまた一ヵ月ほどすると、今度は高島屋の新京支店から、 「高島屋の家具製作部員として採用するから、すぐ来てほしい。ついては観音さんを一体彫って持ってくるように」  という連絡が入った。  どうせ内地にいても満足な仕事はなかった。武雄は二尺ほどの自作の観音像を背負って、その年の十二月に再び満州へ渡って行った。当時、「香蘭」という日本式の料亭があり、観音像は、そこの主人が満州国政府の要人に献上するとかで「八百円」で買い上げてくれた。高島屋の月給も四百五十円という高額だった。高島屋では寮があてがわれている。貧乏で育ったから、金の使い道などは知らない。武雄はその金の大半を父のもとに送金した。  しかし、戦争は末期的な状態に入っていた。二度目に満州に渡った武雄を赤紙が追いかけてきた。松葉杖をついた武雄が、�丙種合格�と、司令官の前でそう申告すると、司令官がニッと笑って、松葉杖をついた少年にいった。 「体を大事にしろ」  このとき約三百人いたうち、兵役を免除されたのは武雄ともう一人の病人の二人だけ。合格組は全員が南方戦線へ送り込まれ、ほとんどが戦死した。命を拾ったな、と武雄は心底から思った。あれほど苦しんだ脊椎カリエスが、今度は命を救ってくれたのだった。武雄が、風雲急を告げる満州から、一足先に帰国したのは昭和二十年三月の末。松久家は、壬生界隈の煙突の多いところにいてはB29の空襲が危ないというので、東山の麓、知恩院の塔頭《たつちゆう》の一室に疎開していた。松久は門口を通る靴音に聞き覚えがあって、あ、武雄や、とピンときて戸口を開けると、果たしてそこにトランクを下げた武雄が立っていた。  それから五ヵ月後の八月十五日、松久父子は、敗戦の玉音を知恩院の塔頭で聞いた。坊さんたちのどの顔を見ても、泣いている者はなかった。それほど国民は厭戦気分に陥っていたのだ。松久は、戦争に負けた日本がこのあとどうなるか分からなかったが、とにかくおれも武雄も死なずにすんだわい、と思った。  戦後の日本は、皇国日本から連合国による日本占領管理体制へと、あらゆるものの価値観が百八十度転換し、めまぐるしく激動していった。とくにアメリカの主導のもとに、連合国軍最高司令官総司令部、いわゆるGHQが設定され、財閥解体、農地改革などが進められていった。その一方で、闇市がはびこり、焦土の街には並木|路子《みちこ》が歌って大ヒットした「りんごの歌」が流れていた。  日本は敗戦後の虚脱感から、やがてたくましく復興への道を歩み出していくが、松久父子のもとへもたらされたものは、捌《さば》き切れないほどの位牌の注文だった。松久はもはや軍需工場の「陸王」へ行く必要もなくなり、知恩院の塔頭の一室に籠って、位牌の文字彫りにかかりきりになりながら、この戦争でどれほど多くの犠牲が払われたのか、いまさらのように戦争の悲惨さを思わずにはいられなかった。この戦争で失った人的損害は、経済安定本部復員局の調査によれば、陸軍約百四十四万人、海軍約四十二万人、一般国民約六十六万人だったが、実数はこの数字をはるかに上回るといわれていた。敗戦の年の日本人の平均寿命が男二十三・九歳、女三十七・五歳だったことからも、いかに日本人のいのちが損傷されたかがわかる。  そのうち今度は、敗戦時に国外にいた軍人約三百六十万人、一般居留民約三百五十万人が次々と引き揚げてきて、一挙に人口が激増してきた。武雄が彩色を習ったことがある八木秀蔵は、万事に機転がきく人で、戦後すぐに、もう彩色師などあかん、と見切りをつけて、古美術商に商売替えしていた。その八木が、相変わらずこつこつと位牌の文字を一字一字彫っている松久のところにきていった。 「あんた、ぐずぐずしていたら、いまに住む家がなくなるで。早よ探さんと、えらいこっちゃ。生きている人間が大事や。のんびり位牌なんぞ彫ってるときと違いまっせ」  八木に尻を叩かれて、松久はあわてて借家を探し始めた。戦火を免れた古都、京都の町中には、まだ「貸し家」という札を貼った家があちこちにあった。松久は武雄とともに、借家を探し回った結果、三条大橋にほど近い仁王門通り新丸太町《しんまるたまち》に二階建ての恰好な家を見つけた。 「仁王門通りか、ええ名前やなあ。ここに決めよ」  いまは位牌彫りが本職みたいになっているが、いつかは畢生《ひつせい》のノミをふるって仁王像を彫りたいという夢を捨て切れないでいる松久は、「仁王門通り」という名前に惹かれて、一も二もなくここに決めた。屋根がつながっている長屋の一つで、うなぎの寝床のように細長い二階家は、下が六畳、三畳、二畳、上も同じ六畳、三畳、二畳という間取りで、家賃は十五円だった。知恩院の塔頭からまた引っ越しといっても、彫刻の道具の他は、箪笥と長持ち、枠のこわれた鏡台に鍋釜、茶碗、下駄箱といった相も変わらぬ貧乏世帯で、武雄にいわせれば「空襲で焼け出された家よりも荷物が少ない」という状態だった。  武雄が満州から送った大金はどうなったのか。宗琳はいまもって、その金の行方がわからないと不思議がる。敗戦の翌二十一年二月、政府は預貯金の封鎖を開始、三月から新円に切り替え、旧券は無効とした。新円切替えとともに、加速度的に進行するインフレによって、松久家はまた元の木阿弥、貧乏な生活を余儀なくさせられてしまった、としか考えようがない。生きることに不器用な松久は、ここでもまた波間から浮かび上がることはできなかった。  戦後の日本人にもっとも大きな衝撃を与えたのは、昭和二十一年の元日、天皇が詔書を発して、自らの神格を否定し、�人間宣言�をしたことだった。これは当時、連合国や日本国内にもあった天皇の戦争責任追及をかわす狙いからとされ、事実、極東軍事裁判でも天皇の戦争責任は告発されずにすんだが、この背景には、アメリカ政府が、占領政策を円滑に推進するためには、天皇と天皇制を温存して利用したほうが得策と考えた高度な政治判断があり、それは日本の支配層の希望とも一致していたからだった。前年、敗戦直後の九月、天皇は連合国軍最高司令官のマッカーサー元帥を訪問、この会見を通じて、天皇および天皇制という「国体護持」が保障されていた。  松久も天皇の神格化否定、人間宣言に深い衝撃を受けた一人だった。天理研究会の時代に不敬罪で検挙され、二十七日間も留置場にぶち込まれたことのある松久にとって、天皇の問題は避けて通れない最大関心事の一つだった。天皇は昭和二十一年元日に�人間宣言�したあと、二月から川崎、横浜両市への行幸を皮切りに、翌年十二月まで、全国各地を巡幸して、国民を激励して回った。巡幸先で天皇が親しく国民と語り合う際に頻発した「あ、そう」という言葉が流行語になるほど、天皇は巡幸の先々で熱烈な歓迎を受けた。それは京都を巡幸したときも同じだった。  松久は、天皇というものを考えないわけにはいかなかった。京都は桓武天皇が延暦十三年(七九四)に遷都した王城の地であり、京都御所は、明治時代に天皇が東京に移ってからも、鎮護国家の象徴となっている。天皇の座は、平安京遷都以前から存在し、平安京遷都後も連綿として続き、明治、大正時代には皇国日本の皇威をあまねく照らし、そして、昭和の激動期に軍部にかつがれて「現人神」になった。が、国家敗戦のあとも�人間宣言�をして存続し、有史以来今日までの長きにわたって滅びることがない。松久は、天皇の座の不思議さを思わないわけにはいかなかった。それを突きつめて考えたときに、松久はいままでの天皇観とは違って、いわば天皇主義とでもいうべきものに回帰していった。 〈蘇我氏をもってしても、藤原氏をもってしても、弓削《ゆげ》の道鏡をもってしても、いかなる幕府の力をもってしても、代わることも潰すことも出来なかった天皇の座とは、一体何なのか。江戸三百年の絶対の力をもってしても、敵将マッカーサーをもってしても排除し得ずして今日ここに続いて来ているという、天皇の座の重みは、ただならんものがあるとわたしは思いますのや。あの苛酷きわまりない東京裁判の裁判長、ウェッブをしても、いみじくも「神だ!」と言わしめた天皇の座、日本の歴史、それはまさに、金力も、権力も、武力も、何ものも侵し得ない絶対の権威こそ、不朽のものであるということを、全人類に指し示すものやと思うのです〉  松久がたどり着いた天皇観はこの言葉に尽きているが、松久は、連綿として続いている天皇の座に「無私無心の慈悲の心」をみた。それを象徴するのが、三種の神器の中心をなす「八咫《やた》の鏡」だと思いいたった。 「そうやろ、鏡ほど公明正大なものはあらへん。鏡はどんなものでも分け隔てなく映すやろ。おまえは貧乏やから映してやらん、そんなことはおへん。そして鏡は今しか映さん。前に立ったものだけを映す。そこをのいたら、何も映らん、過去の痕跡をとどめんのや。そして鏡は水晶体のように無色やさかい、どんな色でも映すけど、決して一つの色には染まらん。この鏡が、日本の国体の象徴となっているということは、これはただならぬことやで」  松久は、武雄にもそう説き、この鏡の心をわが心としてきた日本の天皇の座こそ、いかなる者にも頷くという「大肯定の姿」、すなわち神、仏の自覚に他ならない、と認めざるをえなかった。 〈日本の国は、八咫の鏡が中心になっているということは、空なるものが、中心であることをお示しになっているのですな。空なるものとは何か。それは、己れを空しくした姿です。人を愛するということは、己れを空しくするということです。いつもすべての人のことを思い、すべての人の言う所に頷くということは、己れを空しくしないことにはできることやありまへん。その己れを空しくしたところに、大慈悲というものが生まれてくるのですな。己れを空しくしてこそ、本当の愛が生まれてくるのですな。己れを空しくする人は、愛する人なんです。自分を捨てる事があって、初めて愛が成立しますのや〉  そして、この己れを空しくしたところに、人の心がみな集まってくる。己れを捨て去り、無私無心となり切ることができるのが大聖というものの姿であり、その大聖のもとには、人々が時間も空間も超えて集まってくる。釈迦にしてもキリストにしても、いまもって世界中の人々から慕われ続けているのはそのせいだ、というのが松久の宗教観である。そして、「空なるものの体現者こそ天皇である」というのが新しい松久の天皇観だった。ここにおいて、松久の内なる天皇は、政治的立場から超越し、完全に宗教的な神聖さ、無私無心の大肯定の慈悲の心を体現する形而上的存在となった。大元帥陛下として天皇が君臨した大東亜戦争が、松久のなかで初めて終結を迎えたのだった。  だが、仏師にとって、敗戦の現実は、戦時中とはまた異なった、新たな受難時代の幕あきでもあった。戦後の混乱の中で日本人から宗教心などは消し飛んでいた。人々はインフレと生活物資の不足にあえぎ、生き延びることに精一杯で�たけのこ生活�を余儀なくされ、殺伐な事件も相次いだ。仏心など入り込む余地がなかった。  明治維新の廃仏毀釈の嵐は、明治政府の神道国教政策に基づいて起こった仏教の抑圧、排斥、堂塔伽藍、仏像などの破壊損失という受難時代だったが、第二次世界大戦の敗戦後の仏師の受難は、社会混乱や経済不安定という世相を反映し、人々が生活に追われ、精神的な余裕を持ち得ないことからきていた。仏像を彫ってくれ、と頼む者などどこにもいなかった。  救いの手は日本人からではなく、意外なところから差し出されてきた。戦後、日本の古美術が、進駐軍の手によって多数、海外へ流失していった。彼らは、仏像や仏具、あるいは日本の仏教文化に異国趣味を感じ、日本の古美術を海外へ持ち出した。兵隊たちも、帰国の土産に仏像などを欲しがった。松久はこれまで、買い手のつかない小さな仁王像を彫っていたが、この仁王像が彼らにとって恰好の記念品となった。兵隊たちが、「スモトリ、スモトリ」といって、仁王像を買っていくようになったのだ。想像もしていなかった事態だった。松久はすっかり「仁王門の仁王彫り」と評判になり、位牌彫りから仁王像彫りへと、少しは仏師の真似事ができるようになっていった。  そのうち、「チェスの駒を彫って欲しい」という兵隊がやってきた。将棋に目がない松久は、�西洋の将棋�がどういうものかは知らなかったが、いわれるままに日本的なデザインをほどこし、キングは僧正、クィーンは観音、兵隊は陣笠をかぶった雑兵《ぞうひよう》、城は天守閣というように、カツラ材で彫ってやった。相手は喜んで持ち帰り、それがまた評判になって、注文がふえた。  ある日、松久ら仏師が五、六人、「司令部に出頭せよ」という呼び出しを受けた。何やろう、と不安気におそるおそる出頭すると、セーフィールドという京都管区司令官が現われて、木彫りの置物を差し出した。それはなんと、肥え車を百姓が引っ張っている彫刻だった。神戸でGIたちの土産用に彫られたらしい粗雑なものだったが、人糞を車で運ぶというのが珍しいのか、兵隊たちの間で引っ張りだこだという。戦前はもちろん、戦後でも、日本の下水道設備は欧米に比べたら話にならず、肥え車を百姓が運ぶ光景は至るところで見られていた。司令官は、いかにも�日本的な光景�として、その置物にいたく興味を持ったらしかった。 「あなた方は専門家だから、もう少しエレガントに彫ることができよう。鑑賞に耐え、置物にできる彫刻にして欲しい」  セーフィールド司令官の威光は絶対である。その場は「オーケー」といって引き下がってきたが、仏師たちはさすがに恥と屈辱を感じて、誰も引き受け手がなかった。 「ほんなら、わたしがやりまひょ」  松久は、他の仏師たちが嫌がる仕事を自分で彫ることにした。仕事を選んでいる余裕などはなかった。仏師の一人が皮肉をいった。 「そうや、松久さんが最適任や。仁王さんでGIたちには人気のある人やしな」  松久は意に介さなかった。家に戻ると、武雄に事情を話し、父子で手分けして、三十個あまりの注文の置物を彫って納めた。一個あたり五千円という破格の金を払ってくれたので、今度はその気前の良さにびっくりした。白米一升が闇値で七十円の時代である。これで当分は食いつなぐことができる、と松久父子は�救世主�に感謝した。 「仕事の選《よ》り取りはあかん。仏師は何でも彫れな一人前やない。観音さんしか彫らん、仁王さんしか彫れん、こんなことでは仏師としての仕事が狭いもんになってしまう。人さまが嫌がる仕事こそ、ほんまの修業になるんやで」  松久は武雄にそういい聞かせた。それは松久の実感でもあった。�救世主�はさらに松久父子に福音をもたらした。肥え車の置物を彫ったことがきっかけとなって、松久は、京都ホテル北隣にあった進駐軍専用ギャラリーで「仏像展」を開くことができるようになったのだ。「仏像展」といっても、小さな仏像を彫り上げるまでの実技を公開する程度のものであったが、これもなかなか好評だった。  松久が感心したのは、ギャラリーに入るとき、進駐軍の兵隊たちが、必ず帽子を取って一礼したことだった。日本人の多くは、敬虔な心などどこかに捨て去ってしまっているのに、彼らは聖なるものに対してはちゃんと尊敬を払っている。意外な発見だった。松久は、仏像彫刻界の受難時代とはいえ、仏像に魂がこもっていれば、洋の東西を問わず、人々は自然に敬虔な気持ちになる、仏師はひたすら仏像に魂をこめて彫ればいいのだ、と改めて思い知らされた。街には�カストリ文化�があふれ、昭和二十二年五月三日には新憲法が施行され、日本は戦後を新しく踏み出していたが、松久はただ一筋にノミをふるうしか、自分の生きる道がなかった。   3 救いを求めて 「蔵王《ざおう》権現さんを彫って欲しい」  松久にとって、記念すべき戦後の第一作となる仏像彫刻の注文が聖護院《しようごいん》から依頼されたのは昭和二十三年のことだった。まだ主食は配給制で、前年に新価格体系が決定されているが、物価の上昇は依然激しく、食うだけが精一杯の生活が続いていた。位牌の注文も峠を越し、さりとて仏像どころではないという逼迫した時代に、聖護院から仏像の依頼が舞い込んできたのである。  聖護院は左京区にある門跡《もんぜき》寺院で、寛治四年(一〇九〇)、白河法皇が熊野三山に参詣の折に建立させ、全国の修験者を統轄したのが始まりとされ、修験宗の総本山となっている。その後、後白河法皇の息子が入寺して宮門跡として続き、現在の建物は延宝年間(一六七三〜八一)のものだが、天明八年(一七八八)に京都御所が火災にあった際、光格天皇が仮御所として使用した由緒ある名刹だった。今も宸殿《しんでん》、本堂、書院、北殿などの他、仮御所当時の玉座、御学問所、茶室が残っている。 「聖護院の仏像を彫りまいらせることができるとは感激のきわみ、誠心こめて彫らせてもらいます」  と松久は恐懼《きようく》したが、聖護院とは戦前から因縁浅からぬものがあった。  鞍馬街道を北へ北へと進み、花背《はなせ》峠を越えたもっとも奥深い山中に大悲山|峯定寺《ぶじようじ》という寺がある。清流に面した急斜面に建つ峯定寺は、平安時代に鳥羽天皇が建立したものと伝えられ、仁王門から老杉を縫って険しい参道を登ると、崖の上に本堂があり、これは現存する日本最古の舞台造建築とされている。山内は行場が多く、奈良の大峰山に対して、「北の大峰山」と呼ばれ、修験道場としても有名だった。そして峯定寺は、修験宗総本山の聖護院の直末の寺だった。  松久は戦前には目ぼしい仏像は彫っていないが、昭和十七年に、この峯定寺の開山、三滝《さんたき》上人の坐像を彫ったことがあった。壬生《みぶ》相合町に住んでいた時分で、近所の友禅関係の染料屋が三滝上人の坐像を寄進することになり、松久に依頼してきたのがきっかけだった。染料屋の実家が、峯定寺のそばで旅館を経営しており、そこに泊まり込んでの仕事だったが、食糧事情が悪くなってきたときだっただけに、山菜料理や山女《やまめ》などの珍味とともに、ご飯がふんだんに食べられることも最大の魅力だった。  脊椎カリエスを患った武雄は、このころには松葉杖をつきながら歩けるようになっていたので、坐像の彩色を手伝うことになった。険しい山道を登るのはひどく難儀だったが、武雄は歯をくいしばって耐えた。足を引きずりながら、ようやく登りつめると、あたり一面に石楠花《しやくなげ》が見事に群生していた。武雄は苦難のあとに、不意に極楽の世界に足を踏み入れたような感動を覚えて、そのまま美しい花園に見とれていた。峯定寺は石楠花の名所でもあった。  三滝上人は霊力のあった行者として伝えられていた。松久は、そういう超能力者としてのイメージを坐像に表現することに全身全霊を込めてノミをふるった。その坐像に今度は武雄が彩色した。家庭の悲運が相次いだあとに、こうして父子が初めて一つの仏像をつくることができるのは、仏さんの深いおぼしめしだ、と松久は思わないわけにはいかなかった。一心に彩色している息子の後ろ姿を見守りながら、父は「ああ、ようよう、わしにも跡つぎができた」というにいわれない喜びを噛みしめていた。その意味でも、三滝上人の坐像は、松久にとって心に残る戦前の仏像の一つだった。  峯定寺には、さらに因縁がつきまとっていた。この二年後、松久が「陸王」の軍需工場で働いているとき、京都博物館から呼び出しがあって、こう頼まれた。 「博物館で預かっている鎌倉期の毘沙門天と不動明王の二体を、そろそろ空襲のおそれも出てきたので寺にお返ししたい。ついては、ちょっとした修理と二体を納めるお厨子《ずし》をこしらえてもらいたい」 「そら結構やけど、どこの仏さんでっか」 「大悲山峯定寺のもんですわ」  そう聞かされて、松久は不思議な因縁にびっくりした。また峯定寺での仕事が始まった。武雄もときどき手伝いにきた。松久は、山門の下を仕事場にしていた。山門の梁から巨大な蜂の巣がぶら下がっていた。松久は毎日、その下で仕事をしていたが、一度も危険を感じたことはなかった。ところが、ある日、武雄がきて、巣を見上げながら、 「どうも気になるわ、あの蜂の巣を叩き落として焼いてしまおか」  といったときだった。突然一匹のスズメ蜂が爆撃機みたいに急降下してきたかと思うと、丸坊主の武雄の頭を直撃した。手で追い払ったときは遅かった。刺された頭に激痛が走った。薬などはない。あわてて小便をして、頭にすり込んだ。 「蜂にも超能力があるのかな、あ、痛い」  武雄がボヤいた。痛みがとれるのに三日もかかった。自然界の不思議さを感じずにはいられなかったが、このときの峯定寺詣でのとき、武雄は行者というものを初めてみた。ひとりで松葉杖をつきながら、山道を登っているときだった。後ろから、真っ白な浄衣に身をつつんだ四十代の精悍な男が、一本歯の高い下駄を履き、杖を片手にトツトツと駆け上ってきた。急な勾配を人間技とも思えぬ速度で近づいてくると、風のように武雄のそばを通り過ぎ、燃えるように鮮やかな深山の緑の中を山上に駆け登って行った。数秒間のようなできごとで、顔さえ定かではなかった。 (行者って偉いもんやなあ)  と感心した武雄は、まるで白昼夢をみているようだった。この話には、後日談がある。峯定寺には子供がいた。いまから五年ほど前、宗琳が峯定寺を訪ねたことがあった。子供は寺の住職になっていた。昔の思い出話になって、宗琳があのとき風のようにすれ違った行者の話をすると、住職が不思議そうな顔をした。 「ここにそんな行者などおらへん。それは人間と違いますでえ。ここは役行者《えんのぎようじや》がひらいたところやから、もしかして役行者の霊魂を感得されたのと違うやろか。一種の超能力現象やな」  今度は宗琳が黙った。あのときの摩訶不思議な謎は、彼の心の中でまだ解けていない。実際、峯定寺はそんな超自然現象があったとしてもおかしくないような霊気に満ちた神秘な霊域だった。  修験宗総本山の聖護院から「蔵王権現」の依頼があったとき、松久も武雄も、咄嗟に感じたのは、目には見えない仏縁と慈悲の深さだった。二度あることは三度ある。食えなくなると、奇妙に聖護院と峯定寺が仕事を与えて、助けてくれた。蔵王権現は役行者が金峯山《きんぶせん》で修行中に感得したと伝えられる仏像で、平安時代中期から修験道が発達するにつれ、全国的に信仰されたものだった。役行者は役|小角《おづぬ》ともいい、奈良時代の山岳呪術者で、大和の葛城山《かつらぎさん》を根拠に吉野金峯山、大峰山をひらいて修行した修験道の開祖とされている。  修験道は鎌倉初期に、密教的な山伏修行者たちが神道思想を包容して成立したもので、したがって教義的には天台宗および真言宗に通じ、毘盧遮那仏、つまり大日如来の万徳をそなえ、即身に成仏すると説いている。修験道の霊地は、葛城山、金峯山、大峰山をはじめ、全国に数多く、熊野三山、富士山、御岳《おんたけ》、白山、立山、羽黒山、大山《だいせん》、英彦山《ひこさん》なども皆そうだった。その宗派も、かつては真言修験の当山派(三宝院流)と天台修験の本山派(聖護院流)の別があったが、今日では真言宗醍醐派と金峯山修験本宗(金峯山寺)、修験宗(聖護院)などの派に分かれている。  修験道がかつていかに力を持っていたか。それは金峯山寺の歴史をみればすぐにわかるだろう。大峰山を山上、吉野山を山下《さんげ》とする金峯山修験本宗の霊地、金峯山寺は、平安中期に神仏和合の思想から栄え、皇室や藤原一門の帰依を受け、僧坊百余を数えて吉野衆と称し、高野山とも争う大宗教集団だった。源義経も頼朝勢に追われて入山したし、足利尊氏と争った後醍醐天皇はここに吉野朝をひらき、南北朝時代の南朝の拠点にしたほどだった。  松久は、仁王像やこうした蔵王権現のような呪術的で荒々しい魅力をもった男性的な仏像に、前から惹かれていた。なぜ、そういう仏像に憧憬を抱くようになったのか。松久は後年、それは「劣等感」のせいだった、と告白している。松久は子供のころから体が人並より小さく、成人してからも小柄で、一時は劣等感に悩まされていた。肉体的な弱点を、意志的に克服、努力することを、心理学では「補償行為」というが、松久は、自分に欠けている肉体的なたくましさを、仁王像などの男性的な仏像をひたすら彫ることによって、精神的に補おうとして、長い間、小さな仁王像で習作に励んでいたともいえた。  肉体的な劣等感ばかりではなかった。むしろ生活不能者、家庭生活破壊者という劣等感が、松久にはいつもつきまとっていた。妻子に幸せを与えることができない、自分の不甲斐なさが、仏師として超人的なものを求めさせ、その補償行為の中でみずからの魂を救済しようとしていたのかもしれなかった。松久は、聖護院の蔵王権現の仕事に異常なほどのめり込んでいった。それには深い理由があった。松久はこのとき、実はまたしても肉親の死という傷心の底なし沼に沈んでいたのだ。今度は長女の愛子が早世したのだった。  結核を患って福井に転地療養した愛子は、母に似て幸せの薄い娘だった。いくら田舎の空気がいい、食物が豊かといっても、思春期まで京都で成育した娘にとって、因習の濃い福井の生活は容易になじめなかった。しかし、運命は彼女の希望とは逆のほうへと連れ去っていく。愛子は京都へ戻りたがったが、鼎が預けられている小原家から、ぜひ次男の嫁にもらいたい、という申し入れがあった。  小原家には、長男の恒久の他に、右門、左門という二人の弟がいた。右門は、水上勉と小学校の同級生だった。この右門の嫁に愛子を欲しい、という。愛子にその意思はなかったが、小原家では親の松久に、どうしても愛子をくれ、といってきかなかった。そこまで強硬にいわれると、松久には最後まで拒みきれない弱味があった。それは鼎や真百美を育ててもらっている上、愛子まで転地療養させてもらっているという負い目だった。 「そんなにまで望まれるなら、愛子もかえって幸せになるかもしれん」  松久は、義理に迫られて、とうとう承諾をする羽目になり、泣きじゃくる愛子に因果を含めた。それが結果的には、愛子の寿命を縮めることになってしまった。  愛子は十八歳で右門と結婚し、小原家の人にさせられた。結婚して一年目、松久が福井に行ったときは、病気を再発して痩せ衰えていた。そして「京都に帰りたい」といって泣いた。父が京都に帰るとき、愛子は父の乗った汽車をどこまでも追いかけてきた。父にとっても娘にとっても辛い別れだった。愛子は母の血を引いてか、ふっくらとした顔の美人だったが、容貌も目に見えて衰えていた。夫の右門は、京都に帰すともっと病気がぶり返すから、といって、愛子を福井にとどめていた。  愛子は腸結核だった。右門の兄、恒久も結核で寝込んでいる。鼎にとっても陰々滅々とした家で、姉が可哀想でならなかった。愛子はとうとう我慢できなくなったのか、家出同然で婚家を飛び出し、京都に帰ってきてしまった。そのまま一週間が過ぎた。すぐあとを追ってきた夫の右門が、妻の顔を平手打ちにして連れて帰ろうとしたが、愛子は泣きじゃくって、もはやいうことをきかなかった。仕方なく夫は一度引き返していった。  愛子は父や武雄のもとに帰ってきた。仁王門通りの借家は、二階の六畳間を松久父子が仕事場にしていた。愛子はその隣の二畳の部屋で病気静養することになった。内弟子第一号の藤本陽二が訪ねて行ったときは、部屋に粗末なベッドを入れて、そこに寝ていた。藤本によると、松久家の三人の娘は、愛子が「おとなしい子」、次女の喜佐子は「気のはっきりした子」、三女の真百美は「しっかりした子」だった。松久は、あまりにもやつれた愛子を見ると、胸がふさがれる思いがして、ああ、嫁にやらなんだらなあ、といまさらのように後悔したが、後の祭りだった。まだストレプトマイシンなどない時代のことで、愛子の病状はますます悪化していった。貧乏のため、満足な滋養をつけてやることもできない。松久は病床の娘の姿を見るのが辛かった。  年が明けて昭和二十二年の春、愛子は自分の死期を悟っているようだった。急に陽気になって、父や兄や妹にことさら明るくふるまい、しゃべるようになった。そして、そのあとで決まってぐったりとした。松久も医者から、「もうあまり長くない」と宣告されていた。愛子は歌の好きな娘だった。松久も歌は嫌いではなく、仕事をしながらよく、  ※[#歌記号]雨の日も、風の日も   泣いて暮らす  という歌を決まって口ずさんでいた。  その日、愛子が「お父ちゃん、歌を唄《うと》おたげよう」といって、その頃はやっていた歌をか細い声で唄い出した。父と武雄と喜佐子の三人が、その歌を聞いていた。愛子の歌がすうーっととぎれた。それが愛子の臨終だった。最初は死んだとは気がつかなかった。眠ったのかと思った。やつれていても、眠った顔はきれいだった。それが死に顔だとわかったときの驚愕、父は涙がとまらなかった。 「愛子、おまえ、歌いながら死んでいくなんて、なんていう子なんやろ」  妻が死んだときも、胸がつぶれる思いがしたが、娘に先立たれることぐらい悲しいものはなかった。お姉ちゃん、といって喜佐子が姉の遺体に取りすがって号泣していた。武雄の両眼からもたまらず涙があふれた。父は放心した顔で、ただ頬を濡らしていた。  また悲しく寂しい野辺送りだった。わしの家からいったい何人死者を出したら、この世の悪霊は満足するというのか。松久は腑抜けのようになっていた。福井から駆けつけた夫の右門は、ただ絶句して霊前に詫びていた。 「そんなに病気が悪いとは知らなかった。あのとき叩いたりして、つまらんことをしてしまった。許してくれ」  この右門もやがて結核で、妻のあとを追うように死んでいった。右門は、岡田の�結核三羽烏�の一人といわれた、という。それほど当時、結核は�亡国病�だった。  聖護院から蔵王権現の依頼があったのは、愛子の死後間もなくで、松久も武雄も傷心のただ中にいるときだった。悲しみを乗り越えるためには、どうしても一代の傑作を彫りあげ、亡き妻と娘の菩提を弔わなければならなかった。そう意識している分だけ、松久はまだ仏師として無心になり切れていなかったともいえた。  ここで仏像の種類について、簡単に説明しておくと、仏像は如来、菩薩、天部、明王、羅漢の五つに大別される。  如来は、悟りをひらいた諸尊の最高位に位置するもので、釈迦如来、薬師如来、阿弥陀如来、弥勒仏《みろくぶつ》、大日如来、盧遮那仏などがある。菩薩は、衆生を救済しつつ、自らも悟りを求める途中にある諸尊で、聖《しよう》観音、十一面観音、千手観音、如意輪観音、勢至《せいし》菩薩、日光・月光両菩薩、普賢菩薩、地蔵菩薩、虚空蔵《こくぞう》菩薩など。  天部は、仏教に帰依し、仏法の守護にあたる諸尊で、貴顕天部と武人天部の二つに大別され、貴顕天部には梵天《ぼんてん》、帝釈天《たいしやくてん》、吉祥天、訶梨帝母《かりていも》、弁財天、伎芸天などがあり、武人天部は四天王、十二神将、執《しつ》金剛神などがその代表である。  また明王は、大日如来の教令のもとに、魔障を粉砕する諸尊で、その代表的なものは五大明王といい、不動明王、降三世《ごうざんぜ》、軍荼利《ぐんだり》、大威徳《だいいとく》、金剛夜叉明王から成っている。その他、大元帥明王、愛染《あいぜん》明王、孔雀明王などが有名だ。最後に羅漢は、十六羅漢や五百羅漢といわれるように、仏道修行者全般をさし、釈迦の十大弟子をはじめ、聖徳太子、各宗派の祖師、高僧なども含まれ、役行者像もこれにあたる(以上、久野健『仏像巡礼事典』に拠る)。  松久父子が彫ろうとしている蔵王権現は、これらとは別に、垂迹《すいじやく》像の範疇に入る仏像だった。有名なのは吉野にある如意輪寺《によいりんじ》の重要文化財の蔵王権現で、これは嘉禄二年(一二二六)、仏師、源慶によって制作されたものとされている。松久は吉野の如意輪寺に出かけて、この蔵王権現を丹念に見入り、正確に写生して参考にした。蔵王権現は、形像は金剛童子に似て、片足を高く挙げた踊躍の姿が一般的である。  松久が依頼されたのは四尺ほどの尊像だったが、仏心のおもむくままに工夫をこらし、彫りあげた蔵王権現は、逆巻く髪、忿怒《ふんぬ》の形相も凄まじく、凶々《まがまが》しいまでに躍動していた。そして、この仏像が戦後の記念すべき第一作となった。  蔵王権現がもたらしたのか、ようやく松久家にも春が訪れた。福井から真百美が帰ってきたのは昭和二十五年のことだった。真百美は十五歳の美しい少女になって戻ってきた。松宮家の叔母は、中学を出た年になっても手離したがらない祖父の徳蔵にいった。 「女の子はいずれ嫁に出さんならん、そのときには相当の嫁入り仕度もかかる。今のうちに京都に帰したほうが世間体もええし、お父さんも喜ばはるやろ」  祖父もそれで決心したらしかった。春の田植えが終わったあと、手塩にかけて育ててきた孫娘に、こう教え説いた。 「ええか、京都に帰っても、向こう三年間は、春の田植えどきと秋の取り入れのときの一ヵ月間は手伝いにくるんやで。それが育ててもろたお礼奉公や」  祖父に送られて、真百美が帰ってきたのは仁王門通りの借家だった。真百美が福井に預けられてまた戻るまでの間、松久家は三回も引っ越しをしていた。一年先に、小浜水産学校を卒業した鼎も戻ってきていた。水産学校の二年先輩には水上勉の弟がいた。鼎は小原家から「跡とりになれ」と望まれていたが、どうしても京都に帰る、と振り切って戻ってきたのだ。鼎も十八歳の立派な若者に成長していた。  母の死後、一家離散してから十数年ぶりにまた父と子の顔が揃った。松久は、ここに妻と愛子の姿があったらなあ、と思ったが、二人ともあの世できっと喜んでくれているやろ、と信じて、久方ぶりの家庭|団欒《だんらん》に身をゆだねることにした。  鼎と真百美が帰ってきて、貧乏生活は相変わらずだったが、仕事の風向きが明らかに変わってきた。朝鮮戦争が勃発し、金閣寺が炎上した昭和二十五年の九月、ジェーン台風が近畿地方を縦断し、鞍馬寺の千年杉の大枝が折れてしまった。枝といっても十七石もある。今度はその大枝から「魔王尊を彫って欲しい」というご下命があった。  魔王尊は今から六百五十万年前に、金星から地球へ下ってきた霊王で、十六歳という若さを永遠に保ち、変幻自在、無限の霊力を人類の進化のためにふるわれる尊像とされている。そんな霊験あらたかな魔王尊を彫って欲しいというのだから、松久は斎戒沐浴、身を潔めて一心にノミをふるって、無事に奉納することができた。これが仏縁の始まりで、少し後の話になるが、昭和四十四年に再びご下命があった。今度は、千手観音、毘沙門天、魔王尊の三位一体を彫る仕事だった。  仏師として、由緒ある鞍馬寺の三尊を彫るのは、この上ない名誉だった。古い時代の名匠の手になる仏像と並んで奉安されるということは、松久が彫る仏像が昭和仏として後世に伝えられるということである。松久は精魂のかぎりを尽くして彫った。その年の十二月、松久が心魂を傾けた三尊は、截金《きりかね》細工をほどこされ、荘厳優美な尊天として奉納された。信楽香雲《しがらきこううん》管長が、松久の労をねぎらった。 「見事な三尊さまや。やがては国宝になる仏さんや」  松久の感激、これに過ぎるものはなかった。三尊は現在、新しい金堂の地階に奉納されている。  仏師として最大の悲願だった仁王像に挑む日も、ついにやってきた。 [#改ページ]   第四章 修羅の魂を彫る   1 「仁王の松久」  不思議なことに、いい仏像を彫りたい、仁王像にあやかりたいと恋い焦がれていたときは、天運に恵まれなかった。仏師とは名ばかり、焦れば焦るほど、広大無辺な仏の慈悲からただ一人見放され、この世の地獄にのたうちまわってきた。松久にも人間としての欲望、煩悩、名誉を求める心がなかったとはいわないが、少なくとも人よりは宗教心を持ち、仏に対する敬虔な気持ちを持ち続けてきた。それなのに、天の試練と考えるにはあまりにも苛酷で無情なこれまでの人生だった。  それでもなお、松久は愚鈍なまでに仏を信じて、仏師の生き方を貫いてきた。一筋の曙光が射してきたのはそれからだった。暗い時代に翻弄されて戦後を迎え、最愛の娘をまたしても失った松久は、運命の命じるままに、蔵王権現を彫り、魔王尊を奉納した。これらの仏像がその呪術でもって、それまで松久にとり憑いていた怨霊を吹き払ったかのように、松久の前に道がひらけてきたのである。  寺町通り仏光寺の高橋仏具店を通して、「四国の寺に仁王像を彫ってくだされ」という話が持ち込まれたのは昭和二十五年、鞍馬寺の最初の魔王尊が完成したあとだった。 「わたしに仁王像を? ほんまでっか」  仁王像が彫りたいあまり仏師になったといってもいい松久は、その話があったとき、最初は容易に信じられなかった。仁王像が彫れたら本望や、わしのいのちを投げうってもええわ、などと口にはしてきたが、現実にそれが実現できるとは思ってもいなかった。なぜなら、山門の仁王像を彫る機会に恵まれるというのはよほどの天佑があってのことで、京仏師の中では明治年間に一人いただけと語り伝えられてはいるが、誰が、どこの寺の仁王像を彫ったのか、その名前も伝わっていなかったからである。 「四国に出石寺《しゆつせきじ》いう名刹があって、その山門に仁王像をつくりたいそうや。松久さん、あんたが彫りなはれ」  高橋仏具店の主人は、ことのあらましを語った。出石寺は愛媛県きっての名刹で、昔は松山藩と大洲《おおず》藩の二つがお守りしていたが、昭和十六年に焼失したあと復興され、山門に仁王像を入れるということだった。標高八百メートルの金山連峰にあって、もともと猟師や銅山の職人たちの間で信仰され、本尊の観音さまも、土地の猟師が金色に燦然と輝く仏像が地から生え出ていたのを見つけ安置した、と伝えられている。  松久はこの話に小躍りして飛びついたが、一つだけ難点があった。寺にはあまり予算がなく、しかも仲介する仏具店が入るので、価格がべらぼうに安いということだった。当時は仏師といっても、仏具屋からの下請け注文が主で、松久が暇にあかせて彫っていた三寸ほどの小さい仁王像なども、仏壇を買った客におまけとして添え物扱いにされていた。  本物の仁王像ともなれば、制作にも時間がかかる。しかもべらぼうに安いとあっては、家計が火の車なのに、ただ同然で仕事をするようなもので生活がたちゆかない。さすがの松久も悩み、頭をかかえ込んでしまった。そんな父を励ましたのが、次女の喜佐子だった。 「お父ちゃん、ただでも一ぺんは彫りたいと思っている仁王さんでしょう。安くてもお金をもろて彫らしてもらえるんやから、こんな機会は二度とないで。家《うち》のことはなんとかするからやったほうがいいわ」 「ほんまにお父ちゃん、やってもええか」  松久は娘の一言が涙が出るほどうれしかった。まだ子供だ、と思っていた娘たちが、いつの間にか父の心を汲み取ることができるまでに成長していた。それに鼎も真百美も帰ってきた。兄妹たちが力を合わせれば、なんとか生活もやっていけるかもしれない。松久は子供たちの成長を頼もしく実感し、いよいよ生まれて初めて大きな山門の仁王像に取り組むことになった。このころの松久は鳳雲《ほううん》と号していた。武雄も秀円と名乗り、すっかり若き仏師に成長していた。  仁王像は、阿《あ》、吽《うん》、一対の巨像で身の丈《たけ》八尺(約二・四メートル)もある。それをどうやってつくるか。これまで仁王像を彫ってきたといっても、いずれも三寸ほどの小さなもので、そんな掌の中で彫るようなものとは訳が違う。仁王像のイメージについては、法隆寺の仁王像、東大寺南大門の仁王像、京都博物館にある運慶作と伝えられる金剛力士像を何回となく見て夢をふくらませてきたので、昭和の仏師として、それに負けないものをつくりたいという意気込みはあったが、さてその巨大な仁王像をどうやってつくったらいいものか。  宇治平等院鳳凰堂の阿弥陀如来像をつくった定朝《じようちよう》は「寄木造り」の技法を駆使した。寄木造りの特色は、仏頭から膝下まで、像の中心線を縦に引いて、これを二本の木で彫り合わせる。そのため巨像でも中心線が狂わぬという利点があったが、仁王像のようにポーズが躍動している巨像は、この手法では難しい。そこから鎌倉時代に入って、寄木造りがさらに改良され編み出された新技法が「賽《さい》割り法」という画期的な新技法だった。その新技法の傑作が、運慶一門がつくった東大寺南大門の仁王像である。  しかし、この賽割り法の画期的な技法も、鎌倉時代以降は、ほとんど用いられることがなく、いわば伝説的な�幻の技法�として語り伝えられてきただけにすぎなかった。室町時代以後、仏像彫刻が衰退し、仁王像のような巨像を彫ることがなくなってしまったからだった。松久は、そんな仁王像を彫れることになった時代のめぐり合わせに感激し、身の引き締まる思いをしたが、いざ本格的な仁王像に取り組むとなると、一抹の不安がかすめる。思索をしているとき、思い出したのが�幻の技法�、運慶一門が開発したと伝えられる賽割り法だった。 「わたしも慶派につながる京仏師や。運慶さんらに負けんような昭和の仁王像をつくるのがわたしの終生の悲願や。賽割り法いうのを一度研究してみようかと思うがどうやろ」  松久は、息子の武雄に相談した。 「運慶さんらは、東大寺の仁王像を七十日間くらいの短期間で完成させたというが、ほんまやろか。でも、賽割り法を使ったのは間違いないから、研究してみる価値はありますな。やってみまひょ、お父ちゃん」 「なんか江戸時代にも一度か二度、賽割り法を使ったことがあるらしい。そんなことをなんぞの本で読んだ記憶があるわ。どこぞに資料があるかもわからへん」  松久父子は、賽割り法という技法を思いついたことで、仕事の展望が急に明るいものになってきた。同時に、定朝から始まる京仏師の系譜に自分らもつながっているという自覚が強烈に意識された。それが伝統の継承というものなのだろう。松久には、京仏師の伝統を絶やさずに、さらに後世に伝えなければならないという使命感と誇りがあった。  飛鳥時代の止利《とり》仏師、奈良時代の国中公麻呂と同様に、平安時代の大仏師であり仏像制作工房の経営者的な側面をもっていた定朝の拠点、「七条仏所」はその後も弟子たちによって受け継がれた。定朝の死後、定朝の実子|覚助《かくじよ》が七条仏所を守り、弟子の長勢はやがて「三条仏所の祖」となり、長勢の一門は、その子の円勢はじめ、名前に円の字のつくところから、「円派」と呼ばれるようになった。  一方、覚助は早逝したが、覚助の系統は、弟子の院助が「七条大宮仏所の祖」となって、こちらは仏師にみな院の名がつくところから、「院派」として活躍。覚助の実子頼助は「円派」「院派」に追われる形で奈良に下り、興福寺大仏師職を得て、いわゆる「奈良仏所」をつくり、頼助—康助と受け継がれていく。そして、康助のあとに康慶が出た。運慶の父である。康慶には実子運慶の他、定慶、快慶という優秀な弟子がいた。この一門は慶の字がつくところから、「慶派」と呼ばれた。新しい時代の天才仏師、運慶と快慶が登場したのは定朝の死後百二十年が経ってからで、時代は平安時代から鎌倉時代へ、貴族社会から武家社会へ移っていた。  定朝の死後、「円派」「院派」「慶派」と分かれて、造仏界の主導権を争ってしのぎを削っていた三派のうち、円派と院派は朝廷や後白河院、あるいは平家の後ろ盾を得て、貴族の好む定朝様式を継承して権勢をふるっていた。しかし、時代ががらりと一変して、鎌倉幕府の世になると、平家からの注文で源氏調伏のための毘沙門天像などをつくっていた円派や院派は、いわばパージに引っかかって凋落していき、代わって擡頭してきたのは奈良仏所の運慶とその一門の慶派だった。  運慶の生没年は不明だが、荒々しい僧兵をたくさん抱えた奈良の興福寺に育ち、たぶん非常に男性的な気質を持っていた上、時代の転換期に遭遇したことから、鎌倉武将たちの注文を受けて次々と力強い仏像を創造し、「運慶様式」といわれる写実的で男性的な様式を完成させ、時代の主流にのし上がっていった。運慶および一門の仏像には、従来の円派、院派の仏像には見られない「自力本願」のたくましい生命感と躍動感がリアルに表現され、時代のもつ鋭く研ぎすまされた感性と高い精神性がにじみ出ている。  朝廷や藤原貴族と結びついて、平安時代に「和様」という仏像様式を完成させた定朝もそうだったが、まさしく天の時、地の利、人の和という三つの要素がうまく味方しなければ、傑出した大仏師は出現してこない。運慶の場合も、鎌倉時代という武家社会の幕開けに遭遇し、京都に本拠地を持つ円派の明円、院派の院尊という二大仏師がたまたま相次いで没したことも幸運だった。さらに源平の戦いで、治承四年(一一八〇)に平|重衡《しげひら》の乱によって南都が焼き打ちされ、奈良時代に建立された東大寺と興福寺などの大寺の堂塔がことごとく焼失したのが、運慶の時代に復興され、造仏事業が盛大に行なわれたのも、仕事をする上で最高の場を与えられることになった。  そして、運慶が一門を率いて完成させた最大の仏像が、東大寺南大門の仁王像だった。これが完成したのは建仁三年(一二〇三)のことで、前後の記録から運慶が五十二歳のときの作とされている。仁王像一対のうち、これまでは阿形は父康慶の弟子で一門の快慶が担当し、吽形は運慶がつくったといわれてきた。  この仁王像は現在、修理委員会(委員長・西川新次慶応大名誉教授)の指導のもとに解体修理している。平成元年十月三十一日の発表によると、解体した吽形の胎内には、鎌倉時代に東大寺の再建に力を尽くした重源《ちようげん》上人の名前や、これをつくった仏師ら約二百人の名前を書いた経巻が奉納されていたが、そこにあるべきはずの運慶の名前がなかった。  経巻の奥書きには、東大寺復興に尽力した重源上人こと「大勧進大和尚南無阿弥陀仏」の名前と同時に、大仏師定慶、湛慶の二人とともに小仏師十二人の名前など延べ二百二人の名前が並んでいた。定慶は、運慶の父康慶の弟子で、湛慶は運慶の長子である。経巻に運慶の名前はなかったが、当時、阿形をつくった快慶と並んで第一級の仏師であった定慶と湛慶の作品に手を加えることができるのは運慶しか考えられないことから、修理委員会では、運慶は一門の総括者「総《そう》の大仏師」として、仁王像制作の全般に采配をふるった、としている。それほど巨大な仁王像を彫るということは、一門の力を結集しなければ容易に制作することができない大プロジェクトであった。  なお、今回の解体修理で、吽形は臍《へそ》や目、乳首などの位置を完成後に下にずらしていることが明らかになっただけでなく、奈良国立文化財研究所の「年輪年代学」測定法によって、山口県佐波郡徳地町産のヒノキが使われたことまでわかっている。これは、重源が東大寺再建の用材を確保するための拠点として創建した徳地町の安養寺、現在の法光寺阿弥陀堂にある木造阿弥陀如来坐像と仁王像の年輪の変動パターンがほぼ一致したからだった。この結果、吽形がつくり始められたのは建仁三年(一二〇三)と推定されている。そして定説では、木彫着色、高さ二丈六尺五寸(約八メートル)にも及ぶ巨像を、運慶一門はわずか「六十九日」という短期間で完成させたことになっている。それを可能にしたのが、慶派が開発した「賽割り法」という革新的な新技法だった。  松久父子は古い文献をあさり、数百年の埃に埋もれていた技法を掘り起こす努力を積み重ねた結果、ようやく賽割り法の全貌を把握することができた。それは実に合理的な手法だった。�賽割り�の名の通り、まず賽の目のように線を引いた厚板を何枚も膠《にかわ》で貼り合わせ、これを材として五分の一の雛型(原型)を彫り上げる。この原型は、それぞれが賽の目に寸法を書き込んである十枚の板を膠で貼り合わせた�合板材�だから、次に、彫り上がった原型を釜ゆでにすると、膠がとけて合わせた板が元の十枚に分解されてしまう。そして、それぞれの板に残された賽の目を測定し、それを何倍かに引き伸ばすと、大きな仁王像の各部分の実寸がきっちり割り出されていく。これを基に、今度は本彫りの用材に図面を引いていけば、寸分の狂いもなく、何倍にも拡大していけば、どんな巨大な丈六仏でも仁王像でも、比較的短時間で完成させられるという仕組だった。大勢の仏師が分業で仕事にあたれるから、驚くほど短い時間でも仕上げることが可能になるのである。 「やっぱり運慶さんというのは天才やなあ。こんなとてつもない工法を編み出すなんて、他の仏師にはでけへんで。これは革命的な技法やで。ウーン、えらいこっちゃ」  賽割り法の原理を会得した松久は興奮を押さえ切れず、唸り放しだった。武雄は、次から次へと巨大な仏像を彫り上げて、歴史に名前を残した運慶一門の制作の秘密を垣間見た思いがした。 「仁王さんを彫ったのは決して一人の力やない、やっぱり一門の大勢の力が結集して初めてできたことがようわかったわ。阿形は快慶、吽形は運慶と歴史で教わったから、みんなこの二人がこつこつと彫ったもんと思おてるけど、やっぱり仏所の力やなあ。仏所工房があったからこそできた仕事やな」  武雄は、父がこれまで一人でこつこつとノミをふるっても、たいした仏像を彫れなかった無力さを知っている。後世に名前を残すような仕事をするためには、やはり仏師としての力が必要だ、と運慶一門の仏像を見て教えられた気がした。仏師の力とは、たとえばこの東大寺南大門の仁王像を依頼した重源上人、つまり大きな権力を持った施主、スポンサーと互角に渡りあえる政治力、交渉能力も必要となってくるし、依頼されたら、たとえどんなに巨大な仏像であろうと、それをたちどころに制作する能力を持った仏師集団を抱えていなければならない。むろん、彫る以上は、衆生が自然に合掌し、拝みたくなるような信仰の対象となる仏像を立派につくり上げることができる仏師としての能力が要求されることはいうまでもなかった。武雄ものちに大仏師となり、「現代の大仏所」を組織する仏像起業家的な能力を発揮することになるが、その大本《おおもと》は、運慶一門の仕事ぶりを研究し、それに啓発されたからであった。  松久父子は、同じ仁王像でも、塑像の法隆寺の金剛力士像よりもやはり木彫の運慶一門の手になる東大寺の仁王像のほうに惹かれた。南大門の向かって右(東)に立つのが吽形、左(西)に立つのが阿形、ともに激しい忿怒の形相で、前に立つものを睨みつけているが、しかし、専門家の目から見ると、阿形と吽形には、各部にさまざまな差異を認めることができた。  たとえば、忿怒の形相にしても、快慶がつくった阿形は、ハアーッと胸中の息を吐き尽くして�虚�となった姿を表現しているが、眉間《みけん》から額に浮き出た血管といい、鼻の下に反っている髭といい、どことなく怒りの表現がわかりやすい。対して、運慶の吽形は、ウウーッと息を胸中一杯に吸い込んだ�実�の姿で、眉間の血管は阿形よりも激しく額に浮き出し、カーッと見ひらいた両眼、巨大な鼻、そして、への字にぎゅうっと力強く結んだ口など、すべてにわたって力が凝縮し、立体的な筋肉の隆起が凄まじい怒りとなって爆発している。一対の像でありながら、その実、さまざまな差異がみられるのは、運慶と快慶の個性の違いが、自らの仏像にもにじみ出ているからであった。 「運慶さんが彫りまいらせた仁王さんと快慶が彫った仁王さんを比べてみい。運慶さんのは量感が豊かで男性的や。これが仁王さんという忿怒の顔や。しかも、鎌倉時代という武将たちが新しい時代をひらいた精神的に強いものが感じられるわな」  と松久は、武雄に得意の持論を展開した。 「仏像というもんは、仏師の考えてはることや時代の風というか息吹きというもんが、自然にお顔にあらわれてくるもんや。そのために仏師は精進する。見てみい、運慶さんの仁王さんは、ノミのあとがよう残ってる。これは削っては加え、加えては削ったノミの痕跡で、完成へのあくなき執念を示したもんやで。最後まで気イ抜かず、自分が納得するまで彫りまいらせた証拠や。仏師はこうでなきゃあかん」  事実、吽形には何回も手を加えたあとが今も歴然として残っている。仁王像は仏法の守護神であり、大仏殿を守っているが、単なる寺の門番ではない。 「門を一歩入ったら、そこは絶対の世界、真如の世界や。この世は虚と実、表と裏、光と陰、明と暗、なんぼでもあるがな、つまり相対の世界や。わたしらが生きている俗世は、善もあれば悪もはびこる、富めるものあればわたしらのような貧乏人もおる。それぞれが、それぞれの立場に固執して、クソ味噌に相手を罵り合っているのが、この世の悲しい姿やな。これを救うてくれるのが絶対の世界、真如の世界やから、時の門を入るときは、そうした俗世の相対二元論を捨てなあかん。そんな相対論は罷《まか》り通らんぞ、とダメ押しされているのが仁王さんや。山門をくぐる人に、ここから一歩足を踏み入れたら、俗世の二元論をかなぐり捨てる覚悟がいるぞ、ときめつけているのが仁王さんなんやで。だから、あんな恐い形相で睨みつけておる。運慶さんはようそのことを知っておったんやな。そのために完璧な仁王さんを彫ろうとして、最後まで手エを抜くことがなかったんや」  東大寺の仁王像は、最初にできあがったとき、あまりに大きすぎて、視線がはるか上のほうを見ていたといわれる。それに気がついた運慶は、すぐに吽形の顔の部分を鎖骨のところから切り取り、楔《くさび》形に切り込みを入れて前かがみにした。さらに上まぶたに木片を足して、瞳を下に向けるようにした。顔全体の構造を思いきって変え、現在残っているように、顔がうつむき、大仏殿のほうをチラリと見る格好にしたのである。  さらに、手首や腕の角度も変えて、乳首を外側に移すなど、かなりの手を加えている。これは先に述べたように、今回の解体修理でも正確に裏づけられている。これほどまでに仁王像を継ぎはぎだらけにする造仏作業は他にあまり例を見ない。それは慶派一門の総帥として、絶対的な権力を持ち、なおかつ仏師としてあくなき仁王像の在るべき姿を彫ろうとした運慶の執念の結果でもあった。  それにたいして、快慶作の阿形のほうは、ノミの痕跡も少なく、木材の角の彫り込みも少ない。視線の処理の仕方も、運慶とは違って、最初から顎を引きぎみにして、顔全体がうつむいたように見せている。初めからイメージをはっきりと計算し、綿密な計画のもとにつくっていることがわかる。武雄は、運慶びいきの父とは反対に、快慶に天才的な仏師の凄さを感じた。 「ぼくは快慶のほうが好きやな。この仏師さんは無駄がないわ。最初から計算した通りにきちっとつくらはって、それがものの見事に完成している。これは凄いことと違うやろか」 「むろん快慶もいい。けど、運慶さんあっての快慶や。どっちのほうが人間の心に荒々しく迫ってくるかというたら、やっぱり運慶さんにかなわんわ。写実的な肉体の表現の見事さもさることながら、高い精神性と強い意志の力の凄さはどうや。快慶は親しみやすくはあるが、ちょっと絵画的な平板さがあって優美すぎるわな」  父と子の感性はまるで違っていた。父は荒々しくも男性的な運慶の仏師魂に傾倒し、子は快慶に天才を見た。快慶は運慶より少し年長の仏師だったようだが、約三十体の仏像を今に残している。浄土信仰に深く帰依していたことから、その仏像は「安阿弥陀仏」ともいわれ、東大寺の阿形の胎内にもそう名前が残されている。東大寺僧形八幡神像も、快慶が五十歳ごろの作品と伝えられているが、全体に不思議な生々しさが漂っていて、袈裟の彩色なども生身の人間を感じさせずにはおかない。快慶の作風は、松久があまり好まなかったように、運慶に比べれば、どちらかというと非常に技巧的で装飾的だった。奈良の西方院に伝わる阿弥陀如来立像なども「快慶様式」といっていい、独得の洗練された気品と香気が漂っている。その作風が、武雄にはかえって好もしく思われた。仁王像に憧れてきた父と、観音像を彫ってきた子の違いが、東大寺の阿吽の仁王像、運慶と快慶という二大仏師の評価でも微妙に異なっていたのであった。そうした仏師としての差が、やがて父子の決定的な葛藤となって爆発する。その悲劇の芽はすでにこの時代に大きく対立因子となって芽ばえていた。 「賽割り法」のめどがついたところで、松久父子はいよいよ出石寺の仁王像一対の制作に取りかかった。なにしろ身の丈八尺の巨像だから、仁王門通りの自宅の狭い仕事場ではとても彫れない。高橋仏具店の倉庫の二階を借りて工房とした。雛型の原型つくりもスムーズにいった。伝えられた通りの段取りで実行に踏み切ると、この工法が現代の科学的な視点からみても、いかに合理的な工法であるかが、ますます驚嘆させられた。 「これは近代技術の粋を集めて、船をつくるのと一緒や」  と、松久は感心した。  造船の工程でも、まず船体の模型をつくり、試験水槽の中を走らせる。そして理想的な目的にかなった船体を決めて、何十分の一かの設計図に写し、これを現寸通りに拡大して描いた船体線図によって木型を制作する。原図の作成には現在ではコンピュータを使うが、原理は賽の目と同じではないやろか。そして、木型に合わせ、今度は本格的に鋼材を合わせて曲げたり切ったりして、溶接でつなぎ合わせて完成する。松久は、鎌倉時代に運慶らが編み出した工法が、現代でも十分に通用する画期的な技法であることを改めて実感した。 「あとは心がまえや。技術はようわかった。あとはわたしらが運慶さんらに負けん仏心を持ってるかどうかや。それには仁王像の何たるかをよう知らねばならん。知るだけではあかん。昭和の仁王さんをつくるという気迫が大切なんやで」  松久はそれこそ心血を注いで、仁王像つくりに没頭した。彼の心の中にはいつも「昭和の仏師」として生きたい、という誇りがあった。それは彼の魂の拠り所でもあった。仁王像のルーツは古代インドに発するといわれ、紀元前後につくられたとみられるサーンチー大塔の門柱にはヤクシャ(薬叉)が守門神としてあらわされている。古代インドの民俗神が、仏教の世界に守護神として取り入れられ、それが中国に伝わり、たとえば、中国、竜門石窟奉先寺の力士像など約八メートルもある仁王像がつくられた。さらに朝鮮でも慶州石仏寺に金剛力士像が八世紀につくられ、いまも国宝として、統一新羅時代の石造彫刻の傑作として安置されている。  そして日本でも仏教が六世紀に伝来したあと、七世紀ごろから仁王像がつくられるようになり、鎌倉時代の運慶一門のときに木彫仁王像のピークを迎えた。松久は同じ木彫の仏師として、鎌倉以降しだいに衰退した仁王像の復活に昭和仏師の生涯を賭けていた。  松久の意気込みは、次の言葉に端的にあらわれていた。 〈わたしら仏師は、古来よりの仏像のお姿を守った上で、現在も彫造いたしております。けど、ただただ昔ながらの形を彫っているだけでは、果たして仏師としての役目を全うしていることになるのか、疑問に思うことがございます。昭和に生きている限り、今現在の仏像があってもええのやないか、と思えるのです。若い頃からそうでしたが、近頃のわたしの彫るものは、従来の型どおりの仏像でもなく、工芸のような仏像でもない、そんな姿の仏像が多くなってきたようでございます。創造仏とでも申しますか、わたし自身のこころの向くままに彫っております。……いいものを彫ってやろう、とか、人がびっくりするような奇抜な形を、と思っては、ロクなものは出来ません。その人自身の生きざまが結局出てしまうのが仏像であり、他の創作物と言えるでしょう。それだけに、人びとの礼拝の対象である仏像を彫る仏師は、日々のこころがまえが大切と申せます〉  これまで貧乏のどん底で彫ってきた仏像は、銭の欲しそうな仏さんの顔になっている、と自分で情けなく思うことがしばしばあった。事実、その通りの極貧生活だったが、いまは同じ貧乏暮らしとはいえ、悲願として仁王像を彫るチャンスに恵まれて、松久の心は何かがふっ切れていた。明澄な精神と斎戒沐浴《さいかいもくよく》した肉体の清浄さを持って、松久は仁王像に全智全能を傾けていた。高橋仏具店の工房で、一対の仁王像が、松久父子のノミの一ふりごとに、しだいにその全貌をあらわしつつあった。材木は第一級の尾州ヒノキ八石を要した。  仁王像の目安がつくと、今度は愛媛の出石寺に赴いた。そこでは仁王像が足を踏んばる台座を彫った。台座はものすごく固いクスノキ材で、一木で岩の形を彫り上げるのに十五日間かかった。出石寺が建つ山中は、年中しっとりと霧雨がたちこめている世界だった。したがって湿気が多い。普通の塗料ではもたないので、京都府の工芸研究所と相談して、ビニール塗料を用いた。これも昭和の仁王像をつくろうとする意欲から出た初めての試みだった。 「京|童《わらべ》も驚く——仁王さん街頭へ」  いよいよ高橋仏具店から仁王像を運び出すとき、新聞が写真入りでこう書きたてたほど、京都は大騒ぎだった。一対の巨大な仁王像は、担架のようなものに寝かせ、十人がかりでヨイショ、ヨイショと担いで、貨車に運び込んだ。現地に着いてからがまた一騒動で、村の青年団の若者たちが四、五十人も動員され、一里の山道をお神輿のように出石寺まで担ぎ上げていった。  昭和二十六年四月二十七日。落慶式はあいにくの雨模様だったが、三百人を超す人々が参集して、「昭和の仁王像」の見事さに思わず息をのんだ。 「ようできたのう。立派にできたのう」  住職の神山老師が、松久の手を固く握りしめて労をねぎらった。松久は感涙にむせんでいた。生涯の悲願が達成できた瞬間だった。愛媛の名刹、出石寺の山門に、忿怒の形相も凄まじく、台座にがっしりと足を踏んばった金剛力士、密迹力士が、「真如の世界」の守護神として、その堂々とした姿をあらわしていた。このとき松久は五十歳、武雄は二十五歳だった。 「松久がとうとう仁王をやりよった」  という評判は、たちまち広まり、喧伝されていった。出石寺の仁王像を彫り上げたということが、松久の後半生を大きく左右することになり、やがて霊山観音の仁王像、そして大阪・四天王寺中門の仁王像へとつながっていく。そして、運慶ら一門の編み出した「賽割り法」の技法は、こうして松久父子によって数百年ぶりに現代に甦り、現代にも立派に通用する伝統技法として、これから先も松久父子の造仏工法の大きな支えとなっていくのである。そこに日本の仏像彫刻の伝統が、時空を超えて凝結していた。   2 朋琳と宗琳  松久父子が、大阪・四天王寺と初めて仏縁ができたのは、昭和三十一年、亀井堂の地蔵菩薩の復興に協力してからだった。亀井堂は四天王寺の東大門寄りにあり、昔から�亀井水�と呼ぶ地下水が豊かに湧き出て、どんな炎天、旱魃《かんばつ》のときにも絶えたことがない慈水として有名で、ここのお地蔵さんに水卒塔婆《みずそとうば》を供えるため、春秋の彼岸には何十万人という人々が参詣することで知られていた。参道の両側には卒塔婆売りの店がズラリと並ぶほどで、戦後、四天王寺の再建が一番先になされたのも、この亀井堂だったくらいである。  その地蔵菩薩を彫って欲しい、と話を持ち込んできたのは、徳風会の会長で墓相学の大家、川舟喜太郎だった。川舟は、四天王寺の復興に大きく貢献した人物である。川舟が松久にいった。 「ここのお地蔵さんくらい霊験あらたかで、仰山な人に拝まれる仏さんはない。松久さん、ここのお地蔵さんを彫れば、あんたも功徳になりまっせ」 「ほなら、仏師冥利に尽きますな。誠心誠意を込めて彫らせてもらいますわ」  出口常順管長の希望は、東大寺の快慶作の地蔵だった。東大寺公慶堂の地蔵菩薩立像は、高さ三尺(正確には八十九・八センチ)の彩色木造で、右の足|臍《ほぞ》に「巧匠法橋快慶」の銘がある。快慶は運慶と異なって、自作の仏像の足臍などに自分の名前と制作年代などを記しているので、もっとも後世に明確な記録を残した仏師だったが、そのサインなどから「巧匠安阿弥陀仏」「巧匠法橋」「巧匠法眼」の三つの時代に分けることができる。快慶は、運慶がもらった最高位の「法印」に登ることなく没したが、地蔵菩薩は銘からもわかるように、法橋位にあった元久・承元頃(一二〇四〜一〇)の制作である。  白雲中の白蓮華座に立つ姿は、まことに流麗で、優しい卵形の顔だち、均整のとれた体躯にゆったりした着衣と衣文《えもん》。ことに截金《きりかね》文様は繊細優美で、これはのちに截金にも独得の才能を開花させる武雄にとっては垂涎《すいぜん》の名作ともいえる見事さだった。顔の表情も端正で気品があり、快慶の代表作の一つだった。この像は奈良国立博物館に保管されていたので、松久は博物館に出かけ、陳列ケースから出してもらって写生した。そして、つくり上げた亀井堂の地蔵菩薩は、快慶作よりも少し大きい四尺の仏像だった。  これが縁で、この年は四天王寺の五重塔に安置する四菩薩と、天王寺学園の校門の観音像も手がけた。この観音像はブロンズだが、松久が制作した原型はいうまでもなく木彫で、奈良、薬師寺東院堂の聖観音をモデルにしてつくった。四天王寺は、社会福祉事業として、病院、悲田院ほか各種施設を経営し、学校教育も行なっているが、天王寺学園は女子学校である。薬師寺東院堂の聖観音は恰好のモデルだった。  薬師寺は、天武天皇が即位九年(六八〇)に皇后(のちの持統天皇)の病気平癒のために発願し、遺志をついだ持統天皇が藤原京に完成させたもので、平城京遷都に際し養老二年(七一八)に現在の奈良市西ノ京に移った。金堂の本尊、薬師如来と脇侍の日光・月光両菩薩の薬師三尊像は古代仏像中の傑作としてあまりにも有名である。薬師三尊と並んで、国宝中の国宝とされているのが東院堂の本尊、聖観音菩薩で、白鳳時代の白眉と称えられている。  聖観音は高さ百八十八・五センチのブロンズで、柔和で微笑をたたえた顔はあくまでも凜々しく、昔から有馬皇子をモデルにしたとか、大津皇子をモデルにしているとか、さまざまに伝えられてきた。そのような謎めいた物語を想像せずにはいられなくなるような雰囲気を持っていることは確かで、若い女性の間には「理想の青年像」として人気が高かった。  文学作品にも描かれ、たとえば、亀井勝一郎は『大和古寺風物誌』の中で、聖観音の手の美しさを「花ビラのような美しさ」と表現しているほどだ。和辻哲郎は、「恐らく世界に比類のない偉大な観音」と形容し、聖観音を「幾度見てもこの像は新しい」と名著『古寺巡礼』の中で、その魅力をこう描写している。 〈わたくしたちは無言のあいだあいだに詠嘆の言葉を投げ合った。それは意味深い言葉のようでもあり、また空虚な言葉のようでもあった。最初の緊張がゆるむと、わたくしは寺僧が看経《かんきん》するらしい台の上に坐して、またつくづくと仰ぎ見た。美しい荘厳な顔である。力強い雄大な肢体である。仏教美術の偉大性がここにあらわにされている。底知れぬ深味を感じさせるような何ともいえない古銅の色。その銅のつややかな肌がふっくらと盛りあがっているあの気高い胸。堂々たる左右の手。衣文につつまれた清らかな下肢。それらはまさしく人の姿に人間以上の威厳を表現したものである。しかもそれは、人体の写実としても、一点の非の打ちどころがない〉  薬師寺の本尊、薬師如来は「東方浄瑠璃浄土」(阿弥陀如来は西方極楽浄土)の仏として知られているが、和辻たちが感嘆の声をもらしているとき、赤い弱々しい夕日の光が厨子の中まで忍び込んできた。その光の反射で聖観音は、ほのかな赤味を全身にみなぎらせ、ちょうど西方浄土の空想を刺激する夕陽が、いかにも似つかわしい場所で和辻たちをさらに深い感動に誘ったのだった。  松久父子もまた、聖観音を写生するために東院堂に出かけた。それは底冷えのする二月のことだったが、二人は正面から、横からと自在に動き回って、さまざまな角度から写生しては、「ええお顔やなあ」と、何回となくその顔を仰ぎ見た。いつか寒さなどは忘れ、むしろ汗ばむほどに緊張していた。松久は仏心を刺激されて、天王寺学園の「慈母観音」をつくり、さらに同じ原型から数体のブロンズをつくった。武雄ものちに昭和四十八年明星観音像という一代の名作を彫ることになるが、東院堂の聖観音から受けた感動ははかり知れないほど深いものがあった。この頃から松久父子の制作意欲は、ますます強くなっていったが、それは家庭環境の変化と無関係ではないだろう。東院堂に出かけたとき、すでに武雄は結婚して長女が生まれ、松久は孫娘を持つ身になっていた。  武雄が結婚したのはこれより三年前の昭和二十八年。名古屋出身の旧姓山口|芳子《よしこ》と前年の十一月に見合いをし、この年の二月十四日、二十七歳の誕生日に結婚式を挙げた。芳子は同じ大正十五年十月十五日生まれだから、武雄より八ヵ月ほど年下ということになる。  芳子の父|六治《ろくじ》は、もともとは学者の出で、伯父は、一条戻橋の西北、上京の晴明町にある晴明神社の宮司をしていた。この神社は、平安時代の天文|陰陽《おんみよう》博士、安倍晴明を祀る社で、神紋は晴明|桔梗《ききよう》印といって、陰陽道で用いる呪符の一つだ、という。芳子も若いころ、「尼さんになりたかった」と話しているから、宗教的な雰囲気とは無縁ではなかったのだろう。山口家そのものは門徒、すなわち浄土真宗の信者だった。  松久は、よく飲みに通う縄のれんのお女将に、 「どこぞに息子の嫁さんにきてくれるようないい娘さんはおらんかいな」  と、武雄のことを話していた。自分の貧しさから、息子を脊椎カリエスにさせ、片足をきかなくしてしまったという負い目を持っていた松久は、息子の結婚を案じていた。 「ちょうどいい娘さんがいるから、お見合いさせたらどう」  お女将に心あたりがあった。友だちの姪で、それが芳子だった。見合いはとんとん拍子にまとまり、三ヵ月後に仁王門通り、新丸太町の借家の二階で、形ばかりの結婚式を挙げた。金もないので、新婚旅行といっても大津へ一泊だけという質素なものだった。こうして新婚生活が始まった。新丸太町の借家は、二階に新婚夫婦が生活することになった。そして結婚した年の翌年、昭和二十九年一月八日に長女マヤが誕生した。三十五年九月十四日には次女|由佳《ゆか》が生まれることになる。息子が結婚しても、松久は家計を自分でやり、相変わらず貧乏生活に変わりはなかった。芳子は、仏師の家庭に嫁いでとまどうことばかりだった。  長男の武雄の結婚のあと、四年たった三十二年に�独立�したのは次男の鼎だった。というより、貧しさから脱出するため養子に入ったというほうが正確かもしれない。福井から京都に戻ってきた鼎は、自分も仏師への道を歩もうか、と進路を決めかねていた。しかし、父は、次男も仏師になることは反対した。 「仏師を四十数年やってきたかて、この通りの貧乏暮らしや。仏師は武雄が跡を継げば十分や。おまえは別の仕事を探せ」 「そうゆうたかて、水産学校出ても船に乗らん男にまともな仕事なんてないわ」 「あかん、仏師は二人で間に合ってるわ。堅い仕事を見つけんとあかん」  貧乏が骨身に沁みている父は、次男まで貧乏の巻き添えにしたくなかった。たまたま松久のもとに出入りしている大阪府警の深田秀石という警察官がいた。鼎が仕事を探しあぐねていると知って、深田が勧めた。 「じゃ、警察の試験を受けてみたらどうどすか」 「それがええわ。警察に入っても仏像彫りはできる。まず堅い仕事を探すこっちゃ」  松久も乗り気になり、鼎は昭和二十六年十月に警察学校の第十六期生に合格した。同期に、のちに昭和三十三年、妹の真百美が結婚する堀内隆太郎がいた。鼎は平成二年に亀岡警察署長で定年退職するまで、その後警察一筋の人生を送ることになるが、警察に入って六年目の三十二年、今宿《いまじゆく》家に養子に入った。どうせこのままでは結婚しても家がない、それなら家つきの今宿家に望まれるまま養子に入ったほうがいい、と思ったのだ。今宿の養父は元税務署職員で子供がいなかった。大分県出身で、観光バスのガイドをしていた小柳|聖子《きよこ》も、今宿家の養女として入ってきた。養子と養女が、今宿家を継ぐ形で、自然に結婚に結びついた。聖子は鼎より二つ年下の昭和八年九月生まれだった。鼎と聖子の間にも、昭和三十六年に長女|裕子《ゆうこ》、三十九年に次女|美香《みか》が恵まれることになる。残る次女の喜佐子は、京都薬科大の学生と恋愛結婚し、下関に嫁いでいく。  松久は妻を亡くし、長女の愛子を結核で死なせてからというもの、喜佐子と真百美の二人を溺愛し、猫可愛がりしていた。真百美がどんなに文句をいっても、「ほう、うぐいすが鳴いてるわ」と相手にせず、喜佐子がきて妹の味方をすれば、「うぐいすが二羽さえずっているわ」といって、決して怒ることはなかった。  松久がこのころ、酒が入るとよく口ずさむ歌があった。武雄には、父がその歌をどこで憶えたか、わかっていた。出石寺の仁王像を彫ったあと、松久は仏像修理の旅に出たことがあった。武雄が結婚した翌年、昭和二十九年には尾張一宮市にある地蔵寺の仁王像の大修理に武雄と出かけ、二十日ほど滞在したことがあった。仁王像は鎌倉時代のもので、慶派の仏師の手になる仏像だったが、腕は折れている、足は虫食いだらけという惨憺たる状態だった。松久は、虫食いの部分は尿素や漆などで塗りつぶし、全身に麻布を貼ってフォルマリン入りの胡粉で下塗りをするという、手のこんだ修理で復元させた。仕上げは武雄が鎌倉仏らしい彩色を施すと、あの虫食いの仏像が、とびっくりするほど、立派になって鎌倉仏が甦って、住職や信者たちに感謝された。  松久父子は昭和五十年には、房総の安房小湊にある日蓮上人の誕生寺の仁王像を修復している。ここの仁王像は、上総国上野(今の勝浦市)の大仏師・松崎右京がつくったものだったが、やはり風雪のために崩れていたのを、ものの見事に復元させた。こうした仏像修理の旅は�関東仏�を見て歩くという意味でも、いい勉強になった。  尾張一宮市の仏像修理もその一つだったが、二十日あまりも逗留していると、夜はつい一杯飲み屋に出る羽目になる。松久は、店の名も「思い出」という名の縄のれんに入った。思わず目を疑った。そこで働く女たちの中に、死んだ愛子と瓜二つの娘がいたからだった。それからというもの、松久は毎晩、その縄のれんに通うようになった。女たちが流行歌《はやりうた》を歌う。愛子によく似た娘が歌う曲が、なぜか松久の胸に沁みた。愛子は「お父ちゃん、歌を唄おたげる」といって、歌を唄いながらスーッと眠るように死んでいった。いまもそのときのことを思い出すと、松久の目に涙がにじむ。娘の歌う曲も悲しかった。  松久はその歌を教えてもらった。それ以来、酒が入ると、決まってその歌を口ずさんだ。松久が呟くように歌うと、独得の哀調がある節回しで、聞く人たちも思わずホロリとして聞きほれた。真百美などは父の歌を聞くたびに泣いてしまうのだった。 「ほんま、愛子によう似た娘さんやった」  松久は二十二歳の若さで死んだ愛娘の追憶の中にいつも生きていた。妻の婦美も愛子も、あるいは母の琴江、養父母、それに伯母の春、みんな薄幸のうちに死んでいった。あの世は極楽というけど、みんな成仏しているやろか、松久はいつも祈りながら、一刀三礼、仏像を丹精込めて彫るしかなかった。  武雄はこのころ、仏師として大きく飛躍する転機を迎えていた。あるとき、知り合いの易断家に姓名判断をしてもらうと、改名したほうがいい、といわれ、相手が五つくらいの名前をさらさらと書いた。その中に「宗琳」という名前があった。武雄はそれが気に入った。 「お父ちゃん、おれ、宗琳という名前に変えるわ」  と武雄が話すと、父も、あとの名前の中から「朋琳」という雅号を手にして、おれも変えようかな、といった。 「どうも鳳雲という名前はこれまで一つもええことがなかった。朋琳か、なかなかええ名前やないか。おれも朋琳にするわ」  これより先、父は朋琳、息子は宗琳、と名のるようになった。不思議なことに改名すると今度は霊山観音から仁王像の注文が舞い込んできた。もちろん出石寺の仁王像をつくったことが評判になり、仏師としての腕を見込まれての依頼だったが、あれほど悲願にしていた仁王像彫りがまたできることに、松久父子は目に見えない仏の慈悲の深さを感じた。  霊山観音の仁王像の話が持ち込まれたのは昭和三十五年のことで、出石寺の仁王像をつくったときから、かれこれ十年の歳月が流れていた。霊山観音は、前にも述べたように、観光事業で財を成した実業家が、東山の高台寺の南隣に、戦没者の慰霊のために建立したもので、高さ八十尺(約二十四メートル)のコンクリート製の巨大な観音坐像が観光名所となっている。その門に仁王像を飾りたいというのが施主の希望だったが、観音像そのものは京都の人たちに必ずしも評判が良くなかった。それで朋琳が施主に、ちょっぴり皮肉をいった。 「東山のどてっ腹にあんなクソでかい観音さんを立てはるとは、京の文化人はえらいむくれたんどっせ。そのあなたに仁王を頼まれるとは思いもよりまへなんだなあ」 「ウァッ、ハ、ハ、ハ。先生にあったらかないません。そんなら一つ、立派な仁王さんをつくっておくれやす」 「彫るからには、これまでわたしが積み重ねてきた思索と技法のかぎりを尽くしてやらしてもらいますわ」  朋琳は「今度こそ、わしの仁王さんを彫ってやるぞ」という意気に燃えていた。出石寺の仁王像から十年、絶対の真如の世界を求める朋琳の思いはさらに深まっていた。仏師としての声望もあがってきた。このごろでは息子の宗琳の他に、三人の内弟子もできて、工房の形をなしつつあった。内弟子の一人は、「定朝会」からの仏師仲間、江里宗平の息子、康則であり、あとの二人は出口翠豊、今村宗円といった。  藤本陽二が松久の内弟子第一号とするなら、戦後の内弟子第一号となったのは、出口翠豊である。出口は本名、小畑雅章といい、昭和十七年三月、秋田県|大館《おおだて》市の家具などの塗師の家に生まれた。大館第一中学校を卒業後、地元の宮大工のもとで二年修業したあと、仏師になるべく京都に出て、三十四年に松久の門を叩いた。仁王門通り、新丸太町の松久の仕事場を初めて訪ねたとき、出口は、仏師というからさぞ雅《みや》びな生活をしているものと想像していたが、あまりの貧乏暮らしに度肝を抜かれた。一月の寒い日だったが、火の気もないようなところで、ボロボロの仕事着をまとった松久がノミをふるっていた。仕事場には、彫った仏像が四、五体、無造作に置かれていた。四十センチほどの毘沙門天もあった。出口はそれを見て、何か鬼気迫るような仏師の気迫を感じた。 (これが人間|技《わざ》だろうか。凄い。おれにこんな仏像が彫れるような日がくるのだろうか)  内弟子を志願する田舎出の若い男に、松久がニコリともせずにいった。 「仏師なんてこの通りの貧乏や。金儲けしたいんなら、やめとけ」 「いえ、どうしても仏師になりたいんです」  断わられたら大変、と必死になって頭を床にすりつける出口に、松久はいった。 「よかろう。その代わり、二年間は一切を捨てて修業することや。自分であかんと思うたら、いつでも辞めてもらってええ」  それは一日一日が勝負や、気を抜いたらあかん、という厳しい宣告だった。出口は、玄関脇の部屋に住み込むことになった。松久家は、武雄夫婦に長女のマヤが生まれており、五人家族となった。それから約一年、江里康則と今村宗円も弟子入りしてきたが、師匠がいつも説くのは慈悲の心だった。 「ここへ入ってきたら、生存競争の世の中を忘れて、仏の世界に入った気持ちでやることや。人を蹴落として、自分だけ上手になろう、などと思ったらあかん。そんなことをしたかて、わたしはちっとも褒めまへん。み仏をつくらせてもらうというその精進の心が大切や。仏に喜ばれる、そういう仏像が彫れたら、それでよろしい。上手、下手の問題やない」  霊山観音の仁王像は、朋琳が阿形を、宗琳が吽形をつくることになり、やはり「賽割り法」で制作に入った。出口、江里、今村の内弟子たちは、師の指示のもとに分業する。出石寺の経験がある上、人数も多いので、仕事も早い。運慶一門の小型現代版の形で、仁王像が忿怒の形相をあらわしてきた。朋琳は運慶のように、彫っては削り、完璧な仁王像を追求して執念を込めてノミをふるう。宗琳は快慶のように、あらかじめきちっと計算し、最初のイメージ通りに刻んでいく。こうして一対の仁王像が父子によってつくられた。この仁王像は今も、霊山観音の入口の門に立ち、カーッと見ひらいた眼と忿怒の表情であたりを睥睨している。  松久朋琳が「大仏師」と崇《あが》められるようになる一世一代の傑作、大阪・四天王寺の仁王像をつくる話がもたらされたのは、この霊山観音の仁王像の完成直前だった。数々の悲運と不遇の半生を一挙に流し去って、これまで仏像一筋に一刀三礼のノミをふるってきた松久に仏の慈悲が与えた至上の天運だった。松久は感泣し、聖徳太子の建立した日本最古の大寺に安置されることになる仁王像の仕事が見事に達成できるよう、「大願成就」を祈った。そして、父の仕事を陰に陽に支えて、「現代の仏所」をつくるべく、九條山に工房を設けるために奔走したのが、いうまでもなく息子の宗琳であった。  宗琳はかねてから仏具屋の下請けのような形でしか仕事ができない仏師のあり方に疑問を抱いていた。それは、仏師はよけいなことを考えんで、ただ仏さんを彫っていればいいんや、という父の生き方に対する批判といってもよかった。仏具屋の下請けであるかぎり、どんなに立派な仕事をしても、儲けは仏具屋に吸い取られ、仏師は貧乏からいつまでたっても抜け出せない。父がそのいい例や。これを脱却し、施主の意が充分に仏師に伝わるようにするためには、仏具屋を通さずに施主と直接に結びつくように、流通機構を改革する必要がある、というのが宗琳の考え方だった。  父たちがつくった「定朝会」は、昭和十七年に「京都仏像作家連盟」と衣更えし、さらに戦後の二十四年に「京都伝統彫刻家協会」と名を改めている。仏師と一口にいっても、「飾り仏師」「塗り仏師」「絵仏師」などに分かれており、松久父子のように仏像を彫る仏師は年々少なくなって、数えるほどしかいなくなっていた。三十二年は定朝九百年忌にあたっており、大法要が営まれたが、仏師は十五、六人にすぎない。五十代は松久朋琳、佐川定慶ら五、六人、四十代が江里宗平ら四、五人、あとは三十代前半が宗琳たち二人というぐあいで、その下に出口らの若い弟子が何人かいる。それに比べて、京都市内だけでも大小とりまぜて、百四、五十軒の仏具屋があり、そのうち全国に仏像や仏具・梵鐘などを卸す問屋が四、五軒あった。いい換えれば、仏像などの注文は仏具屋を仲立ちにして仏師が彫るため、施主と仏師が齟齬《そご》をきたすことが多かった。  これでは本末転倒やないやろか、と宗琳は思った。若い宗琳は父と違って、戦略的な行動家であった。そのため、保守的な色あいが強い長老たちから「才気走った若僧」とか、「アプレ仏師」といわれたこともあった。宗琳はひるまなかった。友人の若い仏師、荒木|啓運《けいうん》に、自分の信念をこうぶちまけた。 「このままでは、いつまでたっても仏師はうだつがあがらん。協会のお偉ら方は仏具屋の下請けで満足しとるけど、ぼくは業界を改革するつもりや。協会を脱退して、若手で旗揚げしよう。君も一緒にやらんか」 「そんなことをしたら、干されてしまうぞ」 「それが連中の脅し文句や。しかし、ぼくらに力があって、いい仏さんをつくったら、連中かてぼくらの存在を認めん訳にはいかんやろ」 「そうはいってもなあ……」  啓運は慎重だった。宗琳はもう引き返せなかった。 「ぼくは一匹狼になってもやるつもりや」  結局、宗琳と啓運は袂を分かった。宗琳は父の朋琳にも説いた。 「仏師が全盛だった運慶の時代と今はどこが違うか、おれ、考えてみたんや。機動力だっていまのほうがある。電気もあるし、電動工具だってある。写真の技術も進んでいるから仏像だって寸分違わずにつくることができる。けど、一つだけ違うのは、運慶一門は工房を持って、全員が力を合わせて仏像をつくったが、いまは工房がないということや。仏像をつくる心構え、精神面はともかくとして、仏師仲間が合宿して力を合わせないから、運慶一門にかなわんのやないやろか。だから、おれたちも砦《とりで》をつくる必要があると思う」 「そうやな。運慶さんらに負けんような仏所がでけたら一番ええ」  朋琳も息子の考えに賛成した。しかし、いざ京都伝統彫刻家協会を脱退する段になって、協会側はいまでは長老格の朋琳が辞めることに危機感を抱き、猛烈に引き止めにかかった。朋琳は争いを好まなかった。 「わたしまで辞めて角が立つのは避けたほうがええ。平和でいきたい。名前だけでも残すほうがよかろう」 「そんなら、ぼくだけ脱退するわ」  宗琳は信念を貫いた。脱退して、革新運動に乗り出した以上、自分たちの「砦」を持つ必要があった。宗琳は妻の芳子に相談した。結婚したあとも、朋琳が家計を握っていた。朋琳は昔と違っていまでは少し金が入るようになっても、宵越しの金は持たない主義で、相変わらず家計は火の車だった。芳子は義父から五百円を渡され、これで三日間やってくれ、といわれることもあった。内弟子の出口を加え、五人分の三日間の食費を五百円で賄うのである。妻の苦労を見かねて、宗琳がついに父に直談判した。 「おれたちも所帯をもって五年たつ。もうそろそろ家計を芳子に任せてくれんか。そのほうがお父ちゃんも安心して、仏さんを彫れるやろ」 「それもそうやな」  芳子が家計を切り盛りするようになってから、生活に浪費がなくなり、少しは貯えもできるようになった。妻に相談した宗琳は、東山の九條山に七十二坪の土地を三年ローンの八十五万で無理して買った。そこにささやかな工房を建て、砦にするつもりだった。  土地は高台にあって、裏山は墓地になっていた。江戸時代、ここは処刑された罪人たちを葬ったところで、無縁仏もいっぱいあったが、朋琳はそこが気に入った。 「処刑された罪人たちの中には、無実の罪で斬られた人もおったやろな。そういう人たちの怨霊を慰めるために、み仏がわたしらを導いてくださったのかもしれん。仏師が仏さんを彫るにはええ場所やないか」  松久父子は、弟子の出口たちと力を合わせ、小さな家を建てた。大工に払う金がないので、日曜大工で不法建築をやり、役所から呼び出しを受けて怒られたが、それもいつか黙認となり、朋琳と弟子たちが住み込むことになった。昭和三十七年の春だった。工房の横に一本の桜の木があり、花が満開になると見事だった。朋琳が六十一歳にして初めて持った家で、ここが終《つい》の棲《す》み処《か》となる。宗琳の家族は前と同じように新丸太町の借家に住み、宗琳が毎日、工房まで通ってきた。宗琳夫婦には前年の昭和三十五年九月、次女の由佳が生まれ、四人家族になっていた。  松久父子は、九條山の工房を「京都仏像彫刻研究所」と名づけた。陣容は、松久父子と弟子の出口翠豊、今村宗円、江里康則の五人だけだったが、「現代の仏所」をつくるという大きな夢が現実のものとなってきた。しかも、仏師としては最高に名誉ある四天王寺の山門の仁王像を彫るという仕事に恵まれていた。朋琳は、この千載一遇の仕事に、それこそ寝食を忘れて弟子たちと取り組んだ。  四天王寺が聖徳太子建立の寺であることはすでに述べたが、現在の四天王寺の西門には、創建時の木造の鳥居を、永仁二年(一二九四)忍性《にんしよう》上人が勅を奉じて石造に改めた重要文化財の石の鳥居が立っており、中央の扁額に「釈迦如来転生輪所当極楽土東門中心」と記されている。そして鳥居の横に立つ「大日本仏法最初四天王寺」の石碑が、この寺の歴史の古さと由緒を示している。  四天王寺の西門は、極楽浄土の東門にあたるという説から、四天王寺は浄土信仰の霊場となり、西門信仰が起こり、鳥羽法皇が九回、後白河法皇が六回というように、皇室はじめ貴顕の天王寺詣でが相次ぎ、それが民間の天王寺詣でに広まっていった。出口常順管長は『四天王寺』の中で、西門信仰についてこう記している。 〈その頃は難波の海が上町台地の西岸に寄せており、岸辺に立って西空を眺めれば、静かな落陽が心ゆくまで拝めたのである。殊に春秋の彼岸は太陽が真東から出て真西に沈むから、夕陽が極楽の方処を指し示すと考えられていた。だから、四天王寺の彼岸会に参詣した人びとは、夕陽の沈むころ、西門を出て岸辺に立ち、口々に声高に念仏しながら西方を拝んだ。いまに伝わる夕陽丘《ゆうひがおか》の地名はその名残りである。  日没の太陽は一日の終りを告げるだけではなく、死の帰するところ、彼岸世界を暗示する。真紅に染まった太陽が静かに海の彼方の西空に沈んでいく光景を眺めれば、いかなる人も久遠寂静《くおんじやくじよう》の世界、弥陀の浄土を想わずにはいられないであろう。したがって、ここが人びとの宗教感情をそそるに最適の地であったのである。中には西方浄土にあこがれるあまり、西の岸を下りて海に入り、静かに入水往生を遂げるものもあったという〉  朋琳は、浄土信仰、西門の極楽思想に強く惹かれていく。阿吽というこの世の相対二元から、極楽という絶対一元の仏の世界へと悟入した仁王は、相対と絶対の境界に立って、善男善女、この世の救いを求める参詣者たちの迷妄を振りはらってくれる。その仁王像をつくるのだから、朋琳の覚悟はひとかたならぬものがあった。  朋琳は幼少のころから、清水寺の山門の仁王像が大好きで、よく清水坂を登って、金網ごしに背伸びして覗《のぞ》いたものだった。朋琳は、清水寺に参り、無事、大任が果たせますよう、と観世音に祈願文を奏上した。その折に、大西良慶管長に会う機会があり、いろいろと励ましの言葉をもらった。このときすでに八十五、六歳に達していた大西管長に、 「長生きの秘訣は何でございましょう」  と松久が尋ねると、この京都の宗教界、文化界の最長老が、活力の源泉を語った。 「そんなもんあらへん、しいていうなら、済んでしもたことは悔まず、現在を充足せしめて未来に賭けていることやろかな」  朋琳は、その言葉に感じ入った。自分も仏師として未来に賭けていた。未来千年まで残るような仁王像を彫りたいと祈願していた。四天王寺はこれまで何回となく、焼失しては再建されてきた。五重塔が倒壊したのは昭和九年の室戸台風のときだったが、その後、建築学の泰斗、天沼俊一博士によって再建された。その塔がまた大空襲で焼けてしまった。 「焼けてほっとしたよ」  仁王像をつくっている朋琳は、天沼博士の知遇を得たが、その天沼博士が「恥ずかしい」と連発していた。 「気になって、気になって仕方がなかったが、直すこともできんので、どうしようもなかった。それがアメリカ軍による空襲で焼けたと聞いて、本当のところほっとしましたよ」  どんなに精魂傾けて再建しても、満足するということはない、という博士の言葉を、朋琳はわが身におき換えて、満足のいく仏像が彫れるのはいつのことやろか、とこの道の遥かな遠さを思った。  いよいよ仁王像が完成して、山門に据えつける日がきた。あまりの巨大さに、組み立て作業をしていた仮金堂の入口に突っかえて、外へ出せない。昭和三十八年二月二十日、マスコミが殺到していた。仮金堂の屋根がぶち抜かれ、大林組のクレーンが巨大な仁王像を吊り上げた。そして百メートルほど離れた中門の前に下ろすことになった。何十枚もの布団をあてがった仁王像が、クレーンで吊り上げられ、ゆらりゆらりと空中を移動する。前代未聞の珍風景をテレビカメラが追った。そして、無事に移動が終了したとき、朋琳からやっと安堵の笑みがもれた。  三月の開眼《かいげん》法要の日、出口常順管長は、東大寺南大門の運慶、快慶一門の仁王像にも負けない現代仏師の快作に、深く満足気であった。朋琳がつくった四天王寺の仁王像は、東大寺の仁王像に次ぎ、日本で二番目の大きさで、身長五・三メートル、顔の長さ七十センチ、足の親指の幅だけでも十三センチもある重さ約一トンの巨像であった。  出口管長は、朋琳に「大仏師」の称号を贈って称えた。長年の悲願がかなえられた喜びに、明琳は感涙した。その後、昭和四十一年には、新潟・弘願寺の仁王像を彫り、四十五年には、関東で最大の仁王といわれる横浜・称名寺の仁王像を解体修理する。四十六年には、出石寺、霊山観音、四天王寺、弘願寺に次いで五番目の仁王像を山崎聖天に奉納。松久朋琳は「仁王の松久」という名声を確立、不動のものにしたのだった。   3 父子二代の「大仏師」  宗琳は、仏師として、父朋琳とは違った独自の道を歩き出していた。  朋琳が四天王寺の仁王像に精魂を傾けている同じ時期、息子の宗琳は、園城寺《おんじようじ》(三井寺)から比叡山延暦寺の大講堂に献上される智証大師円珍の坐像を彫っていた。  天台宗は、最澄が延暦七年(七八八)、比叡山に一乗止観院《いちじようしかんいん》(現在の根本中堂)を創建し、本尊として自作の薬師如来像を安置して、その堂前に�不滅の法灯�を点じたことから始まっていた。そして、この天台宗の法門から、鎌倉時代に一宗一派をひらいた良忍《りようにん》(融通念仏宗)、法然(浄土宗)、親鸞(浄土真宗)、栄西(臨済宗)、道元(曹洞宗)、日蓮(日蓮宗)といった祖師たちを輩出した。比叡山は「日本仏教の母山」とされている。  この天台教団の基礎を確立したのが第三世天台|座主《ざす》となった慈覚大師|円仁《えんにん》であり、第五世座主の智証大師円珍(八一四〜八九一)だった。円仁も円珍も入唐求法《につとうぐほう》して密教をもたらし、それまで空海の真言密教に比べて雑密《ぞうみつ》とされていた天台密教を確立、以後、今日まで千二百年余に及ぶ天台教団の発展に貢献したが、その一方で、円仁、円珍の門下間に不和が生じ、座主職の争奪などによって、円仁の門流は山門の主流になり、円珍は三井寺にあって寺門の経営にあたり、いわゆる山門、寺門派に分裂することにもなった。  それはともかく、延暦寺の大講堂には、この智証大師円珍はじめ、鎌倉時代に一宗一派をひらいた各祖師たちの尊像が奉安されていたが、昭和三十一年に火事で焼失、大講堂もろとも灰燼に帰してしまった。一山の悲願によって大講堂が復興されたのが三十八年、焼失した各尊像も新たに彫られて再び奉安されることになっていた。それを朋琳と宗琳一門が彫ることになったのである。  宗琳は前年の夏から、智証大師円珍の制作に取りかかっていた。園城寺には国宝の智証大師坐像がある。円珍の顔は卵形で、頭部がとがっているユニークなものだった。国宝だから、そう何度も拝むわけにいかない。原像のイメージを伝えるのに苦心したが、宗琳は見事に尊像を彫りあげた。尊像は、当時�クボキン�という異名で知られた当代一の塗師、久保幸治郎の手によって漆の彩色がほどこされ、完成した。  昭和三十八年三月二十五日、再興された延暦寺大講堂では、智証大師坐像の遷座式がおごそかに執り行なわれた。輿《こし》に乗った大師像が、園城寺の福家《ふけ》長吏(管長)ら二百人を超す供を従えて、遷座式場の大講堂へ練り歩いていく。参道を埋めた参詣人の間から、「ほうッ」という感嘆の声があがっていた。つくった宗琳も面目をほどこした。  大講堂にはさらに、朋琳が本尊の胎蔵界大日如来像を彫って奉安することになっていた。大日如来の脇侍仏《わきじぶつ》として、四天王寺から寄贈された弥勒菩薩、同じく浅草寺からの聖《しよう》観音、それに孝道教団からの聖徳太子孝養像の三体も彫って納める仕事も待っている。九條山の工房は大車輪の忙しさだった。宗琳の意図した夢が着々と実現しつつあった。  朋琳・宗琳が、延暦寺の大講堂という「日本大乗仏教発祥の霊山」に、次々と尊像を造仏、奉安することができたのはなぜか。そこには一つの人間ドラマが秘められていた。  京都・山科《やましな》にある毘沙門堂|門跡《もんぜき》は、もともとは白鳳時代に天武天皇の発願によって建立された名刹で、天台宗をひらいた最澄とゆかりの深い寺だった。その後幾多の兵火にあい、寛文五年(一六六五)に天海大僧正の遺志を継いだ�中興第二世�公海大僧正がいまの伽藍を建立した。現在、ここの執事長をしている生田|孝憲《こうけん》師は大正十一年二月、三重県四日市市の寺の生まれ。昭和十二年に比叡山にあがり、副執行、「一隅を照らす」事務長、参務(天台宗部長)などを歴任してきた。  生田師は青年僧のころ、比叡山で修行した若き日の親鸞がナタ一丁で阿弥陀仏を彫ったという話に発奮し、自分も「不動さんを彫ってやろう」と、一刀彫りに挑戦した。昭和九年の室戸台風が吹き荒れたとき、東塔の宝殊院が倒壊し、廃材が残っていた。しかし、道具がない。丸ノミがどうしても必要となり、古いコウモリ傘の骨を砥いでノミ代わりにしたという逸話の持ち主だった。  この生田師が本格的に仏像彫りをやりたくなって、松久が仁王門通り新丸太町にいた時分に弟子入りしてきた。戦後、生田師は有名な弁天堂の輪番になったが、一日おきに東塔から京都市内まで通うほど、熱心な弟子だった。大工の修業などもそうだが、修業はまずノミなどの工具類を砥ぐことから始まる。京仏師は、砥石を横にして砥ぐ。なれない生田師は指先からよく血を出した。すると、松久がからかった。 「刃ものを砥ぐいうても、手砥げとはいってしまへんで」  六ヵ月くらい基礎をみっちり仕込まれ、やがて手足、仏頭と、仏像彫刻のイロハを叩き込まれ、それが約二年続いた。生田師は筋がいいほうだった。松久がお墨付きを出した。 「もうこんでよろしい。商売人の仏師になるんやないから、あとは好きに彫りなさい」  こうしたいきさつがあって、その後も師弟関係が続いていた。生田師はよく米などを下げて、松久の家に通った。松久が貧乏のどん底の生活の時代だった。それでも松久は月謝をとらなかった。かえってノミ類や砥石などを、気前よくくれた。戦後の内弟子第一号は出口翠豊だったが、そういう意味では、生田師は通いの外弟子第一号だった。  昭和三十一年、延暦寺の大講堂が火事で焼失した。復元には当時の金で六億円近い莫大な費用がかかる。延暦寺にはなかなか財源がなかった。やむなく麓の諸仏堂を解体して、これを運び上げることになったが、それでも一億数千万円もかかる。焼失した本尊の大日如来像を新たに彫らせる予算なども多くは取れなかった。そのことを生田師を通じて知った松久は、安くてもいいから本尊の大日如来像を彫らせてもらいたい、と思った。金など問題ではなかった。仏師として、日本の仏教の聖地である比叡山、延暦寺の大講堂の本尊を永遠に残せたら、それで満足だった。  そこで松久は、生田師を通して、そのころ�叡山の知恵袋�といわれていた山田|恵諦執行《えたいしぎよう》のもとへ、「ご本尊を彫らせていただきたい」と自刻の仏像を添えて上奏した。すぐに「履歴書を提出せよ」というので、巻物に書いて出したが、その後は音沙汰がなかった。山田執行から叡南祖賢《えなみそけん》執行に替わってしまったのである。  それから生田師の陰の尽力が始まった。生田師は松久の弟子であることはふれずに、叡南執行に松久のことを推奨した。が、叡山の傑物といわれた叡南執行は一顧だにしなかった。 「どこの馬の骨ともわからん仏師に、天下の天台宗のご本尊を彫らせるわけにはいかん」  松久があきらめていると、ある日、生田師が「先生、決まりました」と、一大朗報を持ってきた。叡南執行は、四天王寺まで行って、中門の仁王像を確かめ、出口常順管長や副住職の塚原|徳応《とくおう》などからも話を聞いて、初めて松久の仏師としての実力と人柄を知ったからだった。予算は少なかったが、松久は大日如来像を彫ることができるようになった。その陰には、生田師の尽力があった。あとで叡南執行は、松久と生田師の関係を知って、苦虫を噛みつぶした。 「生田のガキはわしに隠しよって」  大日如来は宇宙の実相を仏格化した最高の仏で、智徳の面を示したのが、「金剛界大日如来」で、理徳の面を示したのが、「胎蔵界大日如来」という。真言密教と天台密教とでは異なり、天台宗では大日如来(毘盧遮那仏《びるしやなぶつ》)と釈迦仏とを法身《ほつしん》、応身《おうしん》の同体としている。松久はすぐに奈良の円成寺《えんじようじ》に行った。そこに木造の大日如来坐像がある。台座の銘文に「大仏師康慶・実弟子運慶」と書かれているように、これは運慶が青年時代につくった像で、松久がもっとも好きな大日如来だった。写生をしてイメージを掘りさげ、宗琳や弟子たちとも意見を戦わせた。  そして、仏師生活五十年間に得たすべてを注ぎ込んで、半年がかりで完成させたのが、いま、大講堂に奉安されている大日如来像である。九條山から運ぶ輿入れがまた大変だった。幔幕を張ったオープンカーに安置し、開通したばかりの比叡山ドライブウェーを静々と通って、大講堂に到着。さっそく大日如来像は須弥壇《しゆみだん》に奉安され、即間局湛《つくまきよくたん》座主を大導師とし、一山の高僧たちが眩いばかりの袈裟、衣をまとって出仕して、延々二時間にわたって開眼法要が営まれた。  法要のあと、叡南執行がわざわざ朋琳のもとへ歩み寄り、 「立派なご本尊ができました」  と、深甚な謝意を表したのには、かえって朋琳のほうが恐縮した。生田師から、叡南執行の剛腹な人柄を聞いていたからだった。  書院での祝宴でも、即間座主からねぎらいの言葉を賜わった。朋琳は一門の栄誉だけでなく、昭和の京仏師として、千二百年の法灯を守っている天台宗延暦寺の大講堂の再建落慶法要にこうして連なることができ、定朝以来の京仏師の伝統を世に知らしめることができたことを率直に喜んだ。  宗琳と合作した弥勒《みろく》菩薩、聖観音、聖徳太子孝養像の三体の脇侍仏も十一月には完成し、無事に奉安した。この年の十二月、朋琳は即間座主から「法橋《ほつきよう》」号を授与された。のちに昭和五十四年には延暦寺から「大仏師」号も受けている。その間、四十五年には、身延山久遠寺の日蓮上人の御首を彫った功により、身延山からも「大仏師」号を賜わった。  朋琳は、和宗《わしゆう》四天王寺、天台宗延暦寺、身延山久遠寺の三大聖地から「大仏師」号を授与された。仏師として、もはやこれ以上の名誉は望むべくもなかった。明治、大正、昭和という時代の波間にうたかたのように漂い、相次ぐ肉親の死別と一家離散の悲劇、この世の辛酸をなめ尽くしてもなお仏を信じ、ひたすらに仏の心を彫り続けてきた武骨な仏師が、生涯の果てにようやく恵まれた至上の名誉であった。  朋琳が、仏師としての最後の締めくくりとして大日如来像を彫らせていただきたい、と上奏した山田執行はその後、第二百五十三世天台座主に上任した。山田恵諦現座主はこう語っている。 「非常に敬虔な心で、やはり信仰心がないとほんとうの仏さんはつくれません。自分自身が仏を信じ、自分の心に浮かぶ仏さんをつくりたいのがわたしの念願だというから、それならわかるとわたしも得心した。この人は立派な仏師になるな、大成する人だな、と思いました。延暦寺としても、歴史がものをいいますから、将来性がない人につくってもらうと、金銭上の問題じゃないことになる。息子のほうもだんだん円熟してきた。わたしのとこの内仏の阿弥陀さんは、あの息子につくってもろうたものです」  宗琳は、延暦寺の脇侍仏を彫ったあと、昭和五十一年から、一世一代の大作、「昭和の丈六《じようろく》阿弥陀仏」の造仏に取り組もうとしていた。大阪・四天王寺の講堂に奉安される本尊で、出口常順管長から、かねて朋琳・宗琳父子に依頼されていたものであったが、阿弥陀仏を得意とする宗琳が実質上の総指揮をとることになり、本格的に始動しようとしていた。いまでは九條山に設けた京都仏像彫刻研究所に若い弟子たちが約四十人も集まっており、宗琳が意図したように、さながら「現代の仏所」の趣を呈していた。  講堂は、聖徳太子が法華経、勝鬘経《しようまんぎよう》を講讃された由緒ある場所で、護法堂ともいう。四天王寺は、先に述べたように幾多の罹災の繰り返しにもかかわらず、その都度、不死鳥のように再建に再建を重ねてきた。講堂も昭和三十八年に、五重塔、金堂、極楽門(西大門)、仁王門(中門)、廻廊とともに再興された大伽藍の中にある。中門にはすでに朋琳がつくった一対の仁王像があたりを睥睨しているが、肝心の講堂の本尊は借物だった。その本尊、丈六の阿弥陀仏をつくるという畢生《ひつせい》の大仕事に、「現代の仏所」一門は燃えていた。  宗琳のこれまでの半生は、宿痾の脊椎カリエスと闘いながら、仏師修業に励む苦難の道のりだった。毎年、とくに五月から六月の梅雨どきになると、決まって激痛が走った。痛み止めの薬を飲みながら、それでも痛みがとれず、身をよじり脂汗を流しながら仏を彫ってきた。その痛さは尋常なものではなかった。二十四時間、動悸がうつ度に疼痛が体中を駆け抜けた。苦痛に耐えきれずに、ピリン系の薬を浴びるほど飲み、果ては「モルヒネを打ってくれ!」と絶叫したこともしばしばだった。  心頭を滅却すれば火もまた涼し。快川《かいせん》和尚の言葉に一縷《いちる》の望みをかけて、仏像を彫ることに異常なまでに集中し、肉体の痛みを滅却しようと何度も試みた。が、ものの四、五分しかもたなかった。真夏でも冷汗が体中を流れっ放しだった。激痛は毎年ひとしきり宗琳を苦しめたあと、体のどこからか多量のウミが出て、やっと痛みが治まるのである。  それが何年も続いていた。妻の芳子の看護は並たいていではなかった。食事療法も当然心がけた。青汁療法のために、毎朝、手回しのジューサー器で野菜、薬草類から青汁をつくるのも芳子の日課の一つだった。そのジューサー器をこれまでに三台もつぶした。医者に診てもらっても原因不明の難病に苦しみ抜いてきたのが、宗琳の半生だった。  昭和四十二年の夏、宗琳は「小栗栖《おぐるす》の灸」が効くという話を耳にした。これまで漢方療法、民間療法を含めて、ありとあらゆる治療法を試みても治らない難病だけに、あまり期待はできなかったが、藁をもつかむ一念で、紹介された鍼灸師《しんきゆうし》を訪ねると、小指の先くらいある灸を四つ、体にノリづけして火をつけられた。凄まじい熱さだった。息をつめて耐えても、うめき声がもれた。いわれるままに三日間通って、その治療法を受けた。  するとどうだろう。三日目に、右脇腹の下に小指の先ほどの穴があいた。そこから自然にウミが流れ出してきた。あわててティッシュペーパーでふきとっても、次から次へと吹き出してきた。たちまち紙の山となった。まるで火山の噴火のように、いままでたまりにたまってどこか神経を圧迫していたウミがとめどもなく流れ出していた。それが止まったとき、「脳の中が真っ青になった」。そして、痛みがピタッと止まった。急に空腹感をおぼえた。それが「病気との別れ」の瞬間だった。奇しくも男の厄年の四十二歳のときだった。  宗琳から肉体の不安が消えた。片足が不自由だというコンプレックスから決定的に訣別することができたのは、それから三年後の昭和四十五年だった。宗琳は気分転換のために熊野灘に釣りに行った。そこは険しい荒磯で、体の健康な人でさえ、ちょっと足を滑らせたら、危険きわまりない場所だった。宗琳は、そこで異形な釣り師に出会った。赤銅色に日灼けした精悍なその男の足は、腰から下、片方しかなかったのである。それなのに松葉杖も、すがりつく杖も持っていなかった。  黄昏《たそがれ》がきて、帰る時間がきた。宗琳は、その男がどうするのか、目が離せなかった。男は釣り道具を片づけ、釣果《ちようか》を手にすると、ごく自然に立ち上がり、それから危険な荒磯をぴょんぴょんと片足で跳びながら、舟のほうに近づいて行った。まるで平地を歩くような身軽さだった。問題は舟に乗るときだ。荒磯と舟の間にはわずかながら距離があり、舟は波に揺れて上下していた。  男は岩場の先端に片足で立ったまま、舟の揺れ具合を計っていた。その瞬間、飛燕のように後ろ向きの状態で宙に跳んだ。男は数秒後には舟の横板に尻から着地して腰かけていた。まるで跳躍の背面跳びを見たような鮮やかさだった。男は何事もなく、舟を漕いで遠ざかって行った。宗琳は感動していた。足の不自由さを克服して、日常生活に溶け込んでいる男の強靭な精神力に驚嘆した。それ以後、宗琳もまた肉体的な欠陥を超越することができたのだった。いま、四天王寺の丈六阿弥陀仏という巨像をつくる上で、肉体的な不安は何もなかった。  宗琳は精神的にも、仏師として、父朋琳とはかなり異質な精神世界を形成していた。それは自ら求めたことでもあった。我流でただ一人こつこつと彫ってきた父の生き方に反発して以来、宗琳は名作を徹底的に模刻し、先達の偉大な仏師たちのノミの使い方から仕上げまで、その技術のすべてを学んでいた。 「いくらそっくりにコピーしてみたかて、所詮はニセモノや。そんなもん、いくら彫ったかて、仏をつくって魂を入れず、や」  朋琳は、こと模刻に関してはクソミソないい方をした。いまでは宗琳も負けてはいなかった。 「コピーと模刻は違う。模刻は習字や。習字は基本をきっちり自分のものにすることや。それなら立派なお手本から学ぶほうがええやないか。それに、ほんまに立派な仏さんやったら、同じもんが二つあってもええと思うわ」  宗琳が父朋琳に対して、こうまで反発するのは、むろんこれまでのいろいろな父子のしがらみが絡んでいたが、宗琳の心の中に、父朋琳の生き方とは異なった、もう一つの「生き方」を求める気持ちが強かったからだった。それは河井寛次郎や柳宗悦《やなぎむねよし》といった、別の世界の巨人たちから薫陶を受けたことと無関係ではなかった。  宗琳は、結婚する前の昭和二十五年から約十年間、河井寛次郎のもとでノミをふるったことがあった。「炎の詩人」といわれた河井寛次郎は、いうまでもなく日本陶芸界の巨匠で、明治二十三年に島根県に生まれ、昭和四十一年十一月十八日、七十六歳で永眠するまで、陶芸のみならず、独自の木彫や書画、散文や詩にいたるまで巨大な足跡を残した先達だった。が、生涯を通して、「わたしは芸術家やない、職人だ」といって、�芸術ぶる�ことを極端に嫌った。無心にならぬと絶対の美は生まれてこない、と若き日の武雄に説いた。  河井は、柳宗悦、浜田庄司、富本憲吉らと民芸運動をやったことでも知られているが、昭和二十五年頃、木彫にも新しい意欲を示し、自分の発想を木にうつしてくれる人間を探していた。京染めの栗山|吉三郎《きちさぶろう》の勧めで、武雄が面識を得ると、河井は大変気に入り、それから十年間というもの、朝から晩までこの巨匠と差し向かいでノミをふるうことになったのだった。  その当時の河井と武雄の関係については、乾由明《いぬいよしあき》が『河井寛次郎の仕事』の中にこう記している。 〈制作は、彼が土で原型をつくり、それにしたがって仏師の松久武雄(宗琳)が木を彫り刻むという方法がとられた。最初さまざまな手の連作がつくられ、ついで女性像や母子像に移り、昭和三十二年(一九五七)ころからは、きわめて特異な仮面へと発展する。手の木彫は花や珠をもったものや掌に顔を刻んだものなど、形式がさまざまであるが、しかしいずれもいちじるしく様式化された簡潔な表現によって、まるで巨大な仏像の一部のように、豊かな存在感とみずみずしい生命感をたたえている〉  武雄が最初に彫らされたのは影絵のキツネの手だった。それから有名な�手�の造形シリーズが出発していったが、河井と差し向かいになって、武雄がバン、バァンとノミを入れると、河井がパッと木を手返しにする。その呼吸が実に絶妙だった。武雄がちょっとでも「調子をつけよう」と、意識したノミを入れようものなら、「飾りのノミはいかん」とたちどころに見破られた。 「作為あるノミではなく、絶対のノミを入れるのだ」  河井は武雄にそう叩き込んだ。したがって、武雄はまったくの白紙となって、河井に同化しなければならない。河井と一心同体の境地に入らなければ、「絶対のノミ」などふるえるものではなかった。宗琳が、この世界的な巨匠から徹底して仕込まれたのはそのことだった。  東山五条にほど近い河井寛次郎の陶房には、柳宗悦、浜田庄司、富本憲吉、あるいはバーナード・リーチなどがよく集まって、車座になって茶を飲みながら、芸術や民芸の話をしていた。武雄は、父の世界とは次元が違う、と思った。ものを見る目、創作意欲、あくなき探求心……。宗琳の芸術観や宗教観は、これらの巨匠たちから大きな影響を自然に受けていた。 「天下の名器は、茶碗でも、無名の人がつくった量産の中から生まれるんや。そこにはいいものをつくってやろうなどという野心もはからいもないからだ。名器は天然がつくるもんや」  宗琳は、河井のこの言葉を肝に銘じ、「絶対のノミ」で、仏を彫ることができたらええな、とこの十数年、いつも思ってきた。 「きめられたものは何もない、自分できめよ」  河井は、何ものにもとらわれず、自由な発想こそが創造にとって一番大切だ、と教えた。そのチャンスを与えられたのが四天王寺の本尊、阿弥陀如来坐像の仕事だった。  四天王寺の丈六仏の「ノミ入れ式」が荘厳に執り行なわれたのは、昭和五十一年七月二日のことだった。宗琳は、奈良・薬師寺の本尊、薬師如来像を実測させてもらい、克明に写生した。それをモデルに創意をふくらませ、すでに五分の一の原型をつくっていた。もちろん、この丈六仏も「賽割り法」により、一門約四十人の小仏師たちが分業を担当して、つくり上げていくのである。  原型の彫造は「荒彫り」「小づくり」「削り上げ」の三つの段階から成るが、出口常順管長は九條山工房を訪問して、阿弥陀仏の慈悲の相に満足の意を表していた。九條山工房では、朋琳、宗琳を囲んだ一門の小仏師たちが、ささやかな祝宴をあげながら、「昭和の丈六仏」の完成を祈願した。宗琳が熱っぽく喝を入れた。 「わたしはかつて、孫子の代まで仏師なんてするもんやない、と思うた。しかし、いまは違う。明治生まれの父から、大正生まれのわたしがバトンを受けて、今度は昭和生まれの君らに渡す。渡されたものは責任があるんやぞ!」  こうして七月二日、午後二時から「ノミ入れ式」が始まったのだった。儀式には、大阪、名古屋など各地の四天王寺信徒代表が参列した。彫造にたずさわる一門の総帥、「大仏師」朋琳、采配をふるう宗琳、そして数多くの小仏師たち、さらに塗師・林芳雄、金箔師・田平《たひら》雄三、三法堂・藤田善三社長、儀式用ノミの奉献者の光雲・山口篤徳社長ら関係者約八十人が迎える中を、導師の出口管長が南谷《みなみだに》執事長以下の寺僧を従えて入場してきた。  出口管長が初ノミを入れた。次に宗琳が無事完刻の祈りを込めてノミを入れたあと、般若心経の輪唱の中を、参列者全員が仏頭に合掌し、敬虔にノミを入れ、荘厳のうちに儀式は終わった。それは同時に、出口管長ら一山の再造顕の発願以来、足かけ十六年、多くの信徒たちの悲願が結実する記念すべき日でもあった。  ノミ入れの儀式のあと、五分の一の原型は、相国寺《しようこくじ》の厨房で解体され、本尊の木取りと、本格的な彫造作業が開始されていった。四天王寺の阿弥陀如来像は、立ち上がると一丈六尺になるところから丈六仏といわれるが、実際につくるのは坐像なので本体の高さは二・八五メートル、後ろの光背は約七メートルである。用木は最高の尾州ヒノキで、樹齢三百年、直径にして約七、八十センチのヒノキが約二十本も使われた。  荒彫り、仏頭、胴体、膝の各ブロックの接合、そして小づくり、削り上げ、と造仏作業は順調に進んでいった。宗琳は、原型仏頭と見比べながら仏頭の小づくりに精魂を注いでいた。なんといっても、顔の表情が仏像のいのちだった。仕上がった仏頭には九百個に近い螺髪《らほつ》が植え込まれた。仕上げの小刀を入れる宗琳の手には一段と力がこもっていた。  本尊と同時に着工していた光背、台座も、一門の分業システムによって、順調に仕上がっていた。四天王寺の丈六仏の彫造はまさしく、定朝一門が宇治の平等院鳳凰堂の阿弥陀如来像を、運慶一門が巨大な仁王像をつくったときと同じシステムだった。ただ、「昭和仏のにおい」だけが違っていた。そして、ノミ入れ式から一年後の七月三十日、ついに丈六仏の彫造は完了した。  彫造が完了した丈六仏は再び解体されて、今度は三法堂の山科工房へ搬入された。そこで五十年のキャリアを持つ塗師・林芳雄の手によって漆塗りされ、次には金箔師・田平雄三が燦然と輝く黄金仏にしていった。そのあと山科の大宅《おおやけ》工房に戻ってきた黄金の丈六仏に、今度は截金《きりかね》が施された。  截金は、千三百年前に中国から伝来した装飾模様の技法で、正倉院|御物《ぎよぶつ》の新羅《しらぎ》琴、三月堂の日光・月光両菩薩、戒壇院の四天王像などが有名である。快慶の阿弥陀如来にも残っている。これは純金箔を三、四枚、熱処理によって焼き合わせ、それを竹刀《ちくとう》で線状に切って、ふのりと膠《にかわ》の調合したものを接着剤とし、筆でその金の糸を貼りつけ文様を描く技法で、たいへん神経を使う繊細な仕事だった。  金線以外にも、丸、三角、四角、菱形などの形を金箔から切り抜いて文様を描いていくが、難しいのは、仏像や仏画を汚さないため、下描きせずに目安のみで直に貼っていくことだった。この截金を担当したのは、宗琳の長女マヤで「真や」という雅号で仕事をしていた。真やは、女性で第一号の截金師だった。次女の由佳は、佳遊という名で絵仏師の道を歩き出していた。  四天王寺の本尊、阿弥陀如来像には「仏師三代」の仏心と精魂が込められていた。このとき、朋琳七十六歳、宗琳五十一歳、真や二十二歳。NHKが丈六仏に携わっている「仏師三代」の記録を追って放送した。松久丈五郎から数えれば宗琳が三代目、真やと由佳は四代目という仏師の家系だった。  昭和五十三年三月十二日、丈六仏開眼の大法要が、二千五百人余の参列者が見守る中で、厳粛に行なわれた。烏帽子《えぼし》・水干《すいかん》姿の朋琳、宗琳、真やをはじめとする一門たち、それに関係者たちはみな感慨無量の面もちをしていた。やがて荘厳な読経のうちに、出口管長が五色の帛《はく》に結んだ筆をとって墨を含ませ、それを宗琳に授けた。本尊の膝にのぼった宗琳が敬虔に両眼に墨を入れた。「昭和の丈六仏」の開眼の瞬間だった。  大灯明の揺らめく講堂に奉安された阿弥陀如来像は燦然と黄金色に輝き、二重光背の諸仏や十三仏に守られた千体仏の化仏《けぶつ》もまた見事だった。讃嘆の声を放って合掌している参列者の顔は法悦に満ちていた。この丈六阿弥陀如来像の胎内には甘露台をはじめ霊名簿、写経などの他、「二十一世紀の願文」という、未来へのメッセージを込めた�タイムカプセル�が奉納されていた。  宗琳は一門の小仏師たちと、二十一世紀の幕あきの年の正月十日、みんなでこの阿弥陀如来像の前に集まることにしている。そしてタイムカプセルをもう一度密封し直す。「この次に開けるのは五百年後」。輪廻《りんね》転生を信じている仏師たちは、五百年後にまた仏師になって生まれ変わる、と信じているからであった。  宗琳は翌昭和五十四年、四天王寺から「大仏師」号を授与された。父子二代にわたる大仏師となった。さらに五十八年には、成田山|新勝寺《しんしようじ》からも「大仏師」号を受けることになる。これらの名誉は、「父との訣別」の始まりでもあった。それぞれ異なった大仏師の道を歩き出した父子にとって、肉親の絆はともかく、仏師対仏師の魂の相剋が必然的に待ち受けていた。   4 魂の相剋   木の中の 仏迎える ノミの技  朋琳は、七十歳を過ぎたころから、ようやく仏さんと出会えるようになった。そのころから、この一句をよく口にし、色紙にも書くようになった。無心にノミを入れていくうちに、いつの間にか自然に仏の顔に、手に、足にとふれていく。そして仏が木の中から生まれてくる。この境地にたどり着くまで、十二歳のときに最初の福助を彫ってこのかた六十年の歳月がたっていた。  若いころは、仏像は彫るもの、刻むものと思い、実際そうしてきた。それが長年にわたって仏像を彫ってきたあとに、朋琳が自然に得心したのは、仏像はつくるものではなく、木の中におわす仏を、現世にかたちあらしめるべくお迎えする、という悟りだった。目の前に木がある。それは単なる一本の木、あるいは木の塊であって、仏とはいえない。  だが、最澄は「一切衆生悉有仏性」と説き、「山川草木悉有仏性」こそ仏のこころと教えている。つまり、すべてのものが仏になる性質を持っている。それは、一切の生類《しようるい》の�有情�だけでなく、一木一草、草木や石など精神作用のない�無情�にさえも仏性があるとする「有情無情」の教えだった。  朋琳はこのころになって、小刀やノミが勝手に動き出すようになった。小刀のほうがどんどん先にいって、木屑を払いのけていく。朋琳にいわせれば、木の中におわすみ仏に引っぱり込まれるような感じになり、み仏が「早く迎えにきてくださいな」と待っている。そして、あとひとノミ彫ったら、み仏の顔に傷をつけてしまう、というその直前で、ノミの動きがピタッととまってしまう。朋琳はその境地に達していた。  最初に、木の中のみ仏に出会えた、と思ったのは、奈良・法華寺《ほつけじ》の善財童子を彫るように頼まれたときだった。法華寺は、前にも述べたが、光明皇后の御願によって建立された由緒ある名刹で、雛会式《ひなえしき》には本尊の十一面観音の脇に、童子がずらりと並ぶ。朋琳は、年に二、三体ずつ、合わせて三十数体を連作して彫り、奉安した。  善財童子は、両手を胸の前に合わせて直立している姿が普通だが、朋琳は、ひたすら祈りを捧げる無垢な魂を表現するため、一体一体のポーズに変化をつけた。合掌の手を頭上に掲げている童子、軽やかに舞っている童子、というように、三十数体の童子にさまざまなポーズをとらせた。その構想を練って、彫るのは大変なことだったが、ある日、一人の童子を彫っているとき、「わたしはここよ」と木の中から声がしたような気がした。そしてノミが朋琳を引き込むように先に進む。逆らわずに心のままに進めると、可愛い童子が生まれてきた。  そんなことは初めての経験だった。それからの仕事が楽しくなった。ようよう、「仏さんに出会えたな」という実感がもてるようになったのは、それからだった。それから無心にノミがふるえるようになった。「木の中の仏迎えるノミの技」という、俳句ともつかぬ句がふっと心に浮かんできたのは、その頃だった。  どの木の中にも仏は宿っているのだ。ただみ仏の他に余分な木屑がついている。その木屑を取り除いてやれば、自然にみ仏があらわれてくる。仏師とは、ノミをふるって、余分な木屑を払いのけ、木の中にひそんでいるみ仏をお迎えする使いのものにすぎない、というのが朋琳がたどり着いた境地だった。そして、人々が合掌し、礼拝したくなるような仏像をお迎えするには、謙虚に磨いたノミの技がいる。それは技という技術的なものを超越した仏師のこころの表現といってもよかった。  余分な木屑を払いのけるということは、余分な木屑を「無」にすることだ。無にすることによって、初めて仏像という実体があらわれてくる。朋琳の言葉によれば、こうなる。 〈つまり、無から有が生じる。木屑という有を無にしたら、空間をつくったら、その分だけ実有が生まれてくる。そして余分な木屑をすっかりけずって取って無にしてしまったら、すばらしい実有が、つまり、み仏が生まれてくる。わたしが、木の中のみ仏をお迎えするというのは、つまりこの空間をつくるということなんです。普通、仏を彫るというと実像を生ぜしめることのように考えがちですが、実は、実像を生じせしめる空間をつくっているということにもなるのです。空を作ると無が生まれる、不思議なものですな〉  仏性と出会う、それもまた同じことだった。欲望とか煩悩という余分な�木屑�を取り、己れを空しくすれば、そこに自然と仏性があらわれてくる。仏師が自己、あるいは自我というような俗なものを否定しきって木に向かうとき、初めて仏に出会うことができる。朋琳はそう敬虔に信じるようになっていた。  朋琳がある年の「文化の日」に、NHKラジオでそんな話をしたことがあった。すると、その話を聞いた当代きっての随筆家渋沢秀雄が、「あの放送に感銘を受けた、夏目漱石の『夢十夜』の中に、こんな話があるので送ります」といって、手紙と一緒に『夢十夜』の抜き書きを送ってくれた。それは運慶にまつわる話だった。  漱石の『夢十夜』は「こんな夢を見た」という書き出しで始まる十夜の夢の話で、その第六夜に、運慶が護国寺の山門の仁王像を彫っているのを見た話が出てくる。 「あのノミと槌の使い方を見たまえ。大自在の妙境に達している」  と、わけ知り顔の若い男がいう。 「よくああ無造作にノミを使って、思うような眉や鼻ができるものだな」  と、夢の主人公が感心して独り言をいうと、その若い男が、 「なに、あれは眉や鼻をノミで作るんじゃない。あの造りの眉や鼻が木の中に埋まっているのを、ノミと槌の力で掘り出すまでだ」  と話をひけらかす内容だが、朋琳は、渋沢から手紙をもらって、なるほど、自分がいっている「木の中の仏迎えるノミの技」と符節を合わしたような話だな、と感心した。漱石は頭脳と創造力で、自分は六十年の経験で、という違いはあるが、到達したところは一つやな、と妙にうれしかった。  むろん、朋琳がこの境地に至るまでには、比叡山延暦寺の大日如来像と脇侍仏の大仕事のあとも、次々と昭和仏の歴史に残るような仏像を彫ってきたという経験の重みがあった。先に述べたように、奈良の法華寺は、聖武天皇の皇后、光明皇后の御願によって建てられた尼門跡寺で、ここの国宝、十一面観音は光明皇后をモデルにしてつくられたといわれている。その脇侍として、五十五体の善財童子を彫ったのはとりわけ忘れがたい思い出だった。  昭和四十四年に、仏師としての運を切りひらいてくれた魔王尊を彫った鞍馬寺《くらまでら》で再び魔王尊、千手観音、毘沙門天の三尊をつくったときは、毎日テレビが『日本の名匠』シリーズとして、「賽割り法」のすべてを撮影して公開した。運慶一門が開発した立体的設計法の一部始終が初めてカメラに記録されたことは、仏像彫刻史の上で画期的なできごとだった。  横浜の称名寺《しようみようじ》は北条氏の一族、金沢氏の菩提寺で、金沢文庫はここから始まったが、ここに関東で最大といわれる仁王様がある。その解体修理を頼まれたのは昭和四十五年の初夏。吽形を解体すると、頭の内部から「元亨《げんこう》三年」という銘文があらわれた。元亨三年は一三二三年、後醍醐天皇の時代にあたる。しかも「院派」の仏師がつくったという署名も出てきた。鎌倉時代には院派の仏師はほとんど姿を消したといわれていただけに、この発見は仏像彫刻史上でも重要な発見だった。新聞にも大きく報道された。鎌倉時代に三十三間堂の一千一体の千手観音を総動員で彫ったあと、関東に散った院派の仏師がつくった仁王像だったのだ。  大沢池に臨む風光明媚な地にある大覚寺は、嵯峨御所ともいわれ、鎌倉時代に亀山天皇や後宇多天皇が院政を行なった大覚寺統の御所だった。朋琳は昭和五十年に、「寺号勅許千百年」の大遠忌を迎えた記念事業として、本尊の五大明王を新たに昭和仏につくり替えて奉安したことがあった。大覚寺の五大明王は、円派の名人仏師、明円が平安末期から鎌倉初期にかけてつくったものだった。本尊の不動明王をはじめ、大威徳《だいいとく》、軍荼利夜叉《ぐんだりやしや》、金剛夜叉、降三世《ごうざんぜ》の五体から成っている。八百年余もたつと、木が�痩せて�きて、手首などの細さが目立っていた。それで新たに昭和仏をつくることになり、朋琳にご下命があり、奉安したものだった。  その折、�秘仏�扱いになっている明円作の五大明王をじっくり拝見させてもらったが、五十歳をすぎて円熟期にあった明円がつくった五体は、�におい�といい、品格といい、さすがに見事なできばえで、円派の名人ならではの藤原仏の傑作だった。擡頭してきた運慶一門に追われていく円派の最後の光芒だったのだろう。  それを新たにつくるのは、昭和の仏師として緊張する仕事だった。明円作の五大明王には、まるで滅びゆく円派の運命を暗示しているかのように、どことなく藤原仏にひそむ�よわさ�とでもいうべきものがあった。朋琳は、現代に生きる仏師として、もう少し�つよいもの�を出したかった。五大明王は明王部の仏だから、いずれも忿怒の形相をしている。猛々しい明王部の仏は、朋琳のもっとも得意とするところだった。宗琳や弟子たちとも力を結集し、朋琳がつくり上げたのは、模造ではない、まぎれもなく力強い昭和仏の五大明王だった。孫娘の真やが、截金師として初めて一緒に仕事をしたのも、朋琳にとっては思い出深い仏つくりだった。 「現代の仏所」九條山工房は、いまや、かつての定朝の七条仏所のように、あるいは運慶一門の隆盛のごとく、まさに昭和という時代の最大の仏所になっていた。出口翠豊、今村宗円、江里康則ら内弟子の第一期生が巣立って独立したあとも、次々と内弟子が入ってきて十人を超していた。日曜大工で作った工房は前後二回にわたる増改築で、二階建ての広いものとなり、二十尺の観音像でも楽に彫れるスペースができていた。  朋琳の仕事場は二階にある四畳半の広さで、襖をあけると四畳半の寝間がつながっている。いつでも起きて、好きな仏さんを彫り、疲れたら隣の寝間で休めばよかった。仕事場の窓からは、近くの将軍塚の美しい自然が眺められた。あの極貧時代からすれば、夢のような生活だった。高度経済成長を登りつめてきた日本は、オイルショックで暗転したが、重厚長大から軽薄短小型へと産業構造を変え、いまでは経済大国への道を突っ走っていた。  そうした時代の流れの中で、金に人生を狂わされる人々がいれば、物質生活よりも心のゆとりを求める人たちがいた。それゆえにこそ、仏像礼讃の風潮が高まり、朋琳たち仏師は思いもかけなかった天機に恵まれて、仏像を彫り続けることができるのである。  一種の�仏像ブーム�がおこるにつれて、金も入ってくるようになった。もう昔のように、明日の米を心配しなくてもよかった。安心して、自分の心のおもむくままに、仏像が彫れるようになっていた。が、朋琳は金には恬淡《てんたん》として無頓着だった。ただ好きな仏像を彫っていればよかった。それだけに、一門の弟子を抱えた�九條山仏所�の経営は、息子の宗琳が一手に引き受けざるをえなかった。宗琳は、仏師として成長しただけでなく、仏所の実質的な責任者として、父朋琳の顔をたてながら、経営者の手腕を発揮した。そのことがやがて父子の対立の原因の一つになるとは、思ってもみないことだった。 �九條山仏所�では、昭和三十九年から毎年一回、「仏教美術展」を開くようになっていた。これは作品の優劣を競うというようなものではなく、朋琳、宗琳をはじめ、一門の弟子たちが、自らの仏性を木の中に求める精進ぶりを見てもらう、という趣旨で開いていた。次男の鼎も、敏腕刑事としての職務をこなしながら、趣味として彫っている仏像を出品するのを楽しみにしていた。  朋琳が第一回展に出品したのは弁財天だった。弁財天は、インドの五河《パンジヤブ》地方の河神として崇拝され、のちに梵天の妃となった天女で、音楽、弁才、財福、智恵の徳があり、古来から吉祥天とともにもっとも庶民から信仰されている。琵琶が弁財天の象徴とされ、古い像では東大寺三月堂の塑像や、浄瑠璃寺吉祥天女像の扉絵などが有名だった。彫刻では、琵琶湖の竹生島《ちくぶしま》、安芸の宮島、江の島を三弁天と称し、全国的に祀られて、信仰を集めている。  朋琳が第一回展に出品した弁財天は、京都府立総合資料館に寄贈されたが、当時の京都府知事は革新系の蜷川《にながわ》知事だった。「弁天さんの由来について知りたい」というので、朋琳は、革新系の蜷川知事が、超現実的な宗教的世界観をどう理解するのかしないのか、まことに興味があったが、自分なりの弁天観を筆書きにして差し出した。蜷川知事が「なかなかおもしろい」と感想をもらしたというので、信仰は政治も経済も超越したものだ、と改めて感じ入った。  ところが朋琳が息子の宗琳と最初に対立することになったのは、この弁財天が原因だった。  京都・大原の三千院は、最澄が比叡山の根本中堂を建立した際、東塔の南谷に一宇を建てたのが起こりだった。その後、貞観二年(八六〇)に清和天皇の勅命によって大津の東坂本に伽藍を建てて移され、代々法親王が住持する門跡寺院となっていた。現在の地に移されたのは応仁の乱のあとで、大原の里を望む閑静な高台にあり、美しい四季が織りなす雰囲気はとくに観光客に人気がある。  門跡寺院らしい風格をかもし出している境内には客殿、宸殿が建ち、二つの池泉回遊式庭園があって、その一つ、有清《ゆうせい》園の杉木立の中には三千院を象徴する往生極楽園が流麗な姿を見せ、観音菩薩が安置されている。この三千院から「弁財天をつくって欲しい」という希望が�九條山仏所�にもたらされたのは昭和五十一年だった。  観音像や弁財天などの�静的なもの�を得意とする宗琳が制作することになったが、朋琳は明らかに不満だった。琵琶を持って立つ等身大の弁財天で、ブロンズにして庭園に安置するというのが三千院側の希望だった。むろん原型は木彫の仏像である。宗琳はその年の夏から九條山の工房で制作に入り、荒彫りも終わって、小づくりの段階になった。弁財天はやはり顔がいのちである。宗琳は入念にノミを入れていく。一日の仕事が終わって、宗琳は新丸太町の自宅に帰っていった。  次の朝、九條山の工房にきて、作りかけの弁財天の顔を見た宗琳は、あれッ、と思った。明らかに別の人のノミが入った痕跡があった。そんなことをするのは父以外には考えられなかった。父は知らんふりをしていた。その日、宗琳はことを荒だてまいとして、また自分の弁天さんの顔にノミを入れ直した。そして、予定の作業をほどこし、自宅に戻った。父の気持ちもわかっているから、その日は何もいわなかった。  翌朝、九條山に行くと、また弁財天には父のノミが入っていた。さすがに宗琳も不愉快になり、父に注意した。 「これはぼくの弁天さんや。勝手にいじらんといて」 「その顔が気に入らんわ。そやから、ちょっと手を入れてやっただけや」  父は、息子はまだまだ未熟や、師匠のおれが直してやるのは当然だ、というような顔をしていた。朋琳には、弁財天に対しては、わしは弁天さんに守られている、という絶対の自信があった。だから、宗琳にまかしているとはいえ、最後は自分が仕上げをするつもりでいた。息子が帰ったあと、手を入れているのはそのためだった。なにしろ、弁天さんのお使いの白蛇がおれに挨拶をしよったんやから、と朋琳は思っていた。  インドの弁天像は、琵琶を弾き、頭に蛇を巻き、白馬にまたがっている。白蛇は弁天さんの使いと信じられていた。この地球上では、人類よりも先に爬虫類のほうが栄えた。だから霊的には爬虫類のほうが人間よりもすぐれているとされ、竜神信仰などもそこから発生した。白蛇を弁天さんの化身とするのも、その一つの信仰のあらわれだった。  朋琳には白蛇にまつわる不思議な体験があった。昭和三十九年の夏、琵琶湖の竹生島の弁天像を修理して欲しい、という依頼があった。琵琶湖北端にある竹生島の法厳寺《ほうごんじ》は、奈良時代に行基が創建したと伝えられる古刹で、第一宝殿に日本三弁財天の一つが祀られている。朋琳が竹生島に入港すると、山岡了海住職が出迎え、一緒に石段を登って行った。そのとき長さ五十センチほどの白蛇が、スルスルと石段を這いのぼり、くるっと振りかえった。朋琳の顔をじーっと見つめている。 「この白蛇は飼《こ》うたはるのですか」  と、朋琳が思わず尋ねると、山岡住職は「いいえ」と首を振り、感にたえたようにいった。 「あなたに挨拶しはったんですよ。やっぱりわかるんですなあ」  朋琳は、白蛇は弁天さんのお使いだ、と霊妙な体験をした。山岡住職も見ていたのだから、幻覚でも何でもなかった。現実にそういうことがあったのだ。わしは弁天さんに守られている、というのは、そのときの体験がもとになっていた。朋琳にすれば、宗琳が彫ろうと霊験あらたかな弁天さんであればいい、しかし三千院に依頼された以上、自分が納得いく弁天さんでなければ、手を入れるのは当然しごくのことだった。朋琳は、自分が�九條山仏所�の総帥だと思っていた。  だが、宗琳はもはや息子の武雄以上の存在になっていた。朋琳が大仏師なら、宗琳も大仏師だった。自分が彫っている仏像に手を入れられるのは、父といえども許せなかった。宗琳は毅然として父に宣告した。 「これ以上、手を入れるのはやめてんか。お父ちゃんかて、人にごちゃごちゃいじられたら嫌やろ。ぼくも不愉快や」 「要はいい弁天さんをつくればええんや」  父子の間に微妙な溝が生まれていた。  宗琳がいよいよ削り上げの最終段階に入っても、朋琳は気になると、息子が帰ったあと、深夜にこつこつと手を加えていた。父子といえども、仏師としての個性、ノミの使い方が違っているから、ちょっとノミを入れただけで、宗琳の顔が朋琳の顔に変わってしまう。翌朝、それを知って、宗琳は愕然とした。もう四回もそんなことが続いていた。宗琳は、ついに堪忍袋の緒が切れた。 「船頭が二人いたらあかんのと同じこっちゃ。この弁天さんはぼくがつくる。もう絶対にさわらんといて」  最後は力で押さえる形になった。それはもう父子というより、仏師と仏師の凄絶な闘いだった。弁天像はブロンズになって、三千院の庭園に奉安されたが、父子の間にはもう抜きさしならない亀裂が入っていた。  老境に入っている朋琳は、ふだんは温和で、人の心を誘い込むようなやわらかい微笑をたたえていた。が、もともとは気性の激しい、強烈な個性を秘めた仏師だった。仁王像や五大明王など忿怒の形相をした仏像に憧れ、それを得意にしていたことからも、朋琳の仏師としての類い稀な特質がわかるだろう。一門の弟子たちがしくじったりすると、「そんなこっちゃ、木の中の仏さんを殺してしまうがな」と、容赦なく雷を落とした。一度怒鳴ると、あとはケロッとして禍痕を残さなかった。  朋琳はなによりも、木彫りの仏像をつくる京仏師でありたいと願い、またそれを終生の仕事としていた。日本は木の国、木の文化こそ日本の誇りだ、と固く信じていた。弟子たちにもそのことについて語ることが多かった。 「木の仏さんほど端的に日本を感じさせる仏像はないんやで。日本に仏像が伝来したころは、渡来人の仏師さんが、銅《かね》でこしらえたもの、石仏、土をひねった塑像、乾漆像《かんしつぞう》など、いろんな仏像を持ってきたけど、いつの間にか木の仏さんが�日本のこころ�を彫る仏さんになってしもた。それはなぜかちゅうと、日本にはヒノキやクスなど彫刻にはもってこいの樹木に恵まれていたからや」  木の話をしているときの朋琳は幸せそのものの柔和な表情をしていた。 「木には�いのち�がある。これほど正直にノミの痕を残すものはおへん。けど、この木を使いこなすまでには、日本の仏師さんたちの知恵があったんや。ヒノキは非常に脂の強い木やな。昔は山火事はヒノキ林から起こった。それで�火の木�というくらいや。ヒノキをこすると、そこから火が出よる。そのヒノキを使いこなすには、ようヒノキを晒して脂をとらなあかん。漆の脂がつきにくいからや。そういう知恵が昔の仏師さんにあったからこそ、昔の仏像が千年以上たったいまに伝わっているわけや」  弟子たちも、ヒノキが�火の木�というなどということは、初めて師匠に教えられてわかったことだった。 「とにかく木は正直や。十日かかったら十日かかっただけのノミの痕がちゃんと木の肌に残りよる。ごまかしはきかん。だから、仏師たるものは、木の�いのち�を殺さんようにして、一刀三礼、木の中の仏さんをお迎えさせてもらいます、という祈りを込めて、彫らなあかんのや。一枚、一枚と皮をはいで、もうこれ以上ノミを入れたら、仏さんの頬っぺたに傷がつくという、ぎりぎりのところまでいかんと、仏さんはお出ましになりまへん。美しいとかやさしいとかいわれる仏さんのお顔はつくれる。けど、それだけではいかんのや。�慈悲のこころ�が感じられてこそ、初めて仏さんになるんや。それが大事やな」  仏師として六十年余、息子の宗琳に「我流」といわれても、朋琳はただ一人、ほとんど独習でこれまで仏像彫刻に精進してきた。昭和四十七年には、労働大臣から技能賞を授けられ、五十三年には京都市文化功労者に選ばれていた。が、朋琳にとって、そんな世俗的な名誉や地位などはどうでもよかった。一介の仏師として、生涯を全うできればそれで悔いはない。どれだけ「慈悲のこころ」をもった仏さんを彫りまいらせることができるか、いまの朋琳の心にはそれしかなかった。   5 木の中の仏を迎える  老先生・朋琳と若先生・宗琳の間に深い溝が生じていることは、一門の弟子たちも感じ始めていた。戦後の内弟子第一号の出口翠豊などは、それを憂慮していた。が、仏師と仏師が芸術家としての創造性、制作姿勢の相異、いわば生き方と良心を賭けて対立した以上、二人とも安易に妥協することはできなかった。  宗琳の父に対する愛憎相半ばする複雑な感情は、幼少からのもろもろの不満の積み重ねが、ここにきて爆発したものだった。母の不幸な死、一家離散、自分の脊椎カリエス、妹愛子の死……すべて父に責任があると思っている。仏師としても、父はあまりにも我流でありすぎる、という不満足感が、「松久さんは下手な松久さんていうんやで」と聞かされたときから、どうしてもつきまとって離れなかった。  そのため、宗琳は若いころから�武者修業�に出た。河井寛次郎に師事して、柳宗悦、浜田庄司ら日本を代表する巨匠たちの創造力の秘密にふれたのもそうだったし、また、江戸仏師の流れをくむ佐藤玄々の仕事を手伝いながら勉強したこともあった。  佐藤玄々は、明治二十一年、福島県相馬郡中村町の宮彫師《みやぼりし》の家に生まれた木彫家で、最後の江戸仏師、高村光雲の弟子・山崎朝雲に師事し、院展、帝展などで活躍した近代彫刻界の巨匠の一人だった。皇居前に建つ和気清麻呂の銅像は代表作の一つである。戦前は朝山と号し、玄々と号するようになったのは戦後からだった。昭和三十三年ころから、京都の妙心寺内の塔頭、大心院を借り切って、大勢の弟子たちと取り組んでいたのが日本橋・三越デパートの「天女像」、有名な�まごころ観音�だった。 「京仏師の力も借りたい」  という玄々の希望で、宗琳も手伝うことになったが、玄々の心の中には、京仏師がどれほどの力のものかみてやろう、という彫刻家としての底意地の悪い観察もあった。が、宗琳の腕をみて、「器用な子やねえ」と、思わずうなった。  朋琳は息子が世話になるというので挨拶に伺ったが、玄々は小柄ながら豪快な性格で、天下の三越を向こうにまわして、まさに意気軒昂としていた。 「あの観音はわしの夢や。三越からいくら金を引き出してもつくってやる。ワアッ、ハ、ハ、ハ」  豪語するだけあって、彫刻家としての技術は大変なものだった。小刀の使い方などもものすごく精密で、宗琳はずいぶんと啓発された。昔の江戸仏師は、髪の毛一筋をタテに二本に切った、という。截金師《きりかねし》を紹介して欲しい、と頼まれて、朋琳は北村|玉芳《ぎよくほう》という名人を推薦した。玄々と北村はともに大酒飲みで、大晦日の夜から延々と飲み出して、正月三日まで、とうとう三日間ぶっつづけに飲み通したほどだった。 「玄々先生、この観音さん、ナンボかかりますかいな」 「まあ、六億というところかな」 「ほな、わしのほうが上や。七億(質置く)やさかいな」  こんなたわいのないやりとりをしながらグイグイと飲む。宗琳も、他の弟子たちと一緒に玄々の酒席に侍ったことがあった。豪快に飲んでいる最中に、玄々が「ちょっと失礼」といった。すると、弟子の一人が素早く手桶を持ってきた。玄々はくるりと後ろ向きになると、満座の中で座ったまま、手桶の中に小便をした。そしてまたくるりと前を向いて、何事もなかったように盃を飲み干している。宗琳はその豪快さにびっくりした。何事もケタはずれのスケールを持った彫刻家だった。  宗琳は玄々に驚嘆したが、しかし朋琳には、江戸仏師には負けたくない、という強烈なライバル心があったのも事実だった。朋琳はのちに、やはりヒノキで薬師寺の大伽藍を造営している西岡常一棟梁と『木のこころ 仏のこころ』という対談をしているが、四天王寺の仁王像をつくったころの話をこうしている。 〈浅草の仁王さんしてはる人が、これ(四天王寺の仁王像)がテレビに出た時、わざわざ見にみえました。錦戸《にしきど》真観という人ですが、そのお方は、もう一人のお方と二人でひとつお造りになっている。そこで私も浅草へ見に行きました。比べ合いみたいなもんですわ。いかがかな、てなもんや。で、私は負けなかった、という感じがした。向こうは向こうで、そう思うてはるやろけど(笑)。あのお方の仁王さんは、私とこと違うて綿密に丁寧に彫ってはりました。うちのは荒いんです、どっちか言うと〉  朋琳は、木彫りの仏像の魅力は「荒彫り」にある、という考え方だった。浅草の仁王像は、朋琳の目には「ちょっと丁寧すぎ」と映った。それが何を意味するか、朋琳は忌憚なく披瀝している。 〈仏像の場合、あんまりつるつるに削り上げてしまうと、木で彫ったもんか、土でこしらえたんか、わからんようになってしまう。練りものみたいになってしまいます。それで私は、仏像は鑿《のみ》のあとが残ってないと仏様にならんと言うてます〉  これは江戸仏師に対する�勝利宣言�であると同時に、とかく観音像や弁財天などを彫りたがる宗琳に対する批判も含まれていたのかもしれない。なぜなら、観音像などの�静的なもの�は、どうしたって肌がつるつるになるように彫るからだ。それはまた同じ仁王像をつくっても、「現代の運慶」を自負する朋琳と、「現代の快慶」を目ざす宗琳の相異かもしれない。  宗琳が影響を受けた玄々は戦前、大正十一年に日本美術院からフランスに派遣されて、プールデルに師事し、洋風彫塑を伝統の中に取り入れた彫刻家だった。  朋琳もひところは「仏像は仏教のための仏像か、彫刻芸術としての仏像か」と、迷ったことがあった。「彫刻的に下手やったら、仏像としてもゼロだ」と思った時期もある。むろん技術あっての仏像だが、しかし、さほどノミの使い方がうまくもない人が彫った仏像の中にも、ハッと心をうつものがあるのはなぜだろうか。それは、その人が仏を信じ、敬虔に祈りながら無心に彫ったからだ。稚拙さの中にも仏心はにじみ出るのだ。そう考えたときから、朋琳は、芸術としての彫刻と仏像彫刻の違いを会得した。 「ヨーロッパを源流とする彫刻は、いってみれば自己を表現する、個性を主張することがテーマや。そやから見てみい。近代芸術いうたら、醜悪なるものの中に無理やり美を見出そうとしてるわ。自我というものを中心にすえたら、そこまでいかんとしょうがないところまできてしもうたんや。けど、仏像彫刻いうもんは、その自己を否定するところから出発するんやで。個性などというもんは一回否定するんや。そこで初めて自分の中の仏性が発見できるんや。そのとき仏さんを彫ることと自己を表現することが、初めて合一して、人さまに拝んでもらえるような仏さんが生まれてくるというわけや」  そう説く朋琳は、西洋の彫刻と仏像の決定的な違いを説明するとき、似かよったポーズをとっているロダンの「考える人」と、太秦《うずまさ》・広隆寺《こうりゆうじ》の弥勒菩薩を例にとった。  弥勒菩薩は、末法の世から五十六億七千万年のあとに出現して、迷える人間を救うとされている。この場合の五十六億などという天文学的な数字は、人間の数える一年=三百六十五日といった物理的な時間ではなく、あくまでも仏の�慈悲�が刻む�絶対時間�である。  仏を信じ、私心を去って�絶対�の境地に立ちさえすれば、五十六億七千万年後の世界は、今その人のもとに実現しているともいえる、というのが朋琳の考え方だった。 〈「考える人」は、人間があくまでも、�自我�を追求していく姿ですが、これに対して「思惟の像」は、仏が衆生を救済せんとしたもう�慈悲�のお姿であって、両者は形こそ似ておりますが、その内容は全く次元を異にしたものなのですな。  つまり、ロダンの「考える人」が西洋の�自我�の芸術の典型だとするならば、弥勒菩薩の「思惟の像」は、まさしく東洋の�没我�の芸術の極致を示すものと言えましょう。わたしは、この二つの像から、東洋と西洋の�美�に対する取組み方の相違を教えられるのです〉  技法の上からみても、西洋の彫刻、あるいは近代彫刻と仏像を彫るのとでは、根本的に異なっている。たとえば、ロダンやプールデルが彫刻をつくる場合、原型の塑像は粘土をこねて、粘土を張りつけながら形をととのえていく。いわば、西洋彫刻は、「増やす芸術」である。  これに対して、仏像は、木の魂を少しずつ丁寧に彫りながら、木屑を払いのけて、木の中におわす仏を迎える。仏像ほど木をコリコリと剥いでしまう彫刻は他にはない。仏教のいわゆる虚の姿勢というか、無の境地になって彫らなければ、木の中の仏を迎えることはできない。ちょっとでもノミの刃先に雑念が入れば、彫りすぎて仏の顔を傷つけてしまうからだ。朋琳は、若い頃はそこまでの心境に達することができずに彫りすぎ、どんなに仏さんが「痛い」と顔をしかめておられたことだろう、とあとで自分の未熟さを何回となく自省させられたかわからなかった。仏像彫刻は、木屑を減らして、減らして、ぎりぎりのところまで彫っていく、いわば「減らす芸術」なのである。  そのあとにエキスが残り、仏さんが崇高な姿をあらわしてくる。祈りをこめた仏師のこころとノミの技がマッチしていれば、その仏は「慈悲と愛」を表情にたたえているはずであった。仏師が一刀三礼、つまり木の魂にノミを入れるとき、ひとノミを入れるごとに、仏のみ心にかないますようにと、三回祈るというのは、木の中に仏がおわす、木にも魂があるということを知っている仏師ならではの敬虔な仏心から発していることであった。  朋琳が彫る仏像は、晩年になるにつれて、ますます簡潔なものになっていった。朋琳は「日本の美」は究極のところ「簡素美」にある、という境地に達していた。日本の美の原点は、たとえば伊勢神宮のたたずまいのあの崇高な美しさにある。何の飾り気もなく、それでいてあれほど美しいものはない、あれこそ簡素美の極致だ、というのが朋琳がたどりついた審美観だった。  伊勢神宮と比べたら、日光の東照宮のケバケバしい飾りは、朋琳には耐えられない醜悪なものに映った。徳川家の先祖を祀った東照宮の人間くささが所詮は、権力というものの虚しさをさらしているのに対して、神そのものをあらわしている伊勢神宮の神格の違いは、歴然としている。そして、桂離宮の簡素なたたずまい、禅寺の清楚なたたずまい、あの澄みきった美しさは、みな伊勢神宮の美につながっているのや、と朋琳は感じ入っていた。  朋琳はまた、日本の彫刻の始まりは埴輪だと思っているが、埴輪にも日本の美が息づいている。あれほど純粋で余分なものは何一つない、抽象化された美のエキスが埴輪だ、と高く評価していた。埴輪にたゆたっている「いのちのゆたかさ」が、万葉の調べにそのまま受け継がれている、というのが朋琳の考えだった。  定朝の阿弥陀如来をみても、絞って、絞って、もうぎりぎりのところまでつきつめている。朋琳は、自分はまだまだ絞り足りない、とこの道の奥の深さを改めて噛みしめずにはいられない。そして、仏像でも、日本の感覚というのは、やはり彩色しない白木の、素彫りの仏さんが日本の仏さんや、と悟るところがあった。  日本画の運筆にしても、サアーッとした一筆のうちに、奥深い複雑なものが表現されている。熊谷守一の絵にしても然り、良寛の書にしても然り、すべて簡素美の極致に達している。芭蕉の俳句の結晶のような言葉、能のもつあの幽玄な美しさ……。朋琳にいわせれば、簡素美をつくりだした日本人のこころこそ、「日本人の魂」に他ならなかった。 「略《りやく》や、これが簡素美のエキスや。けど、これが一番むずかしいんやで。人間のこころの奥深くに存在する永遠なるものの美が、生命の鍛《きた》えを通して内から輝き出してくるような美しさや。それが簡素美の本質やなあ」  朋琳は、弟子たちに諭しながら、その実、自分の内なる仏師の魂に語りかけていた。 「西洋のもんは正反対や。絵でも、彫刻でも、いろいろと積み重ねていくやろ。あれは信じきれんのや。余白がこわいのや。いのちに対する不信というたらええか、どうも究極のものを信じきれない不信があるのと違うか」  朋琳は、こういう日本の簡素美が生れてきた日本の重み、伝統の深さ、そして「日本人の魂」の不思議さを思わずにはいられない。 〈�略�に入ったものは、彫刻にしても、書にしても、絵画にしても、自分自身がそのまま生粋な姿となってその作に結晶して出てくるのですが、それらはまた同時に、みな簡素美という日本美の極致を指し示しているのですな。  永遠が永遠と向い合っている姿です。いのちの本質といのちの根源とが融然と合一している姿です。日本美の極致は、宇宙の神秘そのものと言ってもよろしいのやないでしょうか〉  朋琳はますます「慈悲のこころ」というものについて考えるようになっていった。それは東洋的なもの、日本的なものについて、仏師の心を研ぎ澄ましていくということでもあった。朋琳は、九條山に住むようになってから、毎朝、太陽が昇る前に起き出して、近くの将軍塚まで散歩がてら登ることを日課としていた。この山のことを「思案の山」と呼んでいた。  将軍塚は、九條山の工房から約一キロ半の坂道を登ったところにあり、山頂からは京都市街の景観が一望できた。南禅寺、黒谷《くろだに》を前景として、遠く鞍馬山、比叡の山脈《やまなみ》までが見わたせた。ここは青蓮院《しようれんいん》の飛地境内で、大日堂があり、そこにはいつの時代ともわからない石の古仏が祀られていた。さらに境内には、周囲約十メートルの円形の塚があり、草木が生い繁っている。征夷大将軍坂上田村麻呂の古墳と伝えられ、京の都に異変があると塚がグラグラと鳴動するといわれていた。  坂道は現在、有料のドライブウェーとなっているが、朝六時頃は車もほとんど通らず、朋琳はゆっくりと曲がりくねった道を登っていく。途中で日が昇る。赫奕《かくやく》として昇る朝日を真正面に受けて合掌しながら、朋琳は、今日も生かされていることの喜びに感謝するのだった。科学万能の世の中というけど、このお日イさんのように、どの人間にも自然にも、生きとし生けるものすべてに分けへだてなく、光明とエネルギーを与えてくれるものを、科学者だってつくれはしないではないか、科学がすべてではない、と朋琳は思う。  頂上に至るまでの間、赤松、クヌギ、桜、紅葉……四季折々の変化を見せてくれる、美しい自然の中を登っていくと、小鳥のさえずりが耳に快かった。ズックをぬいで裸足になることもあった。落葉の季節には朽ちた葉が敷かれ、炎暑の季節には干からびたミミズを蟻が引っ張っていたりした。あらゆるものが土から生まれ、それぞれのいのちを生きたあとに、また土に還っていく。大地は�神の肌�や、それにふれることによって、人間もまた健やかに育っていくのだ。  日本人の�もののあわれ�とか、�わび��さび�という美意識は、この自然とのふれあいの中から生まれてきた。土に還る文明にこそ、美というものの実相がある。いつまでも朽ち果てないプラスチックやビニールなど、土に還らない文明には公害があるだけや。落ち葉の風情がわからなくなったら、もう日本人はおしまいや、と朋琳は思うのだった。自然は大調和運動のなかで循環している。それこそ仏さんのはからいや。朋琳は自然に生かされていることのありがたさを、毎朝こうして散歩することによって、実感させられていた。朋琳はこういっている。 〈山の散歩によって、わたしは森羅万象のなかに仏がましますことを、はっきり実感することができました。自然のたたずまいを素直な心で見さえすれば、到るところに仏のはからいが感じられるはずです。わたしたち人類は仏にかこまれて生きているというてもよいのです〉  朋琳は仏師として仏像を彫る。世の人々は、神、仏の象徴として、朋琳ら仏師のつくった仏像を拝んでいる。しかし、いくら心をこめて合掌し、拝んでも、仏像から何ら応答があるわけではない。仏像はあくまでも神、仏の仮の姿であって、神、仏そのものではないのだ。だが、太陽、そして自然は仮の姿などでは決してなく、ちゃんと応答してくれる。少なくとも朋琳は、言葉としてではなく、自分の体に直に「ご返事下さる」太陽と自然こそ「神、仏そのもの」と思っていた。『御手の上にて』という自著でも、こう語っている。 〈太陽の光と、緑の空気を、感謝の念をもって、胸いっぱいに吸いこめば、そこに、み仏の恩恵が満ちあふれてまいります。魂の充実と、肉体の爽快さを覚えます。その日一日が、わたしにとっては楽しく、気分よくすごせるのでございます〉  こうした朋琳の独得の自然観、人生観、宗教観は、いわば�朋琳教�というべきものであった。このころから朋琳は仏師であると同時に、宗琳にいわせれば、「宗教家」としての生き方をみせ始めていた。かつて天理研究会に激しくのめり込んだ体質を持つ朋琳は、幾多の魂の遍歴を経た末に、この頃は「生長の家」の谷口雅春の説く「万法一如《まんぽういちによ》」の思想に深く惹かれていた。  古来より、日本人は八百《やお》よろずの神々や仏を信仰するという、多神教の形をとってきた。仏壇には阿弥陀如来、あるいは大日如来などの仏を安置して合掌し、居間や台所には天照大神、金比羅さん、恵比須さんを祀り、灯明をあげて拝む。それをごく自然に習慣としてやってきたし、クリスマス・イブにはまた大騒ぎする人もいる。一神教の外国人が見たら奇異に映るが、この日本人独得の多種多様の神仏観こそ、日本人のものごとに対する柔軟性のあらわれであり、その大らかな宗教感覚によって、日本人の精神的な基盤が築きあげられてきたのではなかろうか。 〈「万法一如」を唱えられる生長の家さんの姿勢に、宗教本来の、そして究極の意義がございます。古来よりの日本人の資質には、そういう万法一如の宗教的素養が伺《うかが》え、今日にも息づいていると感じます。変化自在の神仏の妙諦《みようてい》を無意識のうちに覚え、体得しているのが、日本人の宗教意識の根底を成しているように思えます〉  朋琳は、仏像でも最近はとみに「木喰《もくじき》仏」や「円空《えんくう》仏」に惹かれるようになっていた。若いころはそうではなかった。昭和の初めころ、京都府立図書館で催された木喰仏の展示会を見たことがあった。どれも同じような顔をして、立体感がないことが不満だった。早々に退出した。あまり高い価値は認められなかった。  ところが、老境に入るにつれて、木喰仏に対する考え方が変わってきた。あれは彫刻やない、信仰の産物や、そう気がついたのは、朋琳もまた深い信仰の中で仏像を彫るようになっていたからであろう。  木喰上人は享保三年(一七一八)に生まれた遊行僧で、木喰五行明満上人ともいう。四十五歳のときに、観海上人から「木喰戒」といって、米、麦、粟、稗《ひえ》、豆の五穀を断ち、一生食わないという行を与えられ、以後の生涯を許されているソバ粉だけで通した。そして一所不在、千体造仏の願をかけて旅から旅へ、乞食《こつじき》をしながら諸国を回り、文化七年(一八一〇)に九十二歳で入寂するまで、いわゆる木喰仏といわれるものを彫った。 木喰の袈裟も衣も破れても まだ本願は破れざりけり  という和歌もあるほどだ。木喰仏の特徴は必ず微笑しているところから�微笑仏�ともいわれている。専門の仏師である朋琳からみれば「|しろと《ヽヽヽ》芸」にしかすぎないが、しかし、木喰の彫った仏さんには祈りがある、あれは信仰の産物や、技の巧拙など問題やない、と朋琳は、木喰仏の真髄を見透せる年齢に達していた。  江戸中期の円空が彫った仏像もそうだった。円空は美濃(岐阜県)の人で、十二万体の仏像彫刻の大願をおこし、北は北海道までも乞食行脚して仏像を彫り、飛騨の千光寺にも寓して、いわゆる円空仏を残したが、丸太を割ってナタでザクリと荒削りしている素朴な仏像は、不思議な魅力があった。それも深く激しい祈りの心から発した信仰の産物だった。円空は、木など選ばずに、目の前にある木をとると、気合いもろとも彫りまくり、十二万体の大願を成就したとき、思わず「わたしは仏になれた」といった、という。  木喰仏は、民芸運動を展開した河井寛次郎や柳宗悦、浜田庄司が、民芸の精髄として賞揚したことから再認識されたが、朋琳も最近では、無心のノミをふるった木喰仏や円空仏に信仰の真髄をみたのであった。  朋琳は、亡くなった妻の婦美と同郷だった作家の水上勉と会う機会も多くなったが、水上勉は『松久朋琳 人と芸術』という一文で、朋琳が語った言葉をこう記している。 〈「円空さんや木喰さんは、本当の自由人といえますわ。欲界を捨てて、家もなければ妻も子もなかった。何者にもとらわれん飄々たる行雲流水、土の温かみを知って、天然自然とともに生きられた。あそこに仏の慈悲に抱かれておられた姿がありますよ。そやから、どんな小さな木っ端でもひろうて、仏さんにしやはりました。売ってみたとて二足三文にしかならしません。わしらは、じきに金にしようと思いますけど、円空さんは売る目的やおへなんだ。十三《ママ》万体の仏さんを彫ることを発願されて、一生の仕事ときめて、垢だらけの体にやぶれ衣をきて、諸国を廻ってはります。木ィを見つけはったら、そこで彫ってはりました」〉  朋琳もまた三千体とも四千体とも、自分でもわからないくらい仏像を彫り、大寺大塔に奉安されている仏像を除いては、ほとんどが散逸してしまって、どこで、誰が拝んでいるのか、今は確かめるすべがなかった。木喰仏や円空仏と同じ運命をたどっているのである。それは人生の暗い闇を生きながら、ひたすら仏像を彫ってきた三人の人生に共通していた。  水上勉は、同じ一文の中で書いている。 〈人の子に生れた以上は、死別も自然の運命である。だが、幼い子を夫にあずけて早世してゆかれた婦美さんへの、朋琳さんの愛は美しく、亡きあと、後妻をもらわず、欲心の起きる己れを律してノミ一本に全身の力をむけられた第二の人生は、まことに、円空、木喰への道だったと思っても言いすぎではなかろう。そう思わないことには、あの温かいまなざしと、飄々とした中に、きびしいととのいを見せておられる風格があぶり出てこない〉  いまでは、わが身一つ、ノミ一本あればいいという「魂の自由人」となった朋琳が、別の仏師人生を確立した宗琳と、いわば決定的に対立をすることになるのは、避けることができない宿命だったのかもしれない。  宗琳は、一門の小仏師たちを率いて、昭和五十八年には、成田山新勝寺で、日本一巨大な丈六の不動明王と金剛夜叉、降三世、軍荼利、大威徳各明王の、いわゆる五大明王の制作に取りかかっていた。  成田山明王院神護寺新勝寺は真言宗智山派大本山で、川崎大師平間寺、高尾山薬王院とともに智山派の�関東三山�に数えられ、また本尊の不動明王は、高幡不動、大山不動と並んで�関東三不動�として、関東のみならず、日本を代表する民衆の寺として信仰を集めている。歌舞伎の初代市川団十郎からの結びつきも有名で、節分会には関取やタレントなどが豆をまいて賑わい、年間参拝者は一千万人を超えるといわれている。  この成田山に日本一の大塔が建てられることになり、そこに祀る五大明王を依頼された宗琳は、日本一の大塔なら日本一の五大明王がふさわしい、と具申し、成田山側から「あんたの好きなように、思う通りにやって下さい」といわれた。松田|貫主《かんす》の�鶴の一声�だった。そのため知人の大塔の設計者、大森健二は内部の設計の変更を余儀なくされ、宗琳にこうボヤいた。 「ほんまに坊主と仏師は無茶苦茶や」  日本一の五大明王をつくるのには、当然それを可能とする仏師たちがいなければおぼつかない。むろん宗琳には自信があった。すでに�九條山仏所�を第一工房とし、山科の大宅《おおやけ》にも第二工房ができていた。内弟子たちも四十人を超えている。宗琳が意図してきた「現代の仏所」は、まさにその栄華のときを迎えていた。定朝の時代を第一次黄金時代、運慶一門の時代を第二次黄金時代とするなら、朋琳・宗琳の現代は第三次黄金時代と位置づけられるかもしれない。  町医者のような仏師がいてもいいし、総合病院の規模を誇る仏師集団があってもいい、というのが宗琳の基本的な考え方だった。五大明王は完成し、宗琳は昭和五十八年に、成田山新勝寺からも「大仏師」号を授けられた。すでに宗琳も六十歳を目前にしていた。  宗琳は、仏所が繁栄し、いまの仏像ブームを維持するためには、後継者の仏師たちをたくさん育てなければならないという使命感を持っていた。現代っ子たちに仏像彫刻の魅力を知ってもらうためには、父がやってきたように住み込みの徒弟制度ではだめだ、父の時代といまとは時代も人々の考え方も違ってきている、もっと現代にマッチした育て方があるはずだ、と模索していた。  その結論が、現在の中京区御幸町三条下ルに「仏像彫刻会館」を作るという構想だった。すでに八十三坪の土地を昭和五十三年に九千万円で購入し、木造二階建ての家を作り、家族四人で住んでいた。新丸太町で借家住まいを三十数年して、やっと手に入れたわが家だった。この木造の家をこわして、五階建ての近代的な会館に作り直すことにした。そして、明るい快適な工房で若い弟子たちに仕事をしてもらう。カルチャーセンターのための教室も作る。仏像に関心や興味のある人たちが、気楽に寄れるような宗教的な雰囲気をもった会館にしたかった。予算をはじくと二億五千万円かかるという。宗琳にとっても並々ならぬ決心を要したが、経営的な手腕もある宗琳は、人生最大の賭や、と度胸を決めて踏み切った。  現在、「松久仏像彫刻会館」は、一階がギャラリー、二階が御幸町工房、三階が彩色、截金工房とセミナー教室、四階が松久家居室、五階が展示室となっている。玄関には仏像彫刻研究所、宗教芸術院本部 松宗院《しようそういん》截金の看板が掲げられている。宗琳の構想は成功した観があるが、これを建築すると聞かされたときの父朋琳の猛反対は、宗琳の想像をはるかに超えるものだった。 「おまえ、いったい何を考えとるんや。仏師が金儲けの商売人みたいなことして、それで仏さんが喜ぶと思ってんのか。アホらしゅうて話にならんわ」  父が吐き捨てるようにいって、息子を罵倒した。宗琳もいうべきことはいうつもりだった。 「ぼくはぼくの考えでやるさかい、お父ちゃんは黙って見ててくれればいいんや。いまはお父ちゃんの時代と違うんやで」 「時代なんか関係ないわ。仏師は心で彫るもんや。そんな会館なんぞ建てたら、金ぐりのことで頭が一杯になるやろ。そんなん不純な心で仏さんが彫れるわけないやろ。アホなこと考えんとき」  父は不快感をむき出しにして猛反対した。父子の対立は決定的なものとなり、あとは平行線だった。妻の芳子が、宗琳に不思議がった。 「あんたの親、違うね。さかさまね。普通の親なら、息子が大決心してやる仕事は、しっかりやれ、と励まし助けこそすれ、あんたの親は反対に足を引っ張るんやから」 「ライバルなんや。ぼくが父の上にいったらいかんのや。あの人はいつも自分が本尊を彫らんと喜ばん人や。脇侍を彫るのは絶対に我慢できん人やさかい」 「それにしたって、自分が金を出すわけやなし。反対なら反対で黙って見てればいいのに」 「父子でも敵なんやで」  と、宗琳は妻にいった。父がこんなに猛反対するとは信じられなかった。父は九條山の工房を売られてしまうと誤解したのだろうか。父は院政をしく気でいたのかもしれない。山科の第二工房を作ったときも、弟子の中からピックアップして、九條山に連れて行こうとした。宗琳は、父の心がわからなかった。 「作家の業《ごう》かも知らん。ぼくは父にとって第一の敵になってしもた」  しかたないな、と宗琳は悲しく呟いた。展示室を作ると知ったときの父の反対は、もっと凄かった。宗琳は、自分が彫った仏像の原型はみんな保存していた。自分が死んだあとも、原型と資料が残っていれば、弟子たちが勉強さえすればいくらでも制作することができる。それに、仏像を注文する施主やスポンサーが展示室のサンプルを見れば、この仏像がいい、というように具体的なイメージがわいて契約もスムーズにいくだろう、と考えたからであった。師事した河井寛次郎も、共同でつくった木彫百点以上を、全部手もとに置いていたから、その影響もあったのだろう。  父は、そんな息子を一笑にふした。 「人は本来、無一物で生まれて、無一物で死んでいくもんや。そんな仏像をいつまで飾っておくつもりなんや。わしなんて、仏さんはつくった瞬間からもう過去のもんやで。展示室の仏さんなんて、そんなもん見たくないわ」  宗琳はいま、はっきりと父と訣別するときがきたことを悟った。もはや妥協の余地のない対決だった。朋琳もすっかり息子に愛想をつかした。昭和六十年に仏像会館が完成したあとも、「見たくないわ」といって、朋琳はとうとう一度も足を踏み入れなかった。宗琳は、完全に父に憎まれたことを知った。あとはお互いの仏師人生を全うするしかなかった。  朋琳と宗琳は、ずっと、「一人一仏」運動というのをやっていた。�九條山仏所�は最初、松久父子と出口翠豊、今村宗円、江里康則の三人の弟子、わずか五人でスタートしたが、いつの間にか九條山の工房に、仏師志願の若者たちが押しかけてくるようになり、今では独立したもの、二つの工房に現にいる内弟子などを含めると、六十数人になっていた。それに一般愛好者を会員とする「宗教芸術院」を開設したことから、二百人を超す人たちが毎週日曜日と水曜日、九條山の工房にきて、自分だけの仏像を彫っていた。さらにカルチャーセンターなどに仏像教室が設けられ、講師として教えることも多くなった。  朋琳は、昨今の�仏像ブーム�をたんに流行現象とは考えていなかった。たとえ、その発端は、�手づくりの業�への単なる郷愁であったにせよ、花鳥風月ではなく、み仏そのものを彫りたいというのは、人それぞれの心に内在する仏性が、やがて発露してきたからだ、と信じていた。若者たちは、若者たちなりに、人生というものを思いつめ、真摯《しんし》に生きようとしているのだということを、彼らの黙々として木彫りに励む姿から感じさせられた。  たとえば、昭和二十五年生まれの柚山《ゆやま》勇治郎は、同志社大英文科を卒業したあと、詩仙堂の離れで座禅を組み、能面の面打ちを十年近くやったあと、大学時代の友人が彫った観音仏頭を見て、自分も彫ってみたいと思うようになり、九條山の日曜教室にきた若者だった。その後ずっと精進してプロの仏師になり、現在は、御幸町工房の塾長をしている。  総塾長で滋賀工房の責任者をしている東|朋正《ほうせい》は、昭和二十四年、三重県の左官業の家庭に生まれ、早く両親に死別したあと、中学卒業と同時に朋琳の内弟子となった。そして四天王寺の丈六阿弥陀仏のときは小仏師として、四十人にものぼる若者たちのチーフ格として働いたのだった。  教室に通ってくる人たちは、小学生からOL、主婦、老人まで実に多彩で熱心なのが特徴だった。朋琳は弟子たちと手を携えて、地紋彫り、仏足、仏手の彫り方から地蔵、釈迦如来、聖観音に至るまで指導した。この中から本物の仏師が生まれてくるかもしれなかったし、たとえ趣味でも、巧拙を問わず、彫ることによって自分の仏性と向かい合ってくれればそれで十分だった。  もともと「一人一仏」運動は、滋賀県にある施設、『近江《おうみ》学園』の経営難を手助けするため、昭和四十三年に奉仕として観音像を彫り、一体三千円で買ってもらったのが初めだった。この施設は、伊丹万作の名作『忘れられた子ら』の舞台として知られている。  この奉仕がきっかけで、一家に一仏を買ってもらう「一仏一家」運動から自分で彫る「一人一仏」へと発展してきたが、朋琳は、生徒たちに「教えて下さい」といわれると、自分で彫ってやってしまう。なかにはセコイ女性もいて、ついでに箱書きまで頼む人がいた。朋琳作の仏像として�商売�にする魂胆である。それをみると、宗琳は、父は指導と教育は違っていることがわかっていない、と思ったが、父は頓着しなかった。 「ええやないか、あの人が喜ぶならそれでええのよ」  仏像は、結局は自分の心の表現であるということを知っている朋琳は、その人の心の貧しさを哀れみはしなかった。いつか気がついてくれればよかった。  朋琳は六十歳の本卦還りのとき、みんなにお祝いしてもらった。その際、十二歳のときに初めて彫った福助を借りてきた。福助を見て、内弟子第一号の藤本陽二がいった。 「先生そっくりや。先生の十二歳のときはこんなでしたやろ」  いわれてみると、なるほど、チョコナンと座っている背中の感じから何まで自分の幼いときの姿にそっくりだった。自分で見ることができないはずの背中の格好が、無意識のうちに出ていた。そのとき朋琳は翻然として悟るところがあった。『仏の声を彫る』の中でこう語っている。 〈自分に似たものは彫りたくない、全然自分に似ないものを彫りたい、もっと仏らしいものを彫りたいと願ごうていました。ところが逃げられしません。仏性という圧力が、ぐっと出てきて離しまへん。そうしているうちに、やっと、自分自身から自分は逃げられんということがわかってきたのですわ。これが本当のわたしなのだと。いいかえれば、自己の�仏性�を発見した、自己の�仏性�と出会えたということなんですな。仏を彫ることと自己を表現することが、このとき初めて融然と合一したともいえますのや〉  現代の京都を代表する詩人の臼井喜之介が、『京都』という雑誌に『仏師』という詩を載せている。   明るい部屋の片隅に坐って   老いた仏師は   黙ってノミをふるう   部屋いっぱいに楠の香がただよい   シルエットになった仏師の姿が   まるで そのまま仏さまのようだ—— [#改ページ]   終   章  その日、昭和六十二年九月一日、朋琳は、宇治にある末娘の真百美夫婦の自宅で目を覚ました。近頃は、九條山の工房と真百美の家を往ったり来たりして過ごすことが多く、今回も二日前から来ていた。宇治には、定朝作の阿弥陀如来像で有名な平等院鳳凰堂や醍醐寺など古刹が多い。真百美の自宅、堀内家は新興住宅街の一画にあった。  二階建ての家で、玄関を入ると上がり口に、朋琳が昭和五十五年につくった二尺五寸の「竜女」(阿修羅)が置いてある。二階は宇治教室になっていて、朋琳はここでも「一人一仏」の指導をしていた。真百美も観音像などを彫った。一階は六畳二間に広い台所、彫刻用の用材などを入れた物置きが二つあり、朋琳が仕事をする場所は、茶畑に面したほうの六畳間だった。小刀、ノミ類などの工具を入れた道具箱とヒノキ材の仕事板が置かれ、いつでも仏像が彫れるようになっている。  壁には、昭和四十九年四月二十九日、時の田中角栄総理大臣から授与された勲六等瑞宝章の額と、比叡山延暦寺からもらった「法橋」の額がかかっていた。  朋琳は朝風呂に入り、真百美が用意した和食の朝ご飯も普通に食べた。仕事に追われていた。手紙を六通書き、制作中の六寸の阿弥陀仏に両手をつけた。朋琳は一週間ほど前に、九條山の工房で木屑が飛んで左目に入り、目を赤く充血させていた。「こんなことはよくあることや」と、心配する真百美をよそに、朋琳は気にもとめなかった。  午前十時ごろ、隣の家の奥さんがきて、阿弥陀仏の手を彫っている朋琳と世間話をしていた。真百美はコーヒーとメロンを出した。朋琳はメロンやスイカが大好きだった。食事では釜飯や炊き込みご飯を好んだ。隣の奥さんが帰ったあと、父が大好物のメロンを残しているので、真百美が「どうして食べないの」と聞いた。 「お腹が冷えたのか、少ししくしくするのや」 「それなら胃腸薬の陀羅尼助《だらにすけ》丸があるから、それを飲むといいわ」 「おまえのところにはええ薬があるなあ、わしの体にはこの薬がぴったしやで」  朋琳はそういって、薬を服用したあと、布団に横になった。 「お昼ご飯はもっと後にするさかい、おかゆさんにしてや」  その日は、京都府警の山科署に勤務している夫の堀内隆太郎も、久しぶりに勤めを休んで在宅していた。堀内夫妻は昭和三十三年三月、京都市の高山市長時代に市長公舎で�市営結婚�をし、順平という一人息子がいたが、順平も結婚して近くに住み、このとき朋琳にとってはひ孫にあたる男の子が生まれたばかりだった。  真百美は夫とともに、先に昼食をとった。食べ終わった直後、父が起きてきて小走りにトイレに行った。すぐ引き返してくるなり、いきなり布団の上に倒れた。様子がおかしいと思い、真百美が「どうしたの」と、父の顔を布団からあげると、「お腹が痛い」とか細い声で返事をした。顔色も悪かった。ただごとでないと察して、夫が救急車を呼んだ。間もなく、救急車の音がしたが、場所がわからないのか、堀内家の近くを通り過ぎていく。真百美が家から飛び出していた。  やっと家の前にきた救急車に、朋琳は担架に乗せられて運び込まれた。このときは、後から乗った真百美の手をものもいわずにぎゅっと握りしめる力はまだ残っていた。「もう行くでえ」とか、「元気でおれよ」「しっかりせえや」とか、「守ってるでえ」と、その手が語りかけているようだった。真百美は、握っている父の手がだんだん冷たくなっていくのが気になった。「もうすぐよ」と励ましながら、不安にかられていると、救急車は三分くらいで宇治市内の大和病院に到着した。  あわただしく救急室に運び込まれると、すでに三人の医師が待機していた。看護婦が真百美を部屋の外に出して、名前と住所を書いて下さい、といって用紙を出した。真百美がふるえる手で書いていると、看護婦が告げた。 「すぐ身内の方を呼んで下さい」  真百美は動転した。これは大変なことになった、とにかく落ち着かなければ、とかろうじて自分にいい聞かせ、すぐに長兄の宗琳と次兄の鼎、それに下関にいる姉の喜佐子に電話をした。夫の堀内もすぐに病院に駆けつけてきた。二人は救急室の前をうろうろして、部屋の中の様子を不安気に聞き耳をたてていた。  次男の鼎は、そのとき暴力団事件担当の府警捜査四課長をしていて、緊急の電話連絡を受けたとき、松原署の署長室にいた。「お父さんが、急病で倒れた」と聞いて、仰天した。つい最近、寿命の神さまである妙見菩薩を彫って、ある寺に奉納したばかりだった。それに三日前、父と酒を飲んだばかりだった。姉の愛子が結婚した福井の小原家の右門は、愛子が結核で死んだあと、再婚したが、右門もほどなく亡くなった。その後妻が胃潰瘍で神戸の病院に入院した。血のつながりはないとはいえ、小原家は鼎が育ててもらった家である。見舞いに行かなければと思い、まず九條山の父にもそのことを知らせに寄った。  朋琳は、九條山の工房で、訪ねてきた女客三人と、寿司を食べながらビールを飲んでいた。父は「おれも見舞いに行くわ。おまえも飲め」といって、女客を帰して、神戸行きの用意をした。父子は快速電車で神戸に向かった。神戸駅の階段を上がるとき、父の足が少しもつれた。えらい足弱ったなあ、と鼎は心配した。  見舞いがすんで、京都に戻ってきたのが八時半すぎ。すぐタクシーで、河原町丸太町上ル西側にあるいきつけの小料理屋に行き、そこで父子で生ビールを二杯ずつ飲んだ。店には鼎の同僚がいた。そのあと、父が「ちょっと行こか」といって、これまたいきつけの祇園のバーに河岸《かし》を変え、そこでもビールをコップで干した。そして十一時すぎ、鼎はタクシーで父を九條山へ送っていった。 「おやすみ」 「気イつけて帰れよ」  父は手を振っていた。それが鼎が父と言葉を交わした最後だった。朋琳はその日のことを真百美にもちゃんと話している。三十日の夕方、疲れ顔で帰ってきた父に、「どうしたの」と、真百美が少し怒り顔で聞くと、 「それがなあ、早よう帰ろうと思うとるんやが、鼎がきてなあ、岡田の八右衛門の姉さんが病気で神戸の病院に入院してるんで見舞いに行く、というのや。こりゃえらいこっちゃと思うて、昨日は鼎と二人で神戸に行ってきたんや。帰ってきたんが夜の十一時ごろやったさかい九條山で寝たんや。今日は、吉志部《きしべ》はんがきてくれたんで、大津の三井寺まで連れてもろうて、弁慶の引摺り鐘を見てきたんや。それにお昼ご飯は精進料理でおいしかったで」  父がいい訳をした。朋琳は、三井寺にある有名な弁慶の引摺り鐘の仏像をつくる仕事を頼まれていたので見に行ったのだ。 「そのまま放っておいたら、目がつぶれてしまうわよ」  と、真百美が少しおどかすと、父は翌日は素直に家にいて、おとなしくしていた。そして九月一日の朝を迎えたのだった。  大和病院では異常事態が起きていた。救急室の中から、外で聞き耳をたてている真百美と夫に、「瞳孔が開いて三十分です」という声が聞こえてきた。その瞬間、真百美はがっくりして椅子に座ると、恥も外聞もなく大声で泣き出した。今朝まで元気だった父が急に死んだなんて、信じられなかった。放心状態でいると、鼎が駆けつけてきた。 「おまえ、泣くな」  鼎は、泣きわめく妹を不憫《ふびん》に思いながら、そうたしなめた。  そこに、長男の宗琳夫妻が「びっくりした」といって、やってきた。しかし、長兄の宗琳は「父のそばにも行かず悲しむ様子もなく、饒舌になっているように」まわりの人の目に映った。医者が遺族たちに告げた。 「機械を止めますからね。ご臨終は三時四十三分です。これから死因を調べます。決して痛いことはしませんから、ご心配なくもう少しお待ち下さい」  それから一時間後、朋琳はきれいな浴衣を着て、ベッドに眠ったままエレベーターから出てきた。死因は腹部動脈瘤破裂。肝臓にトラブルがあって動脈瘤ができ、それが破裂したためだった。大仏師・松久朋琳、八十六歳の生涯だった。朋琳は、寝台車に乗せられ、鼎に付き添われて、九條山の工房へ悲しみの帰宅をしていった。真百美は、これが父と最後の別れになった。この直後、真百美は異常な体験をすることになるのだ。  宗琳は、父朋琳が亡くなったとき、 (ああ、すんだな)  と思った。不思議なことに、親子としての死別の悲しみよりも、ライバルが去っていった、あとは父の顔を見なくてもすむ、という気持ちのほうが強かった。  毘沙門堂執事長の生田孝憲師は、この日、午後から、朋琳を案内して、山科の小料理屋で飲むことになっていた。小料理屋の主人が、朋琳の大ファンで、それじゃ案内してこよう、と生田師がいうと、主人が大喜びして昼から商売やめて待っている手はずになっていた。出口翠豊が朋琳を連れてくる約束だったが、出口から連絡がない。二時半すぎにやっと電話が入ったが、出口が「先生、あかんのや」と涙声でいう。事情を知って、今度は生田師が動転した。すぐに大和病院へ車を走らせたが、死に目にはとうとう会えなかった。  生田師と朋琳は、半ば冗談、半ば本気で約束していることがあった。一年ほど前、ある夫妻が揃って毘沙門堂で得度を受けた、その祝いの席で、朋琳が上機嫌でいった。 「若い方がいまから仏さんに帰依するとは偉いですな。それに比べて、わたしは仏さんばっかり彫って、あんまり仏さんに心安うなってしもうておるので、いまさら得度はようしまへん。生田先生、ひとつわたしが死ぬときに得度を受けますさかいに頼みまっせ。それにお金もないさかいに葬式代も安うしておくれやっしゃ」 「安心してまかしときなはれ」  満場の笑いの中で、生田師が半ば冗談に約束した。それがまさか現実になろうとは。剛胆な生田師も、さすがに動揺した。生田師は大和病院から九條山の工房に走った。  出口翠豊は一足先に九條山の工房に飛んで、若い弟子たちと、師匠の遺体を迎える準備をしていた。朋琳がいつも寝ている仕事場の隣の部屋をきれいに掃除し、布団を敷いた。やがて朋琳の遺体が運ばれてきた。生田師は、朋琳との約束通り枕経をあげて、成仏を祈った。  密葬は翌二日に行なわれた。作家の水上勉も参列した。朋琳は亡くなる七日前の八月二十五日、軽井沢にある水上の別荘を訪ねていた。二人の話ははずんだ。朋琳は上機嫌で、水上から竹人形の写真集をもらって、京都に帰ってきた。その直後、突然の訃報に呆然とした水上勉は密葬に駆けつけた。そして、『松久朋琳師を偲ぶ』という追悼文にこう記している。 〈なぜ、二十五日のあの午後三時頃、ひょっこり軽井沢にあらわれて、お元気なおしゃべりだったのだろう。 「こんど会ったら、うまいものを喰って、ひとつあんたとじっくりと若狭時代のこし方を話したいもんだ。あんたとは、いっぱいはなしたいことがたまっているんです」  といい置いて、電車の時間を気にしながらタクシーで帰られた。  ぼくは二日の朝早く、知人から電話で訃報をしらされて絶句した。信じられなかった。心温かい師は何げない顔で別れをつげにこられたのだろうか。まことに一期は一会である。あれが永劫の別れとは、人生は非情だ〉  密葬の導師は日蓮宗の僧侶だったが、生田師は当日、比叡山から今出川行雲、小林隆彰師らを同行して参列、「老先生と交わしていた約束を果たしたい」といって、音吐朗々、読経して、朋琳の冥福を祈ったのであった。朋琳の戒名は「和暢院浄明日栄居士」とつけられた。これでは誰も朋琳の戒名かどうかわからないだろう、と生田師は、この戒名のつけ方にも不自然なものを感じ、自分で「和暢院大仏師法眼朋琳大居士」と別につけた。  朋琳の本葬は九月十四日、日蓮宗の関西身延本山妙伝寺瑞雲閣で、約三千人の参列者を集めて盛大に行なわれた。喪主はもちろん宗琳、葬儀委員長は生田師、裏方の事務局長には出口がなって奔走した。比叡山延暦寺執行・小堀光詮、四天王寺管長・槙場弘映、友人代表・江里宗平、弟子代表・出口翠豊が弔辞を述べたが、遺族席に真百美の姿がなかった。  真百美は、ふだんから血圧が低いほうで、寝不足や疲労がたまると、頭痛と吐き気を催して、二、三日休まないと治らないタチだった。父の急死にショックを受けた真百美は、ひとまず自宅に戻って、弔問客や電話の応対にあたったが、あまりの悲しみにそれもうわの空で、一段落ついたとたん、胸にこみ上げてきたものを、傍にあったゴミ箱の中に吐き続けていた。そのとき、吐いた一部をいつか肺の中に吸い込んでいた。そして、彼女もまた生死の境をさまようことになった。異常な体験をしたのはそのときだった。真百美自身が書いている。 〈多分、三日目の夜のことでしょうか? 不意になんとも彼ともいえない良い気分になって、体がふんわりと空中に浮き上り、病室の天井が目の前に近づいてきたのです。私の下の方で先生方の声がして、私の体になにか必死にやっておられるのですが、私にはなんの感覚もありません。  私は今死にかけているな、こんなに楽になったからもういいですよ、天井にはものすごい雲の渦巻が見えて、これに乗って何処かに行くんだなあと、ふと横を見ると、父が雲に乗って向こうむきに寝ころんでいるのです。白髪の巻毛と肩と腰が見えて雲のおふとんを着ていました。父が迎えに来てくれたのだと思い、息子のことはもう一人前で心配は無いし、主人も初めは悲しむでしょうが、良い人だから又来て下さる方もあるからと、それにここまで来てしまったのだから、もう仕方が無いではありませんか、南無観世音菩薩様どうぞお任せ致しますと、心の中で念じておりました。  そのうちに意識を失ってしまい、気が付いた時に、右の鼻の穴から冷たい空気が流れて入ってきていました。その空気の美味しかったこと。ああ、私は生き返ったのだ、きっと父が、心配して助けに来て下さったのだとしみじみ思い、すぐに看護婦さんに伝えました〉  これは「臨死体験」といわれるもので、アメリカでは、死んだと思われた人が奇跡的に死の世界から生還し、かいまみてきた「死後の世界」を語る、こうした臨死体験者の話を収集し、それを学問的研究の対象としている。レイモンド・ムーディはその第一人者だが、臨死体験は、患者の精神異常による幻覚などでは決してない、とされている。真百美は、体が回復するまで三十四日間の入院生活を余儀なくされ、父の通夜、密葬、本葬に出られなかったのである。  朋琳はかねがね「子孫に美田を残さず」といっていた。そして事実、朋琳が亡くなったあと調べてみると、バラ銭は残っていたが、手もとには千円もなかった。年収にして一千万円はゆうにあったのに、見事なまでにきれいに使い果たして、そして、ある日、忽然と逝った。  宗琳は今、父の死について語る。 「父は人生の去り際が実に見事だった。美しかったと思う。ひょっとしたら、今でも自分は死んだと思っていないのではないか。彫って彫って、彫りまくった一生だった。父とぼくはともに攻撃的で激しさを生んだが、父は父で、仏師として、あらゆる意味で完全燃焼した生涯ではなかったろうか」  朋琳が亡くなる少し前、父と子はこんな話を交わしたことがあった。 「どんなにお父ちゃんとケンカをしたかて、所詮は父子のケンカ、八百丁やね」 「そうや、八百丁や。仏師は一子相伝やさかいな」  宗琳は、父はわかってくれていたのだな、と思った。父と子であっても、仕事の上ではライバル。一子相伝ゆえの歯に衣着せぬ父子の対立だった。  ともに大仏師だったゆえに、凄絶にぶっつかり合った父と子の葛藤は終わりをつげた。朋琳は、「死んだら、今度は閻魔《えんま》さんを彫らせてもらいますわ」と笑っていた。入棺するとき、ノミと槌《つち》も一緒に入れられた。輪廻転生を信じている宗琳は、父ならやりかねない、と父の後生がまた仏師であることを祈っている。  父朋琳の亡きあと、宗琳は「現代の仏所」の名実ともに総帥となって、なおも巨大な仏像に挑んでいた。平成二年の六月十二日には、石川県の那谷寺《なたでら》で丈六仏の千手観音像の開眼式が行なわれた。小豆島には百八メートルという日本一の、ということは世界一の大観音像がつくられることになり、すでに二十分の一の原型はできあがっている。この巨大な観音像は、もっとも現代的な建材を使ってつくられるというが、宗琳の夢は果てしない。  大仏師・宗琳の最後の夢は、長谷《はせ》観音の名で知られる奈良・長谷寺の三丈三尺の十一面観音立像を超す日本最大の観音像を木で彫ることである。朋琳は魂を彫り続けた仏師だった。京仏師の系譜につながり、定朝、運慶、快慶ら天才仏師を先人に持ち、丈五郎、朋琳、宗琳と続く「仏師三代」の血は、やがて四代目の真や、佳遊にも受け継がれていくのだろう。  朋琳は、「ねむの木学園」の宮城まり子とテレビで対談したことがあった。彼女が尋ねた。 「�仏つくって魂入れず�という言葉がありますが、魂とはどないにして入れるもんですか」 「�開眼式�という儀式はありますけれど、実際魂というもんは、入れようと思って入るもんやない。自然にわたしが仏にのり移ってしまう。これが魂を入れたことになるのと違いますか」  自分が仏心こめて彫った仏さんに、「慈悲と愛」の相があらわれて、それが人々の救いとなるなら、仏師たるもの、まさにもって瞑すべし、と祈る一刀三礼、入魂の大仏師の姿がそこにあった。 [#改ページ]   あとがき  魂を彫る、などといえば不遜に聞こえるが、それをなりわいとしているのが仏師である。が、人々が自然に合掌し、祈りたくなるような仏像は、彫刻であって、彫刻以上のものである。それをつくる仏師とはいったいどういう人間であろうか。私は仏像をみるたびに、その仏像が荘厳霊妙なものであればあるほど、それをつくった仏師の存在がいつも心の片隅で気にかかっていた。  日本の文化は、仏教文化を抜きにしては語れないが、それはとりもなおさず、仏教文化の精髄ともいうべき仏像には、この国に仏教が伝来して以来千三百年の日本人の精神文化が凝縮されているということである。その精神の深奥さは、現代の多くの日本人が見失っているが、人はそれでも誰もが魅了されている仏像の一体か二体かは、すぐに脳裡に浮かべることができるであろう。  それらの仏像をつくった仏師とはどんな人間なのか。むろん私たちは、法隆寺金堂の本尊、釈迦三尊像をつくった止利仏師が、わが国最初の仏師であり、平安時代に宇治の平等院鳳凰堂の本尊、阿弥陀如来をつくった定朝のことや、鎌倉時代に東大寺南大門の仁王像を彫った運慶、快慶の名前ぐらいは知っている。  しかし、仏像は古い時代のものばかりではない。現代でも彫られている。一方で、現代のさまざまな断面を人間ドラマとして書き、もう一方で、最近は仏教文化を中心とした日本文化に関心をもっている私が心惹かれるのは、「現代の仏師」についてであった。そこに本書の主人公、松久朋琳・宗琳の父子仏師がいた。  松久朋琳・宗琳は、平安時代に「和様」を完成させた定朝を始祖とし、運慶、快慶らを生んだ京仏師の系譜につながる「現代の大仏師」である。京仏師の伝統と技法は、今もなお朋琳・宗琳父子によって現代に受け継がれていたが、取材していくと、父子の人生から浮かびあがってきたのは、凄まじいばかりの修羅の生涯であり、父子の魂の葛藤だった。  松久朋琳は、明治三十四年十月二十二日の生まれ(戸籍上の届け)。京都御所を護る由緒ある官人の家柄に出生したが、実父が零落して、四歳のときに京仏師の松久丈五郎家に養子にもらわれた。十二歳のときに処女作を彫ってから、昭和六十二年九月一日に八十六歳で亡くなるまで、この道七十年余、一筋に仏像を彫り続け、「仁王の松久」ともいわれた。聖徳太子が創建した日本最初の大寺、大阪の四天王寺は昭和三十年代に大伽藍として再興されたが、その仁王門に今も安置されている仁王像一対はこの朋琳が彫ったものだ。  さらに、「日本仏教の母」、比叡山延暦寺の大講堂に奉安されている本尊、大日如来を彫ったのも朋琳である。天台宗延暦寺、和宗四天王寺、そして身延山久遠寺の三大聖地から「大仏師」を授与されたのは、明治このかた朋琳が最初の人だった。  宗琳は、朋琳の長男で、大正十五年二月十四日の生まれ。宗琳は、丈五郎、朋琳と続く「京仏師三代目」で、四天王寺の大講堂の本尊、「昭和の丈六阿弥陀仏」や成田山新勝寺に奉安されている「日本一の五大明王」を彫ったことにより、彼もまた和宗四天王寺と成田山新勝寺から「大仏師」を名乗ることを許されている。  明治の廃仏毀釈のあとにすたれ、戦後は「滅びゆく京仏師」とまで書かれた仏師の世界にあって、この父子がどんな修羅にみちた生きざまをつらぬいてきたのか。それを追ったのが本書である。  私はノンフィクション作家として、最初は『サハラに死す』『エベレストに死す』『マッキンリーに死す』という、いわゆる�死す�シリーズ三部作を書いた。「未知の世界」に挑んだ極限の死のなかにこそ、その人の生が凝縮している。この三部作は、世界的な冒険や登山をなしとげた日本人の行動の記録で、「動の領域」に属する。  そのあと、植村直己が「私のなしとげた五大陸最高峰登頂の記録など、回峰《かいほう》行者に比べれば恥ずかしいかぎり」と頭を垂れた、天台宗に今なお伝わる「千日回峰」のことを知り、『生き仏になった落ちこぼれ』という本を書いた。天台宗史上三人目という二千日回峰をなしとげた酒井雄哉大阿闍梨の話であるが、次には『飛天の夢』という作品につながっていく。法隆寺の宮大工三代の棟梁で、現在、奈良・薬師寺の大伽藍を造営中の西岡常一棟梁の話である。  そして、今回は仏師の話を書いた。モノ、カネ万能主義がはびこる現代の日本にあって、ひたすら自分の信念をつらぬく「聖僧」「宮大工」「仏師」を描いたこの三部作は、いわば「こころの領域」に属する日本人の魂の記録だが、私もまた何かに導かれて自然にここまできた、と今は素直にいうことができる。魂のやすらぎ、を求めるということはどういうことであろうか。  私たちは、神韻《しんいん》とした寺院のほの暗いあかりの中にたたずみ、すぐれた仏像と向い合っていると、世俗にまみれた心が洗われる思いがする。日本人は古来から、仏像のなかに「人間を超えた」大きな|何か《ヽヽ》をみてきた。  たとえば、和辻哲郎は『古寺巡礼』に記しているが、奈良・薬師寺の本尊、薬師如来の顔に「無限の慈悲と聡明と威厳」が浮かび出ているのを感じた。わずかに見開いたきれの長い眼には「大悲の涙」がたたえられているように感じた、とも書いている。「人間の顔ではない、その美しさも人間以上の美しさ」を秘めているもの、それが仏像なのだ。  すぐれた仏像は、この薬師如来に限らず、私たちに芸術的な美だけではなしに、もっと魂を激しくゆさぶるような敬虔な感情をみたしてくれる。それは仏像がたたえている「慈悲のこころ」が、私たちが本来もっているにもかかわらず、日常生活に埋没し、流されて、見失ってしまっている宗教的な感情を呼びさましてくれるからである。  日本人は本来、宗教的な感情をもっている民族である。そうした宗教心は、人間として生きる上での最高の規範となっていた。それがいつの間にか日本人から失われ、ことに現代にあっては、すべての価値をカネを基準にして換算する、愚かな国民になってしまった。今の日本人は、経済大国といいながら、その実、生きる上での規範を喪失して右往左往しているだけではないだろうか。  それだからこそ、人々は「大慈大悲」をたたえた仏像に対面したとき、見失っていた「こころ」が甦り、魂のやすらぎをおぼえるのだ。宗教心は、死を前にした病人や老人だけにあるのではない。むしろ今こそ、日本人は日本の精神文化の原点を凝視《みつ》め直すときではなかろうか。 「日本人の魂」とは何か。私は、明治、大正、昭和、そして平成の四代にわたって、愚直なまでに仏像を彫り続けてきた「京仏師」、松久朋琳・宗琳の父子仏師の生きざまを通して、この問題を考えてみた。そして、今後も、私は日本人にとって仏教(宗教)とは何か、仏教文化を中心にして「日本および日本人」を探ってみたいと思う。  この本が完成をみるにあたっては、松久宗琳・芳子夫妻はじめ、朋琳氏の子供さんにあたる今宿|鼎《かなえ》、堀内真百美、磯辺喜佐子の皆さんにお世話になった。また天台宗・山田|恵諦座主《えたいざす》、毘沙門堂門跡・生田|孝憲《こうけん》執事長らの高僧から教えを賜わったことにも感謝する。その他、一門の弟子や多くの人たちに取材させていただいた。ここでは紙面の都合で割愛させていただくが、心からお礼申しあげたい。  また、この本が上梓されるにあたっては、講談社学芸局局長・田代忠之氏、学芸図書第三出版部部長・富田充氏、特に担当して下さった湯浅智機氏の助言と激励によるところが大きい。改めてお礼を申しあげる。  なお、朋琳氏には『京仏師六十年』などの本がある。これも参考にさせていただいた。また文中は敬称を略させていただいたことを付記する。   平成二年九月吉日 [#地付き]長尾三郎 [#改ページ]   文庫化にあたって  今年もまた新年は、房総・大原町日在にある海の家で迎えた。大原の近在、安房小湊にある日蓮上人の誕生寺は、初詣での人たちで賑わっていたが、その山門にある仁王像は、上総国上野(今の勝浦市)の大仏師が江戸時代に彫ったものを「昭和の大仏師」といわれた松久朋琳師が見事に修復した風格のある仁王像だった。  新年を迎えたら、どの家庭でも神社仏閣に初詣でに出かけ、その年の幸福や平和、それぞれの願いを祈願する。古来からの日本人の宗教的慣習で、それはごく自然に毎年行なわれている営みである。  あるいは、たとえ観光旅行であっても、奈良や京都の古寺・名刹に出かければ、その寺のご本尊にまず手を合わせ、何事かを祈る。誰しもが、ごく自然に仏像の前には頭を垂れる。仏像にはそうさせる神秘的な威厳というものがある。  もっとも仏像といっても、奈良・法隆寺の釈迦三尊像、金剛力士像といった国宝、重要文化財クラスの仏像だけとは限らない。現代の仏師が彫った名作が由緒ある寺に奉納されている場合も多いのである。 「天王寺さん」と庶民に親しまれている大阪の四天王寺は、聖徳太子が創建した日本最初の大寺・大伽藍で、現在の伽藍は昭和三十年代に造営されたが、その中門に安置されている一丈五尺(約四・五メートル)もある巨大な阿吽の仁王像は、やはり松久朋琳師が心魂を傾けて彫りあげた昭和の名作である。  朋琳師は「木のいのち」を何よりもいとおしんだ大仏師だったが、衆生がこの世の幸せを願って祈るこれらの仏像はどのようにして彫られるのだろうか。私の関心はそこに向いた。  夏目漱石の『夢十夜』は、「こんな夢を見た」という書き出しで始まる十夜の夢の話だが、その第六夜に、運慶が護国寺の山門の仁王像を彫っているのを見た話が出てくる。運慶は鎌倉時代の大仏師だが、その運慶の造仏ぶりを見ているのは「明治の人間」の「自分」である。そこが夢のおもしろさだが、 「あのノミと槌の使い方を見たまえ。大自在の妙境に達している」  と、一緒に見ている若い男がわけ知り顔でいう。 「よくああ無造作にノミを使って、思うような眉や鼻ができるものだな」  と、夢の主人公が感心して独り言をいうと、その若い男が、 「なに、あれは眉や鼻をノミで作るんじゃない。あの通りの眉や鼻が木の中に埋まっているのを、ノミと槌の力で彫り出すまでだ」  と話をひけらかす内容だが、この夢にはオチがある。  その話を聞いて、彫刻とはそんなものか、それなら誰にでもできる、と思った主人公が、自分も仁王像を彫ってみたくなり、早速家に帰ってノミと槌を取り出し、木に挑むが、むろん仁王像が彫れるわけもない。積んである薪を片っ端から彫ったが、「遂に明治の木には到底仁王は埋まっていないものだと悟った」とボヤく話である。  私が、この『夢十夜』を紹介するのにはもちろん理由がある。 「昭和の大仏師」と讃えられた松久朋琳師は、晩年七十歳を過ぎた頃から、ようやく仏さんと出会えるようになった、と述懐し、 木の中の 仏迎える ノミの技  という一句をよく口にするようになった。  無心にノミを入れていくうちに、いつの間にか仏の顔に、手に、足にとふれていく。朋琳師が六十年余の仏師体験から自然に会得したものは、仏像はつくるものではなく、木の中におわす仏を、現世にかたちあらしめるべくお迎えする、という悟りだった。そして、松久朋琳師は「仁王の松久」といわれ、「昭和の運慶」と賞讃される大仏師となった。  漱石が頭脳と創造力で喝破した運慶の「大自在の妙境」と朋琳師が六十年余の体験から悟入した境地は、見事に一致していたわけだ。私はそこに霊妙なる奥深さを感じる。 「現代の運慶」と自他ともに許す朋琳師は、仏像の魅力は、どちらかというとノミのあとが残っている「荒彫り」にあるという考え方だったが、その子息でやはり「現代の快慶」と讃えられた松久宗琳師は、端正で優美、玲瓏な作風を特色とした。  現代にあって、ともに苦心惨憺して協力し合い、藤原時代に宇治平等院鳳凰堂の阿弥陀如来像をつくった大仏師定朝が編み出した「寄木《よせぎ》造り」という工法を再現し、また鎌倉時代に東大寺の仁王像をつくった運慶、快慶らの「賽割《さいわ》り法」という新技法を復元して、「現代の大仏師」として数々のすぐれた仏像を彫ってきたこの松久朋琳・宗琳父子が、やがて決定的に対立していく。  それはもう父子というより、仏師と仏師の凄絶な闘いだった。わが身一つ、ノミ一本あればいいという「魂の自由人」となった朋琳師と運慶一門のように「現代の仏所」をつくろうと努力する宗琳師は、宗琳師が現在の中京区御幸町通三条下ルに「仏像彫刻会館」を建設したことで悲劇的な破局を迎える。 「仏師が金儲けの商売人みたいなことをして、おまえ、いったい何を考えとるんや。それで仏さんが喜ぶと思っとんのか。このアホ」  父は子を罵倒し、子は父に反撥した。 「今はお父ちゃんの時代と違うんやで。立派な仏像をつくるためには、後継者の仏師たちをたくさん育てなければならん。現代にマッチしたやり方が大事なんや」  対立は憎悪となり、この父子は、朋琳師が昭和六十二年(一九八七年)九月一日に八十六歳の生涯を閉じるまで、遂に和解することはなかった。 「仏師の業《ごう》かも知らん。ぼくは父にとって第一の敵になってしもた」  宗琳師が呟いたこの言葉を、私は今、切なく胸に甦らせている。ともに大仏師であったがゆえに、避けがたい凄絶な闘いだったのか、まことに痛哭のドラマを秘めた父子という他はない。  仏像は、芸術的な美や感動を与える以上に、「大慈大悲」をたたえ、人の心に崇高な宗教的感情を呼びさまさなければ名作とはいえないが、そうした仏像を彫りあげる仏師の内面が父子の凄絶な葛藤と修羅に満ちていることを知った私の驚きは複雑な異和感があった。  私は、仏師は澄明な心境でのみ仏像を彫りあげることができるのだろう、と漠然と思っていたからだが、今は松久父子に言うに言われぬ修羅の闘いがあったからこそ、人間的苦悩を超越した宗教的世界に到達しえたのだと考えている。それが本書の主要なテーマでもある。  父の朋琳師が亡くなってから五年後の平成四年(一九九二年)三月十六日、子の宗琳師も心筋梗塞のために急逝した。六十六歳の生涯だった。  宗琳師には芳子夫人との間に二人の娘がいる。長女真やさん(昭和二十九年生まれ)は、父宗琳師の薫陶を受けて「截金《きりがね》」の道を進み、成田山新勝寺の五大明王及五智如来などの宗琳作の仏像に截金をほどこす作品を完成させている。  次女佳遊さん(昭和三十五年生まれ)は、もともと仏画を描いていたが、父宗琳師の死去により、「松久宗琳仏所」所長、宗教芸術院院長、松久仏像彫刻会館館長に就任し、自らも仏像を彫るようになった。  京仏師の正統派を継ぐ松久家は、丈五郎—朋琳—宗琳と三代続く仏師の家系だったが、ここに四代目の女仏師が誕生、「平成の仏像」をつくっていくことになった。 「松久宗琳仏所」には、宗琳師が遺した数多くの仏像彫刻の原型と膨大な資料がある。これこそ宗琳師が父朋琳師に叛逆してまで遺した遺産だったが、今この「現代の仏所」では佳遊さん、真やさんら遺児を中心にして、東朋正、柚山宗寛、梅澤宗信といったお弟子さんたちが、宗琳師がめざした正統派の仏像づくりに精進している。  京都を訪れる愉しみの一つは、宗琳師に仏像づくりの奥儀を聞き、時として酒を酌み交わすことだったが、それも今はかなわなくなった。京仏師の伝統をひたすら受け継ぐ「松久宗琳仏所」のさらなる精進と発展を祈るばかりである。  本書の文庫化にあたっては、原題『日本人の魂を彫る——「夢の王国」をもとめた松久朋琳・宗琳の心の遍歴』を表記のように改題したことをおことわりしておく。例によって、講談社文庫出版部部長・中澤義彦氏、担当してくれた玉井恵子氏のお世話になった。心から感謝の意を表したい。  昨年は、狂信的なカルト集団の犯罪が日本中を恐怖の底に突き落とし、世界をも震撼させたが、ある意味では、宗教とは何か、というその本質が問われた年でもある。既成の宗教も存在意義を問われたが、私自身は宗教の本義は「大慈大悲」にあると考える。それをこの世に具現化したものが、仏師が心魂をこめて彫りあげた崇高、至純な仏像に他ならない。  その仏像に「浄土の象徴」を託してノミをふるう仏師の内面とはどんなものなのか。本書は、「現代の運慶・快慶」と称された松久朋琳・宗琳父子がそれぞれの「心の王国」を求めて苦悩し、魂の遍歴を続けた葛藤の物語である。  そして同時にこれは、「仏」(神)を見失っている私たちの心の問題でもある。   平成八年一月吉日 [#地付き]長尾三郎   引用・参考文献 『京仏師六十年』(松久朋琳著 日貿出版社) 『仏像を彫る』(松久朋琳著 新人物往来社) 『仏の声を彫る』(松久朋琳著 日本教文社) 『御手の上にて』(松久朋琳著 日本教文社) 『人に会う 仏に会う』(松久朋琳・田中忠雄対談録 日本教文社) 『木のこころ 仏のこころ』(松久朋琳・西岡常一・青山茂共著 春秋社) 『仏像彫刻のすすめ』(松久朋琳著 日貿出版社) 『続・仏像彫刻のすすめ』(松久朋琳、宗琳著 日貿出版社) 『仏像彫刻の技法』(松久朋琳監修・宗琳著 日貿出版社) 『新しい仏像彫刻』(松久宗琳著 日貿出版社) 『截金の技法』(松久宗琳著 真也指導 日貿出版社) 『丈六仏開眼』(出口常順・松久朋琳監修 四天王寺「丈六仏開眼」刊行会) 『大仏師松久朋琳・宗琳』(駒澤晃写真集 春秋社) 『一仏一会』(駒澤晃写真集 日本教文社) 『祈りの造形』(西村公朝著 日本放送出版協会) 『仏像の再発見』(西村公朝著 吉川弘文館) 『仏像 心とかたち』(正・続、望月信成・佐和隆研・梅原猛共著 日本放送出版協会) 『日本人と木の文化』(小原二郎著 朝日出版社) 『仏像の歴史』(久野健著 山川出版社) 『小川半次郎の生涯』(大岸佐吉著 春秋社) 『京仏師』(山崎しげ子著 東方出版) 『河井寛次郎』(現代の巨匠シリーズ、乾由明編 講談社) 『若狭幻想』(水上勉著、水上勉全集21 中央公論社) 『父、松久朋琳の思い出』(堀内真百美  『一滴』第8号・第9号所載) 『仏師の系譜』(佐藤昭夫著 淡交社) 『仏像彫刻』(朋珍恒男著 スズカケ出版部) 『東大寺と平城京』(講談社) 『大仏師快慶』(奈良国立博物館) 『比叡山と天台仏教の研究』(村山修一編 名著出版) 『柳宗悦』(水尾比呂志著 講談社) 『死後の生存の科学』(笠原敏雄編・著 叢文社) 『光の彼方に』(レイモンド・ムーディ著、笠原敏雄・河口慶子訳 TBSブリタニカ)  そのほか 『天理教』(浜田泰三著 講談社)、『比叡山』(渡辺守順・坂本広博・木内尭央・武覚超・天納伝中・水上文義共著 法蔵館)、『生命の実相』(谷口雅春著 日本教文社)、『古寺巡礼西国3四天王寺』(井上靖・佐和隆研監修・宮本輝・出口常順共著 淡交社)、『古寺巡礼奈良15薬師寺』(井上靖・塚本善隆監修・大岡信・安田暎胤共著 淡交社)、『NHK国宝への旅』(各シリーズ、NHK取材班著 日本放送出版協会)、 『日本百名刹歳時記』(窪寺紘一著 世界聖典刊行協会)、『夢十夜』(夏目漱石著 岩波書店)、 『古寺巡礼』(和辻哲郎著 岩波書店)、『ロダンの言葉抄』(高村光太郎訳、高田博厚・菊池一雄編 岩波書店)、『現代民芸論』(水尾比呂志著 新潮社)など。  辞典は 『仏像巡礼事典』(久野健著 山川出版社)、『新・仏教辞典』(中村元監修 誠信書房)、『新宗教事典』(井上順孝他編 弘文堂)、 『昭和史事典』(昭和史研究会編 講談社)、ほかに 『昭和史の瞬間』(上・下、朝日ジャーナル編 朝日新聞社)、『京都』『奈良』(いずれも日本交通公社出版事業局)、『毘沙門堂門跡』などの各寺の小冊子を参考にした。  なお、引用書は読者が入手しやすいものを心がけたことを付記する。 単行本 一九九〇年一〇月、小社刊 原題 『日本人の魂を彫る——「夢の王国」をもとめた松久朋琳・宗琳の心の遍歴』 講談社文庫版 一九九六年二月刊